やがてシーソーは傾く
ユーライ
act.1 街に獣の爪痕を
写真には、二人の男女が映っていた。モノクロで画質は不鮮明だが、何処かの繁華街にあるラブホテルへと消えていく瞬間を捉えている。いかにも仲睦まじそうな様子だった。
「これって……」
「あんたの睨んだ通り、奥さんは男作ってた。ホテルに行くのだってそれが初めてじゃない」
浮気の証拠写真を見、間抜けた声を上げる元同僚に向かって工藤由美は投げやりに言った。窓に掛かっているブラインドから僅かに陽光が漏れている。ポケットから煙草を取り出そうとしたが、入っていなかった。禁煙を始めて半年、長年の習性で染みついた癖は消えない。
この世の終わりのような顔をしている現職刑事の成田和彦は、生来の弱気で宮仕えが本質的に向いていない万年巡査だったが、ある時<工藤探偵社>のドアを叩いて曰く「妻が浮気をしているようなんです、助けてください工藤さん」。退官後に言いふらした訳でもないのにどういうツテを伝ったのか定かではないが、探偵まがいをやっている噂はとっくに広まっていたらしい。
調査料金は一日十五万円プラス経費。期間は一週間。夫人を尾行し始めて三日後に都営新宿線を使った時は、旦那の仕事場からもそれほど離れていないというのにまさか、とは思った。
「僕は自分なりに家内のことを大事にしてきたつもりなんです。なにがいけなかったんですか」
周りが皆コンビニで昼食を済ます中、毎日甲斐甲斐しく弁当を持参するのはいいが、いつ何時に呼び出しがかかるか分からない。飯は簡素に済ますべしという暗黙の了解に逆らい、羨望と嫉妬の視線を集めながらさして意に介す様子も無かったのは愛妻の成せる業だったか。いつまで経っても殺しの現場に慣れず、成田が毎回吐いていたことを工藤は思い出していた。
「それは帰ってから奥さんと話して。あんたが望むなら慰謝料を請求する裁判を起こしてもいい。言うまでもなく更に費用は嵩むし時間もかかる。どうする?」
「ご存じの通り安月給ですよ」
「そーそー、毎月取り立てが大変なんだから!」
大人の会話をしている最中に、場違いな一声が割り込んできた。珍しく押し黙っていると思ったらこれだ。
「愛衣は余計なこと言わんでいい」
「だって本当だし。昨日だって帰って来る時に大家の佐藤さんに鉢合わせて睨まれたし」
「……このコ、本当に先輩の妹なんすか?」
横槍を入れられた成田は、訝し気な様子で工藤の隣に座っている内田愛衣を見る。そこら辺を歩いても一顧だにされない平凡なルックスの工藤と、身長173cmに金髪で日本人離れしている愛衣はとてもじゃないが姉妹に見えない。もちろん説明するのを面倒臭がる工藤の大嘘だったが、公務員には話せない一身上の都合もある。半年前に出会ってからは<工藤探偵社>唯一の自称、助手だった。澄ました顔をしていれば血統書付きのシャム猫、口を開けば涎を垂らした秋田犬。良く食べて良く寝る推定十代後半の相手は、三十路の工藤にとって赤子の世話と大差なかった。
これ以上突っ込まれてもボロが出るだけなので、工藤は「探偵の身の上を詮索するな」と適当に誤魔化した。問題は調査を継続させる気があるのか否か、だ。
「で、乗るか降りるか。答えは」
「裁判なんてやりませんよ。シロのつもりだったんですから……」
成田はいよいよ鼻声ですすり泣きを始める。家内を信じているならわざわざ高い金を出して探偵社の扉を叩かなければいい。法外な見積もりを吹っ掛ける詐欺まがいの手合いがゴロゴロしている業界にあって、信頼出来る優良は片手で数えられる。だからこそ成田は知り合いである工藤を頼った。しかし商売である以上、法を順守する正義の味方であるはずもなし。
独演会の気配を遮り工藤が提示したのは、「じゃあ調査日数プラス経費で九十万」という料金表に上乗せしたギャランティだった。
「由美ちゃん、それ――」と突っ込む愛衣の口を押さえながら有無を言わさず、以前の上司・部下の関係性に基づく恫喝を行う。成田は泣き顔を更に歪ませ酌量の余地を作ったが、早々に使い走りをやらされていた時分に戻り、バッグからそそくさと現金の入った封筒を差し出した。受け取った工藤は枚数を確かめながら「証拠物諸々はちゃんと処分するから」と返す。
