ですから、灼けました

文学少女

STRANGE POP

   ※※※


 僕というものについて考えるとき、いつも僕の頭に浮かんでくるのは、幼い頃、一人で積み木遊びをしている記憶だった。


   ※※※


 天気予報は曇りだったし、家を出るときも雨は降っていなかったから、僕は傘を持たずに家を出たが、駅を出たときには横殴りの雨が降っていた。白い靄の塊が空中に縞模様を描きながら、雨は風によって横に運ばれ、落ちていく。仕方ないので、僕は傘を差さずに大学に向かった。歩道は雨に濡れ、黒く湿っている中で、その道の端には雨によって散ってしまった淡い黄色の銀杏の枯葉がへばりついていた。顔に冷たい雨を受けつつ、僕はその歩道を進んでいく。まつげに雫が乗って、その透明で綺麗な塊が視界の隅にぼんやりと浮かんでいた。正門には学校銘板の横で写真を撮っている人がいたから、それを避けつつ正門を通った。目の前には銀杏の樹がそびえ立っていて、全身に黄色を身にまとっているその様は美しかった。陰鬱な雨の中、美しくそびえ立つ銀杏の樹を見ていると、強烈な不能感が上から下に僕を押さえつけた。不能感、いや、倦怠感とも言うべき、その、僕を抑えつける何かは、僕が小説を書けなくなったことによるものだった。小説が書けなくなった時期は明確にある。それは、僕が二十歳になってからだ。アデン・アラビアの「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。」という書き出しが、今の僕には、皮肉のように襲い掛かってくる。

 授業のある教室に向かう途中、僕を襲う倦怠感は、ますます強烈になっていく。僕の中で、ぎりぎりで均衡を保っていた糸のような何かが、ぷつんと切れてしまった。形を保っていた僕のからだやこころが崩壊していく。もうその崩壊を僕は止めることが出来ない。ぱらぱら、ぱらぱらと、僕のこころが、砕けて、崩壊していくのを、僕は眺めている。暗闇の中で、ガラスの器が、ひとりでに、ばらばらになっていく。雨で散らされ、地面に散っていく銀杏の枯葉のようだ。僕も、銀杏の枯葉と同じように、濡れた地面にへばりついて、きれいに死にたい。僕は何をしているのだろう。このまま進んで、授業を受けて、一体、僕はどうしたいのだろう。よくわからない。体がどんどん重くなっていく。こころは空っぽになっていく。僕は反対方向に歩き始めた。大学のすべての人から目をそらして、一刻も早くこの空間から抜け出したくて、僕は足早にキャンパスを抜け出した。

 駅で電車を待っているとき、線路にできていた、茶色の、泥水の水たまりに目が吸い込まれた。あの泥の水たまりは、僕が線路に飛び込むことを待っているようだった。


   ※※※


 周りの人たちがみな友達と楽しそうに遊んでいる中で、僕は、緑色の長方形の積み木の上に、赤色の三角錐の積み木を重ねて、積み木の城を熱心に築き、僕の世界に没頭していた。今でも僕というものを貫いているのは、この積木の城の記憶で、閉鎖的な僕の世界だった。


   ※※※


 僕は池袋駅で降りて、コンビニで傘を買った。駅を出ると、灰色の都会が輪郭をぼやかしていた。雨の池袋は重苦しい。大きな雨粒が、地面に勢いよく叩きつけられる。雨が轟いている。狂ったような雨だ。この雨は、激しい怒りだろうか。深い悲しみだろうか。胸が張り裂けるような恋慕だろうか。湿ったアスファルトの匂いが充満し、空は、分厚い鼠色の雲が覆っている。僕を、閉じ込めている。閉塞感が、匂いが、僕を苦しめる。気管支が、ぐっ、と握りしめられているかのような苦しみだ。なんだか、呼吸がしづらい。濡れた地面は、池袋の街並みを反射して、地面に映し出し、そのぼやけた街並みは雨粒で揺れる。輪郭がゆらゆらと動く。通り過ぎてゆく車のエンジン音の響きは、鼠色の雲に吸い込まれる。

