半魚人のファタール
磐長怜(いわなが れい)
半魚人のファタール
それは、ひどく蒼い鱗であった。初夏の夕は明るく、カーテンを引いた自室でその人は仙骨部の色をそっとしまった。盛りを過ぎた体は不思議な引き締まりも覚えていて、蒼はごく控えめに偏光を放って肌に馴染んでいた。東山魁夷を思わせる、静謐の蒼。
「半年で、一枚だけ?」
「いつ、急に増えるかわからないって聞いた。……今なら仕事も忙しくないし」
思わず笑いが漏れた。周りに迷惑をかけるのを極端に恐れる、優しさと自己肯定感の低さがかわいかった。
「笑い事じゃないよ」
笑うしかない出来事ではあった。数年前から、世界中の働き盛り、主に三十代以降の人間に鱗の生える奇病が発生している。海外の例では、いずれ完全に魚になってしまうという。その前に海に飛び込んだ――『還った者』と呼ばれている――がどうやって海に行ったのか、どうなったかは
やっと陸に上がったのに、人類はまだ海に還りたいらしい。日本でも失踪者が増え、死んだのか海に還ったのかもわからない。研究は遅々として進まず、経済はもともと悪化の一途、政府は納税者と面倒ごとを天秤に掛け、処遇を決めあぐねていた。
「あの、さ」
控えめな声が耳に触れた。蒼い鱗を見たからには、こちらも誠意を示さなければならない。
「うん。私のは……汚い色だよ。数が多いし、驚くかも」
返事を待たずに身ごろを一息に明けた。
「三ヶ月でこうなった」
「……三ヶ月」
何もかも個人差だった。鱗も、色も、速度も。
苦痛は分かるから、甘い希望を飲み込み努めて明るく言う。
「どの海にするかは見当つけてるんだ」
蒼い鱗には樹海も、透き通るような美しい海も似合うだろう。森には白馬がいるなら、海には何がいるだろう。ジュゴンか。赤茶けたこの鱗とは、還る場所あるいはルーツが違うのだろうと感じる。
「どこ?」
詰問であり、すがるような目だった。逸らした
「連れて行かないよ」
「……ひとりで?」
たった一枚の蒼を、半年かけて
(君が決意せざるを得ない頃には、例えば、偏見もなくなって、特効薬だって)
「ひとりで?」
繰り返す君の眼が見据える。今誘えば、これからの君の苦しみを引き取れるのか。自己欺瞞が膨れ上がる。死ぬのか、生まれ変わるのか。人間とは比較にならない速さで核が変わることを、自分は受け入れなくてはならない。けれど君は。きつく目を閉じる。映るな。
暮れなずんでいた空に夜の色が侵食を始めていた。
「連れて行ってよ」
君が笑う。感情が食道を逆流する。
言わせたことが情けなくて辛くて嬉しかった。君が妙に優しいのがいけなかった。君が特別になってしまったから、私は苦しくて、嬉しくて、惨めだ。
薄汚い涙が瞼の隙間からぼつぼつ垂れて、歯を食いしばった。明らかな恥が嗚咽になった。
しかし、なぜ、こんな風に辱められなければならなかったか。
ひとしきり晒してしまうと、妙にさっぱりした。人間の成分が出てしまったのかもしれない。
「一緒に生まれ変わろうか」
結局誘った。
「どこの海にするつもりだった?」
「地元。でもやめた」
「それならどこにする?」
「沖縄にしようよ」
「いいね。行きたいと思ってた」
手早く沖縄行きの飛行機をとってしまう。
「行こうか」
「うん」
君の腕をとる。謝らない。夜空にはまだ半分の明るさが残る。君がさめる前に連れて行く。
半魚人のファタール 磐長怜(いわなが れい) @syouhenya
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