最早神も仏もない、といった覚束ない足取りで成田は玄関へと向かっていった。別に恨みはないが、せっかくの収入を逃すわけにもいかない。のとのろと靴を履き替える後ろ姿を見やっていると、言い忘れていたことを思い出したように振り返り「妹さんの右手に何かあるんですか?」と訊いてきた。
愛衣が反射的にこちらへ目配せする。愛衣の右手は、黒い手袋で覆われていた。手首まですっぽりと収まるそれは、特に外傷も見当たらない中にあって殊更際立ったのだろう。工藤は頷き、「特に何も。気になった?」と無表情を作る。
「いや、怪我の割には無頓着そうだったので」腐っても刑事らしい存外鋭い着眼点と言えたが、真実は話せない。「あんたは知らないだろうけど、こういうのが今流行りなんだって」。
いかにもはぐらかした返答に対し、成田は憮然とした表情のまま「そうですか……」と呟き、今度こそドアを開け出て行った。同時に、大都会・東京の喧噪が室内に飛び込んでくる。人々の足音、話し声。絶え間なく続く電車と車の走行音。副都心・新宿の駅近で安価と言えば聞こえはいいが、この床鳴りのするボロアパートこそ、工藤由美と内田愛衣の住まう自宅兼仕事場である<工藤探偵社>なのだった。
「ねえ由美ちゃん、今のは酷くなかった? 大人の男の人が泣いてるの初めて見たよ」
「酷くていいの。こっちは商売でやってるんだから」
リビングを応接間に仕立て一応は体裁を整えているが、看板も立てていないので傍目には探偵社かどうかも分からない。開業してまだ半年も経っていない新参に出来ることは地道な信頼獲得と貼り紙くらいのものだった。
「そんなことより、次の仕事。今十四時だから、あと二時間。本当に来るんだよね?」
工藤の疑いに愛衣は「間違いないよ。恵は友達なんだから」と言って頬を膨らませる。
暇潰しにゲーセンで遊んでいる時に出会い意気投合した、という話だったが、工藤には相手が女子高生であることまでしか聞かされていない。何度か会う内に友達を探してほしいと言われ二つ返事で引き受けた。何食わぬ顔で告げた愛衣を責めてもしょうがないが所詮子供相手、発生する金銭はたかが知れている。そもそも、支払えるのか。最近流行りのボランティア。慈善事業。
「どうしたの?」と思わず俯いていた顔を覗かれ、「何でもないよ」と工藤は応えた。どうにも甘やかしてしまっていけない。
「お邪魔しまーす」
おおよそ時間通りに現れた三輪恵の依頼は、連絡が取れない親友の行方というシンプルな人捜しだった。茶髪、ミニスカートの制服、ルーズソックスと定番のファッションに身を包んだ今時どこにでもいる女子高生の佇まいではある。愛衣の第一印象について、傍目にも目立つ外見だったからモデルかと思った、などと言いながらテーブルに置かれたパックの紅茶を遠慮なく啜り始めた。
「あのー、探偵さんは愛衣のオネーサンなんだっけ?」
「ええ、そうです」
「全然似てなくない?」
愛衣は首を捻り、それに合わせて工藤も適当な愛想笑いだった。遠回しに馬鹿にされている気もするが、依頼人の小娘相手に張り合ってもしょうがない。本日二回目の件を断ち切るように軽く咳払いすると、具体的な内容の聞き取りに移る。
調査対象・坂本香織は同じ都内の某校に通う幼馴染で、一週間程前から連絡が取れなくなったという。素行にそれらしい問題はなく、せいぜい校則で禁止されているアルバイトに精を出す程度。男がいる噂も立っていなかった。援助交際なんてもってのほか。グループの中では良心として扱われていたらしい。
「警察に届け出は出しましたか?」
「昔から親とは仲悪いみたいで……。私が遊びに行くのも嫌がってたし」
行方不明者の捜索は肉親が申願しなければ受理されない。犯罪に関わった証拠が無いと動きたがらない警察の体質は百も承知だったが、眼の前にいる相手の証言が信頼に値するかは別問題だった。年頃の女友達同士が、決して穏やかではない諍いを起こすこともある。新人類呼ばわりされていた頃から十年は経ち、若者が何をどう考えているかなど想像の中にしかないのも事実。