 雨の湿った空気が、僕にべったりと纏わりつく。その冷たく、湿って、重苦しい空気は、僕を地面へとゆっくりと押しているようだ。僕はここにずっと立っていたら、地面にめり込んでゆき、この世界から消えてしまうのではないかと思った。駅の入り口から、雨の池袋を眺めていた。人が多い。広告がこれでもかと僕の目に飛び込んでくる。家に帰る気にもなれない僕は喫茶店に向かった。西口から少し歩いたところにある、席でたばこが吸える喫茶店だった。

 紅茶を注文して、たばこに火をつけた。リュックから何冊かの本を取り出して、机に置いた。太宰治の「晩年」、カフカの「審判」、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」。僕はたばこを吸いながら、どの本を読もうかとそれらの本を眺めていたが、なぜだか、どれも読む気が起きなかった。試しに「晩年」を手に取って読み進めようとしてみたが、文章がまったく頭に入って来ず、嫌になって僕は本を閉じた。思いっきり煙を吸って、吐いた。体の中にある嫌なものを、全部、吐き出すみたいに。でも、まただ。僕の頭に黒い憂鬱が侵食してきて、頭が重くなっていく。紅茶を飲んで、吸えなくなったたばこを灰皿に擦り付けて、僕はまた一本たばこを取り出して、火をつけた。何か書こうと思って、パソコンを取り出した。パソコンを開いて、その画面を見つめていたが、何も文章が浮かんでこなかった。何かを書こうと考えれば考えるほど、僕の頭の中に、あの、黒い憂鬱が入り込んでくる。頭が重くなってゆく。僕はパソコンの画面を眺めながら、ただ、たばこを吸っていた。僕の考えは声にならず、文字にもならず、時間は過ぎていった。何も、できないまま。


   ※※※


 僕は、僕の世界という殻の中に閉じこもり、城を築いていた。僕の世界とはボルヘスの「バベルの図書館」で、ダンテの「神曲」の九階層の地獄で、カポーティの「夜の樹」の列車で、カフカの「変身」の部屋で、安倍公房の「箱男」の箱だった。


   ※※※


 時計は、午前0時を知らせる音楽を奏で、静かな部屋に、その、美しく悲しい音色を満たし、今日がもう終わったこと、もう眠らなければならないことを、僕に押し付ける。オレンジの豆電球がかすかな灯りを灰色の部屋に滲ませている中で、布団に潜りこみ、瞼を閉じている僕は、疲れた体と、疲れた精神を休ませようと、早く眠りにつくことを祈り続けるが、心臓の鼓動は、どくどくと、早く、大きく動き始め、より一層、眼が冴えていき、眠りからどんどん遠のいていき、今日も眠れないのかという絶望が、僕を襲い始める。身を焦がすようなさみしさが、燃える。

「さみしい?」

「さみしい?」

「さみしい?笑」

 風のような、雑音のような声が、ふっと、僕の鼓膜に入り込んでくる。身の毛がよだつような寒気で、びくっ、と体が震える。さみしさという、実体もつかめない、解放されるのかもわからない、どうしようもないものに苦しめられ続けていることが馬鹿らしくなってきて、少し、口角が上がる。

「さみしい?笑」

「お前はそれを作品に書いて、何がしたいんだ?笑」

「同情されたいのか?笑」

 うるさい。もう喋らないでくれ。笑わないでくれ。どこから聞こえてくるのか分からない笑い声が頭の中でキンキンと響く。やめて……。僕が一番、分かってるんだ。この感情の、そして、自分の愚かさを。胸にくっついている左腕に、僕の心臓がどくどくと大きく動いているのが、はっきりと、伝わる。心臓は動くことをやめてくれない。眠りたいのに。静かでいたいのに。休みたいのに。僕はただ眠りたい。静かに、安らかに、眠りたい。静かな世界と、静かな精神を望み続けているのに、僕の心臓は動き続け、精神は削れていく。