「で、放課後に別れた後から一切連絡が取れなくなった――」
「ポケベルにも繋がらないし、他校の子に相談しても知らないって」
ここ東京にあって、神隠しのように人が消えることは難しい。無数の眼があるし、どこに行っても監視カメラが作動している世の中だ。妥当なのは人攫い、商売道具に利用しているヤクザもしくは未満のチンピラが犯人か。とりあえず把握出来る限りの行動半径をメモする。
「了解しました」
「え、引き受けてくれるの?」
「ただし、一日ごとに報告書を出しますので、料金と合わせて応相談で」
愛衣が万歳するように両手を挙げて「良かったぁ」と呟く。愛衣の手前、邪険に断るのは選択肢に無い。時既に遅しかも知れなかったが、探偵として恰好を付けたい気分もある。
「よろしくお願いします」と敬語を使いながら三輪恵は頭を下げる。どうにも何かが引っ掛かる、と思った。脳と身体に刻まれている、刑事時代のカンが違和感を訴えていた。とまれ、何がどうという具体的な警報には至っていない。
高校周辺の聞き込みは愛衣に任せる。緊急事態用のポケベルを持たせ、二十時までには戻るよう言い含めると、工藤は坂本香織の実家がある江古田に向かった。
地球温暖化もいよいよ真実味を帯びてきたようで、九月になってもまだ日差しが強い。数日前に気温計を見ると、三十度を超えていた。昔はこの時期になれば多少は涼しくなっていたように思う。上京してきた時に一番驚いたのは、どこもかしこも空気が澱んでいることだった。一千万人が日々排出する老廃物を丸ごと呑み込んだ胃袋のような街に、メガロポリスを憧憬していた田舎娘の夢は覚めたのだったが、どんな状況においても一定の期間を経れば順応してしまうのが人間だ。路地裏でホームレスの吐瀉物に鼠が群がるのを目撃しても、今は無関心に通り過ぎるだけだった。
江古田駅周辺は武蔵野音楽大学、日本大学芸術学部等が集まる学生街と称されているだけあって若々しい活気に満ちている。木造の駅舎から商店街に入ると個人経営の喫茶店や定食屋が軒を連ね、昔ながらの風情を残していた。
狭い路地を何本か曲がっていった先に、坂本香織と両親の住むマンションがあった。三輪恵の話からすると共働きなのは間違いなく、今の時間に在宅している可能性は低かったが、当たってみないことには始まらない。
インターホンを何回か押してみるも、応答なし。当然鍵はかかっている。張り込みをやっても非効率なだけだ。隣室の住人への聞き込みに移る。中途半端に身分を偽るよりは、「探偵です」と名乗れば情報を提供してくれる場合も多い。数件回って得た情報は【両親とも帰りは遅い】【怒鳴り声が時折漏れ聞こえる】【娘の姿を最近見ない】。事前に予想した通り荒れた家庭環境のようだった。これ以上居座っても無駄と判断、池袋まで引き返す。
家出娘の夜遊びから導線を辿れば繁華街に行き着くしかない。夕闇が迫ると本性を現すかのようにキャバクラ、ホストクラブ、風俗店のネオンが瞬き、無数にいる客引きやチーマーの坩堝となる。西武百貨店とサンシャインシティが看板の東口はまだ良いが、西口に行くと石を投げれば暴力団傘下の店に当たる程には治安が悪い。更に北口は素性の知れない外国人グループが跋扈するアンダーグラウンドで、とてもじゃないが愛衣は連れて来られない十八禁の街だった。
三輪恵から預かった坂本香織の写真を片手に手当たり次第で聞き込んでいく。こうなれば刑事時代と大差はなく、這いずり回ってネタを追いかけるのが性分なのかも知れなかった。結局終電まで粘ってもヒットはなし。一日目の調査はそれまでだった。
*
眼にしている光景が理解出来ない。普段当たり前のように使っている地下鉄駅構内は、さながら戦場のようだった。
通報内容は「一斉に乗客が倒れた」「原因不明の中毒症状」といった曖昧なものであり、何故通勤ラッシュ中にこのような事態に陥ったのか誰も把握出来ていないに違いなかった。
発生源は営団地下鉄の丸ノ内線、日比谷線、千代田線の三路線に持ち込まれたビニール袋らしく、霞ヶ関も含まれていることから人為的なテロなのではないかと工藤は考えたが、結論を出すには何もかもが不明瞭に過ぎた。