「臆病」

「最悪」

「最低」

「ゴミ」

「お前のせいだ」

「お前のせいだ」

「お前のせいだ」

 雑音のようなおぞましい声は止まない。この声は僕の神経を蝕み続けていて、ぎり、ぎり、と、精神がギザギザの刃物で削られているようで、僕は、眠ることも、起きることもできない、本当に何もできない人間になって、そのおぞましい声が止むことを祈り続けるだけの廃人になる。僕はどうしてこうなってしまったのだろう。いや、なぜこう生まれてしまったのだろう。静かに生きたいだけなのに。

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「お前なんて死ねばいいのに」

 こころという結晶が、粉々に崩れていく。呼吸が浅くなって、息が苦しくなっていく。どうやって呼吸すればいいんだ? 僕は今吸い過ぎているのか? 吐きすぎているのか? 無理やりの深呼吸で、なんとか息を整えようとする。僕はどうしてこんなにも醜く生まれてしまったのだろう。もっときれいな美しいこころを持ちたかった。こころが切り裂かれて、得体のしれない何かが僕を殴る。苦しい。君の幸せを願いながら、君を不幸にしていた僕が、許せない。けれど、僕のこころは、僕の頭や体から離れて、暴れて、僕を内側から刺して、刺して、刺して、傷つけていく。こころは僕のことを無視して、暴れる。苦しい。こんな風に生まれてしまったことが、苦しい。僕は一生、この、こころというものに支配されて、僕の体を痛めつけられながら生きていくのだろうか。この醜いこころを僕から切り離して、灼いてしまいたい。こんなものが、なければいいのに。そうすれば、君を不幸にすることもなかったし、僕が苦しむこともなくなるだろうに。僕がこんな風に生まれたことがすべての間違いだった。強迫観念に取り憑かれて、何も言えない僕は、しずかに、壊れることしかできない。普通の人になれたらよかった。ぼくにさわらないでください ぼくにふれないでください ぼくのそばにいないでください ぼくにちかづかないでください ぼくをひとりにしてください ぼくとはなさないでください ぼくをみないでください ぼくをしらないでください ぼくとかかわらないでください ぼくとなかよくしないでください ぼくをほうっておいてください ぼくのところにこないでください ぼくにはなしかけないでください ぼくのてをにぎらないでください ぼくをだきしめないでください ぼくのめをみないでください ぼくにやさしくしないでください ぼくにあたたかくしないでください ぼくにわらいかけてこないでください ぼくをあいさないでください ぼくをみつめないでください ぼくをゆるさないでください ぼくをうけいれないでください ぼくをみとめないでください ぼくをなぐさめないでください ぼくのとなりにいないでください ぼくによりそわないでください ぼくをすきにならないでください ぼくのほおにふれないでください ぼくのことなどかんがえないでください ぼくのことなどわすれてください



 ぜんぶ うそです



   ※※※


 僕にとって小説を書くということは、幼い頃の積み木遊びように、僕の城を築くことに他ならなかった。僕の中にいる幼い頃の僕は、今でも熱心に積み木で城を築いている。僕だけの世界。安らぎの世界。真っ暗で、確かに塞がれているのだが、闇はどこまでも無限に続いていて、一本の蝋燭が、朱色の光をさみしく灯している。僕は、僕の城を破壊することが出来なかった。破壊したいと望んで、破壊されたいと望んで、僕はひとりでただ一本の蝋燭を眺めていた。


   ※※※


 起きると、雨は止んでいた。頭はぼやけていて、重くて、意識をはっきりさせるのに時間がかかった。カーテンを開けると、部屋に太陽の光が広がった。雨に洗われた青空は、清潔で、澄んでいた。ほんの少し、気分が良かった。今日は、授業に出ようと思った。二限には間に合わないから、三限の時間を目指して、ゆっくりと支度をして、家を出た。