眼を見開いたまま天井を仰臥している被害者は、つい先程まで仕事場に向かう普通の勤め人だった。刑事として臨場している職務倫理が揺らいでいくのを工藤は感じている。
警察官になりたい、と両親に言った時、父親が呟いた「女が警察官なんて世も末だ」の一言を覚えている。高校卒業後、製造業を転々とながら結婚し子供を作った男に言われる筋合いはなく、口論の果てに手が出るのを予感して早晩独り立ちしたのだったが、何故よりにもよって国家公務員なのか深く考えることはしなかった。数ある選択肢から警察官を選び取ったのは、多分一番分かり易かったからだ。善人が勝ち悪人は負ける世界が一番正しい、という子供っぽい素朴な価値観を信じていたし、一生を賭けるべき仕事ならばそういう世界に準ずるべき、と何の疑問も持たずに結論づけていた。
大学卒業後に警察官採用試験を受け警察学校に入校し、交番勤務を経た後、警視庁警察官採用試験に合格、警視庁へ。しかし、実際の警察官、否、刑事の職務は漠然と思い描いていたものではなかった。
長時間労働・不規則な勤務といった程度は想定内だったが、未だ厳然と存在する男性中心の社会で立ち回る気苦労の方が遥かに堪えた。性犯罪の事案を担当した際、被害者の心情に入れ込み過ぎて心身に変調をきたしたのは一度や二度ではない。上司は「割り切れ」の一辺倒だったが、割り切れるはずがなかった。ストレスに比して酒と煙草の量が増えていくのを止められない。
仮に今、直視している事案がテロ行為であった場合、自分が準じている“正義”の根拠はどこにあるのか。守ろうとしている市民が、国家に牙を剝き無差別に殺傷を行った場合は。
途端に吐き気を催し、工藤は防護服やマスクを着用している周囲の人垣をかき分けトイレへと直行した。これまでの無理が祟ったのか、有り得ない凄惨な光景が最後の一押しになったのか定かではないが、もう刑事を続けることは出来ない、と本能的に悟っていた。手直にあったトイレの個室を開ける。瞬間的に便器にうずくまろうとしたが、出来ない。
そこには、人がいた。女、というより少女と形容した方が正しい。骨が見えている瘦せ衰えた身体の上に、薄手のシャツとズボンのみを身に着けていた。首にはドッグタグがぶら下げてある。地毛と思われる金髪が汚れ煤けていた。
何より、特異なのはその右手。手首から先が荒々しい体毛に覆われ、爪が円を描いて尖っている。まるで狼のそれを人間に移植したようだった。
狭い個室の中に無理やり押し込まれている人影との出会いに、工藤は言葉を失った。何も考えられず嘔吐するのも忘れ、少女をただ見つめていた。その小さい口が、僅かに開く。
「……誰?」
*
秋葉原の電気街を辿って行った先に、目的地である雑居ビルはあった。
調査を始めて三日目、若者が足を向けそうな主要の繁華街でひたすら聞き込みを続け、露天商やホームレスまでしらみつぶしに回った結果、唯一得られたそれらしい証言が「秋葉原のブルセラショップで見た」という一見堅物そうなサラリーマンによるものだった。
最も後に続く「気がする」から甚だ信用には値しなかったが、兎にも角にも足を動かさなければどうしようもない。家電量販店やPCパーツ専門店が並ぶ昭和通りを抜けた先にその雑居ビルはあり、真昼間だというのに周囲はどこか陰気な空気が漂っていた。
表向きは【中古制服ショップ】【レアアイテムショップ】といった当たり障りのない看板を掲げているが、中身はアダルトショップと大差ない。女子高生の使用済みの制服、体操着から下着や日用品までが棚に陳列され、法外な値段にも関わらず一括払いで購入していく男共が後を絶たない。
店内を散策していると、客の一人が物珍しそうにこちらを見やった。女がこういう店に出入りするのがそんなに珍しいか。ビニール袋に梱包された制服には写真やプロフィールが同封されているものもある。一点ずつ確認していくと、確かに坂本香織と思われる少女の写真と制服のセットに値札を付けられているのを発見した。