 大学に着き、授業まで時間があった僕は、喫煙所に向かった。授業中の喫煙所は人が少なくて、好きだった。僕は、空を見上げながら、たばこを吸っていた。その空は、秋を物語るような、雲一つない、どこまでも澄み渡っている、透き通った水色の青空だった。あまりにも透明だったから、その空は手ですくった海のように見えて、僕は、あの青空を泳げるように思えた。雲は、空に浮かんでいるのではなく、空を、ゆらゆらと、ゆっくり、優雅に泳いでいるのかもしれない。青空を泳ぐ、という言葉で、僕は坂口安吾の「ふるさとに寄する讃歌」を思い出していた。美しい作品だった。木々についている葉は、黄色や、淡い紅に染まっていて、葉を散らした木々は、触れれば、すぐに粉々になってしまうように思えるほど、細く、頼りない枝を透明な青空に向かってのばし、毛細血管のように広げている。すると、木が、地球の血管のように思えた。小鳥のさえずりが、静かな世界の中で美しく響き渡り、もつれあって、世界に染み込んでいた。ぴよぴよと鳴く声。ぴーと鳴く声。いろんな美しい鳥の鳴き声が、混ざって、響き、秋を歌っていた。太陽の光が、枝が重なり合う隙間を射し、白い木漏れ日が、地面に点々と広がっていて、その木漏れ日に照らされた羽虫は、黄金色に輝き、澄んだ空気の中を舞い、踊っている。美しい光景だった。そして、枯葉が落ちてきた。


 その枯葉は、僕が人生で見てきた中で、最も美しい落ち方をした。


 とても高いところから、その枯葉は落ちてきた。全身に空気抵抗を受けながら、ゆっくりと、静かに落ちてきて、そして、ゆったりと、ふわふわと回転しながら、枯葉が積もるわびしい地面に向かってまっすぐに落ちて来るその枯葉は、なんだか、切なく、悲しくて、その悲しさが、とても、美しかった。僕は、その枯葉に目を奪われ、たばこを吸う手を止め、ただ、その枯葉を、見つめていた。その枯葉は、音もなく、そっと、地面に落ちた。枯葉が積もる、その間を縫うように、茶色の土の上に、ぽつんと、枯葉は佇んでいた。その枯葉のために、周りの枯葉が皆、そこを空けておいたような、そんな光景だった。褐色のその枯葉は、どこも欠けておらず、穴もなく、葉の形を、しっかりとそのまま保っていた。葉脈は、より深く、暗い褐色に染まっている。僕は、その、地面に落ちた枯葉を、そのまま見つめていた。いつのまにか、火種が手元にのぼってきていて、たばこを挟んでいる人差し指と中指の、第一関節と第二関節の間に熱を感じ、僕はあわてて灰皿にたばこを押し付け、火を消した。相変わらず、鳥は、美しい鳴き声を世界に響かせている。葉を散らした細い木の枝の、その奥に、透明な青空が広がっている。僕が感じたのは、暗い絶望だった。

 たばこの煙でぼんやりとした頭は、ふわふわとしていて、それでいて強烈な、死にたいという衝動を僕にもたらす。僕はそれをかき消そうと、後ろの壁に頭をがんがんと打ち付ける。幼い頃、母親に「人前でやらないようにね」と、悲しそうな顔をしながら𠮟られた、嫌な癖だった。ぼんやりと僕の頭を覆っていた衝動がかき消されて、頭はすっきりとして、冴える。疲れた。ずっと、眠ることはできないだろうか? そんな僕の視界に、一匹の蝶が映った。それは真っ白な紋白蝶だった。この季節にはいないはずなのに、どうして、今僕の目の前で紋白蝶は羽ばたいているのだろう。僕は夢を見ているのだろうか?

 地面の近くでゆるやかに踊っていた紋白蝶は、空へと昇って行った。青空を舞う紋白蝶を眺めていると、だんだんと、僕は、あの、真っ白な紋白蝶になっていくような気がした。僕が紋白蝶を眺めているのではない。青空で泳ぐこの僕が、下から見られているのだ。紋白蝶になって、太陽をめがけて羽ばたき、イカロスのように羽を太陽に灼かれて、よだかのように、青白い星になってかがやくんだ!



 ですから灼けました

 ですから灼けました

 ですから灼けました

 ですから灼けました

 ですから灼けました

 ですから灼けました

 ですから灼けました

 ですから灼けました

 ですから灼けました

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ですから、灼けました 文学少女 @asao22

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