すぐに手に取ってレジまで向かい「こういうのはどこから仕入れてるの?」と一応店主に訊いてみる。しかし、機械的にバーコードから値段を読み取った店主は「教えられないね。会員になればこの娘の連絡先くらいならいいよ」とにべもなかった。もちろんまともな答えは期待していない。が、失踪した坂本香織の私物が何故こんな場所にあるのか、は突き止めなければならない。
キャバクラ、ホストクラブといった水商売を主なシノギにしている進栄組は、昭和後期から歌舞伎町で影響力を持ち、九十年代に入ってから組織を“企業化”した。九十二年に施行された暴対法によって、ヤクザも相応の処世を余儀なくされたが進栄組も例外ではなく、表向きは「株式会社進栄プロダクション」など複数の関連会社を持つ。そんな重鎮がブルセラにまで手を出すのはあくまでも余興。そこから今後の資金源となる娘を探し当てるのが狙いなのだろう。秋葉原にあるのは支店に過ぎない。
灯台下暗し、更に二日を費やして歌舞伎町に点在する店を洗った結果、無許可営業や風営法違反で名高い地下にある某で坂本香織の出入りを目撃した。ぼったくりや閉じ込めが横行しており、いつ四課の検挙が入ってもおかしくない地帯だ。一丁目と二丁目の間にある花道通りに位置し、コマ劇場前などよりは危険度が高い。
入口が見える喫茶店に陣取り、注文したコーヒーを啜りながら愛衣に手順を再確認する。
「階段でエントランスに降りた後、愛衣にはお客のフリをしてもらう」
「で、その隙に由美ちゃんが監視カメラの死角を突いて、見張りの口を塞ぐ」
「討ち入りしようってんじゃないから、ターゲットを連れ出せれば即脱出。向こうも未成年を就労させている手前、深追いはしてこない」
こんな状況でもバニラのアイスクリームを頼んでのほほん、としている愛衣だったが、今日連れて来たのは念の為だ。もし想定外の事態が発生した場合の保険。
「由美ちゃん、黙らせるっていうけどホントに大丈夫?」
「元刑事ナめ過ぎ。散々打ち込みやらされたんだから……来た」
既に十九時を回りすっかり辺りが毒々しいネオンに染まっている中、店の前に一台のバンが停まった。嬢を詰め込んだ営業車の中に坂本香織もいる。頃合いを見計らった後、何食わぬ顔で喫茶店を出て闇が口を広げている地階へと下って行った。
「いらっしゃいませ」
タキシードを着込んだ若いボーイが、うやうやしく頭を下げる。エントランスには他に黒服が二人。何とか相手に出来る数だ。
愛衣がそれらしく客として振る舞っているのを横目に、工藤は手提げのバッグからスタンガンを取り出す。護身用の接触式で、電極を直接相手の体に当てれば数十万ボルトの高電圧でどんな大男だろうと動きを停止させられる。
一足飛びに踏み込むと、工藤は黒服に向かってスタンガンを押し当てた。タックルするように懐へ飛び込み、スイッチをオンにする。不意の事態に対応が遅れた黒服は、成すがまま御され床に伏した。後はもう一人。振り向き、後方を見る。突然、バックヤードのドアが開いた。舌打ちするが、ここで引く訳にもいかない。即座に二人目を狙おうとする。
再び足に力を入れた瞬間、何かで思い切り殴りつけられたような衝撃が走った。揺らぐ視界には、控室に繋がると思しきビロードの垂れ幕から新手が顔を出している。恐らく咄嗟に足元にあった消火器を投げつけたのだ。赤い血がカーペットに滴る。薄ら暗い間接照明の光が網膜に瞬くと、そのままテレビの電源を切るように意識がシャットアウトした。
初めに見えたのは、愛衣だった。傷を付けられていない様子の横顔は一寸西洋人形のような気品があり、工藤はしばし時間を忘れて見入った。口さえ開かなければこのまま眺めていても飽きないというのに。冷蔵庫に買い溜めた食品がいつのまにか空になっていたのは、この欠食児童のせいだ。
死んでいた脳に現実感が滲むように戻っていく。ぼったくりキャバクラに潜入して下手を打ち、無様に仲良くしてやられた。体内時計の感覚と照らし合わせてまだ日は跨いでいないはず。数台並んでいるロッカーから推察するに恐らくここは店のスタッフルームの一つで、捨て置かれているのは上に指示を仰ぎに行ったからか。両手は拘束され、身動きが取れない。複数の足音が僅かに響いてきた。眼を伏せる。
「で、コイツらどうします?」
「どーせ探偵気取りのコソ泥だから遠慮なく始末していいとのことだ。命知らずの連中だよ」
「何してもいいんですか?」
「殺しはするなよ。そこら辺に適当に捨てとけ……楽しむなら勝手にしろ」
男の話声。唾を飲み込む気配。このままなら万事休すだった。工藤自身、辱められた経験は無いが、その声共から刑事時代に経験した蔓延する蔑視を思い起こしている。そんな馬鹿なことがあってたまるか、と思う。毎日夜遅く帰宅する父の背広からどんな香水の匂いがしようと、一度も追及しなかった母。殺してやりたかった。醜い生き方だけはしたくないから刑事になった。
間近にあった愛衣の耳元に唇を寄せ、たった一言だけ、呟いた。
「解除」
どっ、と血が毛細を伝わり脈動する音が聴こえた。愛衣の右手が痙攣するようにわななくと、拘束はいともたやすく解かれる。手袋に裂け目が入り、獣のそれが露出した。両眼は血走り理性を彼方に置き去りにする。こうなったら誰にも止められない、否、工藤にしか扱えない一匹の獰猛な獣がそこにいた。肩まで落ちる金髪は、猛々しいたてがみのようだった。
何、と進栄組の男が異常を察知したが、もう遅い。愛衣は一瞬にして身を起こすと、チーターのように背骨を丸めたかと思えばそれをバネのようにして跳躍し、排除すべき敵へ向かって飛び掛かっていった。右手を力任せに振るい、数十キロはある体躯を簡単に薙ぎ倒していく。
連中は動揺する暇も無かった。取るに足らない女が突然豹変した説明が付かないまま、文字通りの女豹に刈り取られていく。
工藤はその隙に自分も結束を解いて立ち上がると、その場を愛衣に任せてメインフロアである客席まで走った。まだ営業中であるならターゲットを奪取しなければ話にならない。果たして、坂本香織はそこにいた。写真の制服姿とはまるで異なる赤いレースを着ている。まばらにいる客がこちらを見咎めるのも気にせず、事情も説明しないまま手を取った。無言のままの彼女に、「三輪恵から頼まれて来た」と告げる。納得したのかは工藤にも判断が付かなかったが、手を引かれたまま抵抗をやめた。
そのまま出戻り、まだ残っていた愛衣に手招きをして店を出る。追っ手が来ないとは限らないし、そろそろ愛衣の充電も切れる。三十路にはキツい急勾配の階段を跨ぎながら地上へと急いだ。
*
坂本香織を家へと帰した後、路傍から自宅兼事務所のボロアパートを見上げた。ベランダに吊るしていた洗濯物が無くなっており、電気が点いている。脱出した後に行き倒れた愛衣をタクシーに乗せ、深夜割の料金は二割増し也。時刻は二十三時を過ぎていた。
「お帰り」
自分の家でもないのに出迎えたのは、工藤の幼馴染である一条純子だった。黒い長髪で眼鏡を掛けている。度数は-5.00で強度の近視だ。愛衣以外に合鍵を渡しているのは彼女しかいないので当然ではあるのだが、こうも頻繁にやって来られるのも面映ゆい。アイロンをかけて洗濯物を畳んでいたらしく、再び手を動かし始めた一条の脇で、とりあえず愛衣をベッドまで運んで寝かしつけた。
「またゴミ溜めて。お客さんも寄ってこないんだから」
「余計なお世話だ。そろそろ終電無くなりそうだけど、どうすんの」
「いや、すぐ帰る……愛衣ちゃん、ダウンしたの? また無理させた?」
母親か、と工藤は思ったが、週一回以上のペースで人の家に乗り込んできては家事を代行しながら満足気に去っていく女と、十年以上も付き合っている方も付き合っている方ではあった。
一条とは郷里の福島にいた頃からの腐れ縁になる。警察学校に進学してからは一度縁が切れたが、上京して少し経ち神保町に立ち寄った際にうっかり再会を果たした。聞けば書店を立ち上げる夢があるらしく、こちらの刑事になった身の上を話せば我が事のように喜んでくれたものだった。それからは時間を作って世間話をする女友達の関係だったが、亀裂が走りかけた時もある。全く素振りもなかったのに、結婚話を打ち明けられた。以前から付き合っていた男がおり、親からも催促されるし適齢期も差し迫っているしで仕方なく、と話す一条のどこか物悲しい表情を覚えている。
それから時を経ずに籍を入れ念願の店も持ち、順風満帆の人生を送っている一条とは裏腹に工藤は刑事を辞めその日暮らしの探偵業へ身を堕としたが、依然として付き合いは続いているのだった。どうやって夫に事情を説明しているのか神保町から新宿まで足を運び、様子を見に来たと言いながら食事までこしらえていき、少女を拾ったと言っても咎めることをしなかった女。どういう心持ちか問い質すことを先延ばしにしたまま時間だけが過ぎ、今日もまた愛用の柔軟剤の香りに安心しきっている自分が空しく、切なかった。
「ちょっと手を借りただけ。寝れば元気になるよ」
「毎回手を貸してくれるのも由美を信頼してるからでしょ。その子の信頼だけは裏切らないで」
「また説教?」
やおらソファに腰を掛けた一条に合わせ、工藤も隣に座る。母親というよりは年の近い姉と形容した方が正確かも知れない、と内心で苦笑した。
「説教じゃない、忠告。あの時責任は取るって言ったの忘れてないからね」
地下鉄でサリンが撒かれた事件で遭遇した少女を連れ帰った時、最初に相談したのも一条だった。本来なら児童相談所に届けるべきなのを一考したのは、状態が異常としか言いようがなかったからだ。身寄りがないにしても何故あの状況で地下鉄駅構内のトイレにいたのか。右手が奇形化している理由は。首からぶら下げたタグには【A・I】とだけ彫られていた。服装からも考慮して、件の教団の関係者ではないかと推察するのも決して無理筋ではなかった。
オウム真理教は八十年代から頭角を現した新興宗教だが、数々の嫌疑から事件の容疑者として真っ先に候補に挙げられた。強制捜査が実行される手前だったらしいが、結果的に東京の中心部を狙ったサリンの噴霧による大規模テロを阻止することは出来ず、教団の拠点である上九一色村への立ち入りは時遅くして行われた。その際にカメラに映し出された禍々しい光景に誰もが慄然としただろう。サリン製造設備、化学薬品、大量のガスマスクや注射器。VXガスの製造痕跡、生物兵器の開発痕跡。電極付きのヘッドギアを付けられた異様な恰好の信者達。平凡な日常の裂け目から出現したような異界に言葉を失ったのは工藤も例外ではない。そして、親子で入信したらしい年端もいかぬ子供の姿から愛衣もあそこにいた、と思った。
感覚や情報を遮断し、薬物によって従順な信者へと洗脳されたのは大人だけではない。教団の誇大妄想染みた国家転覆計画は次々に明らかになっていったが、ならば人間を獣へと変質させる実験が行われている可能性もあったのではないか。未だ報道もされずに隠蔽された知られざる陰謀が。
それは到底辞表を叩き付けた工藤の手に負える話ではない。かと言って公的機関だろうと他の誰かに知られるのは危険だった。工藤が探偵をやると決めたのは、依頼をこなす内に教団の謎へと繋がる手がかりが見つかると思ったからだ。生きる意味を喪失し、行くアテの無い少女に自身の現在を重ね合わせた。
愛衣の身体は、恐らく細胞レベルで弄られている。どういう薬品が使われたのか、通常の人間を超えた代償が右手の変異なのか。普段の生活を送る分には支障はないが、意識的にリミッターのオン・オフが可能なことまでは分かっている。【解除】の一声を合図に、と取り決めをした。それも一定時間のみであり、過ぎれば糸が切れるように眠ってしまう。
「約束は果たすよ。この子とそう決めたから」
不安は尽きない。そもそも、何の罪もない子供を利用しているという意味で教団と何が違うのか。
「分かってる」
一条はそう応えながら、力なく落とした工藤の手に自らの手の平を重ね、握ってきた。
「私だってずっと覚えてるから」
深夜を過ぎたアパートの一室は昼間と比して静まりかえっており、不意打ちで心臓が脈打つ感覚に工藤は襲われた。眼の前にいる女に全て打ち明けて投げ出したい衝動に駆られた。
「……そういうことは旦那に言って」
「由美にしか言わない」
こちらの動揺を知ってか知らずか、真顔のままこちらを見つめ返す。耐えきれず眼を逸らせば、口から出たのは「すぐ帰るんじゃなかったの」という逃げの一手だった。
一条は「また来週来る」と言い残してから出て行った。未だ活動を停止していない街の明かりをカーテン超しに眺めながら、重ねた手に残った熱を工藤は感じ続けた。独り身に結婚生活の機敏を推し量れるはずもなかったし、公務員が個人事業主の生活を考慮しても限界はあった。一条が押しかけて来るのは、単に長年のルーティンを解消するだけの些事に過ぎないのかも知れなかったが、しかし、だから? この関係に説明が付くのか。お定まりの自問に答えが出た試しはなく、煩悶を一刻も早く忘れる為に、工藤はその日は風呂に入らないまま横になることに決めた。
*
翌日、新宿駅東口の広場に三輪恵を呼びつけた。空は今にも一降りきそうな曇天で、バンドマンがチラシを配っている傍らでは数羽の鳩が飛び交っている。アルタ前の大型ビジョンは、音楽プロモーションが短い間隔でループしていた。
「どーも」
相変わらず量産型の女子高生ファッションに身を包んだ三輪恵に対し、工藤は空いているベンチに座るように勧める。
「で、香織は無事だったんですよね?」
「キャバクラで働かされていたようですけど、とりあえず連れ戻しました。もうすぐここに来ます」
「なら良かった」
三輪恵はマスコットをジャラジャラぶら下げているバッグから封筒を取り出そうとする。しかし工藤はそれを遮り、「確認しておきたいことがあります」と切り出した。
「坂本香織にブルセラ売買を唆したのはアンタでしょ」敬語を使わず、直截にそう問い質した。
「……何でそう思うんですか? 私は親友が心配だから依頼しただけ。それとも証拠でもあるんですか?」
「どうも不自然だったんだ。まず、アンタと坂本香織はそもそも親友じゃない。助手……愛衣から聞いた話だとね、学校でいじめがあったらしいじゃない」
「それが何か」
「主犯格のいじめっ子が坂本香織。いじめられていた子はもうとっくに転校したそうだけど、次に標的になったのは逆に坂本香織だった。よくある話だよ。前から気に入らなかったアンタが今度は主犯になって、グループ総出で落としにかかった。今は誰でもやってるとか言いながら騙して、後は知り合いに頼み込んで怖いお友達の登場。ツテは兄弟か。上に兄貴が一人いるよね」
「全部言いがかり。証拠も何もない。それで元刑事?」
さっきまでの作り笑いとは打って変わって挑発するような態度を取る三輪恵だったが、幾多の修羅場を潜った工藤からすればガキ相手だ。ただ半端な調査を依頼された手前、落とし前を付けたいだけだった。
「言いがかりと思うならそれでいい。謝るなら私じゃなくて彼女本人に言いな。金は取らない」
「……何だっつーのよ。人の揉め事に首突っ込んどいて、正義の味方のつもり?」
駅の入り口から、傘を差した坂本香織の姿が見えた。工藤は立ち上がり、その場を去る。三輪はまだ何か言いたげだったが無視し、頭を下げる坂本香織に手を上げて応える。後は彼女達次第だ。
雨が強くなってきた。駅前で待機していた愛衣の元へと小走りで向かい、使い古したビニール傘を受け取る。
「で、結局どうだったの」
「お金は受け取らなかった」
「ええ、また!?」
大袈裟なリアクションをする愛衣に「だってしょうがないじゃん」と工藤は小さい声で返す。
「今月もピンチだって言ったのは由美ちゃんじゃん……また佐藤さんに睨まれるよ」
「あーもううるさいな。もうすぐお昼でしょ、何か食べさせてあげるから」
確かに、正義の味方を気取りたいだけなのかも知れなかった。もう刑事をやっていた頃のように嘘を付きながら飲み下していく日々に戻りたくないだけだ。明日はペットの行方調査が一件入っているのでそれの対応。全く未来は不透明で、何を頼りにしていいのかも分からなかったが、今は前進する以外に道は無かった。
「パフェなら許すっ」
隣の愛衣が元気に声を上げ、工藤の左手を引っ張っていく。その力強さに危うくこけそうになったが、何とか踏み止まって二人は改札口の向こうへと消えていった。
やがてシーソーは傾く ユーライ @yu-rai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。やがてシーソーは傾くの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます