ルナベル古物店の記憶手帳
宮本ヒロ
第0話 蒸気の街と記憶の魔法
目を開けたその時、見えた世界は、煙と光と魔法、そして知らない匂いでできていた。
霧のなかで灯りが揺れ、建物の壁に組み込まれた歯車がゆっくりと回転している。空に浮かぶ鉄の線路を、列車が蒸気を尾に引いて走っていた。
車体には、なにかの呪文のような文様が刻まれていて、青白く光っている。それが何なのかはわからなかった。けれど、どこか“魔法”という言葉が、自然に頭に浮かんだ。
舗道の端では、銀色の鳥の形をした機械が郵便らしき筒を咥えて飛び立ち、屋台の子どもたちは、空中に印を描くように指を動かして、鉄板を温めている。
遠くからは誰かの詠唱が風に乗って聞こえ、街灯がふっと色を変えた。蒸気と呪文が隣り合い、どちらもこの街の生活の一部として、あたりまえに息づいている。
ここは、機械と魔法が共に生きている世界だ。
俺は、そのどれにも触れられず、ただ立ち尽くしていた。通りすがりの人々は誰も俺に声をかけない。けれど、それも当然だったのかもしれない。
俺の姿は、どう見ても子どもだった。七歳か、八歳。自分の背丈が、あまりに低くて、足元すら新しく見えた。
けれど、俺の意識は大人のままだった。現実の記憶が、まだ胸の奥に煙のように漂っている。ここが夢であってほしいという願いと、ここが現実だとしか思えない感覚とが、胸のなかでせめぎあっていた。
それでも確かに、この空気は俺に語りかけていた。光が柔らかく、音が遠く、匂いがはっきりとする。五感すべてが、新しい世界の存在を否応なく受け入れていた。
この街は、魔法と機械の継ぎ目が見えなかった。まるで、それが“世界の呼吸”であるかのように、静かにすべてを動かしていた。
俺は思った。
ここは夢じゃない。
こんなに眩しくて、美しいものが、夢のはずがない。
そう思えるほどに、この街はまるで、絵本の中の景色みたいだった。
空に浮かぶ線路、光の粒を撒きながら走る列車、風にそよぐ旗、歯車の音。
知らないはずのものたちが、不思議と懐かしく、心の奥をやさしく撫でてくる。
しばらくのあいだ、俺はただその空気に酔っていた。
歩くたびに視界が変わり、音と匂いと光が溶けあうようにして、胸に染み込んでくる。
足を止めれば、遠くから聞こえる魔法の詠唱や、石畳を跳ねるように走る子どもの声。
この世界には、命があった。動いていて、響いていて、生きていた。
でも――
その美しさに身を委ねているうちに、ふと、ある感覚がよぎった。
こんなにも賑やかであたたかな場所なのに、俺は、どこにも属していない。
胸に刺すような違和感が、心の片隅に小さく灯った。
街の喧騒の中、俺は歩き出した。といっても、行き先などない。
とにかく、人の流れに逆らわないように、邪魔にならないように、歩幅の小さな足で石畳を辿る。
すれ違う人々の言葉が、なぜか頭に入ってきた。
最初は異国の言語かと思ったが、構造が日本語に似ているようで、耳が自然と馴染んでいく。
――理解できる。意味も文法も、すんなり染み込んでくる。
その理由はわからないが、言葉が通じるという事実だけでも、心細さが少し和らいだ。
それでも、声をかける勇気は出なかった。
自分が何者なのか、自分自身にすらわからないのだから。
ひとつの露店が目に入った。布に包まれた果物のようなものが並んでいて、いい匂いがした。
何気なく近づき、手を伸ばしたわけでもなく、ただ見ていただけだったのに。
「買わないなら、見るな」
露天の主は、語気を抑えていたが、あきらかに嫌悪を滲ませていた。
その声は、通りかかった客たちにも聞こえていたようで、視線が集まった。
俺は小さく頭を下げて、その場を離れた。
何もしていない。
盗ろうとしたわけでも、迷惑をかけたわけでもない。
それでも、追い払われる。警戒される。
この街の中で、俺だけが異物であることを、嫌でも実感させられた。
路地裏に入ると、昼間の喧騒とは違う空気が流れていた。
酔っ払いなのか、行き倒れなのか――ひとり、地面に横たわって動かない人がいた。
誰も気にしない。誰も近寄らない。
俺は、立ち止まったまま動けなかった。
ただ歩いていただけなのに、気づけばもう、行く先がわからなくなっていた。
どこへ行けばいいのか、誰に声をかければいいのか――
わからない。何ひとつ、わからない。
立っていることすら、だんだんつらくなってきた。
俺は、立ち止まったまま動けなかった。ただ歩いていただけなのに、気づけばもう、行く先がわからなくなっていた。どこへ行けばいいのか、誰に声をかければいいのか――わからない。何ひとつ、わからない。
足は、もう棒のようだった。ふくらはぎの感覚が抜け落ちて、膝は震え、背筋は張り詰めたまま戻らない。吐く息がやけに熱くて、喉の奥がひりついた。頭の中では何かが響いていて、遠くの鐘みたいに、一定の間隔で意識を削っていく。
世界が、少し傾いて見えた。音が遠のいていく。さっきまで聞こえていた街の喧騄が、まるで水の底に沈んでいくみたいに。目の端で光が揺れた。何の光かはわからなかった。もう、すべてがぼんやりしている。
立っていることすら、だんだんつらくなってきた。脚がもう、自分のものじゃないみたいだった。
どれくらい、そこに座り込んでいたのかはわからない。空が傾いたのか、建物の陰が伸びただけなのか――。ただ、世界が少し冷たくなった気がした。
路地裏の壁にもたれかかりながら、俺は目を閉じかけていた。喉は乾き、足は痺れ、頭の奥で鈍い音が続いている。何もかもが遠くなりはじめていて、それが楽でもあった。
そのときだった。誰かの足音が、石畳の上を静かに打った。革靴の底が小さく響くたびに、意識が引き戻される。
目を開けると、ひとりの老人が立っていた。長い外套。古びた杖。帽子の影で表情はよく見えなかったが、目だけがはっきりとこちらを見ていた。何かを問うでもなく、何かを押しつけるでもなく。ただ、そこに“居た”。
俺は、声を出せなかった。出す言葉も、理由もなかった。ただ、見返すことだけはできた。
老人は、少しだけ首を傾けた。そして、ゆっくりと杖を鳴らしながら、こちらへ歩み寄ってきた。
逃げようともしなかったのは、足が動かなかったからか。それとも、あの目が、ただの通りすがりには見えなかったからか。
距離が近づく。俺の目の前で、老人はしゃがみこんだ。
手が伸びる。けれど、その手は俺に触れようとはしなかった。ただ、そっと――一枚の布を、俺の肩にかけた。温かいというより、柔らかい感触だった。
何かを言ったかもしれない。けれど、その声は、風に混ざって聞き取れなかった。
俺の視界が、そこでふっと暗くなった。
***
「……ちょっと香草が強すぎたかな」
ノアは鍋の上に立ちのぼる湯気に顔を近づけ、小さく鼻をすぼめた。香りが、思ったよりも早く立ち上がってきた気がする。香草の加減は、刻む厚みと火加減ひとつで随分変わる。
火力術式のプレートに手をかざし、魔素の灯をゆっくりと落とす。青白い火が細くしぼみ、やがて静かに消えた。金属の底に残った熱が、湯気の中に柔らかくとけていく。
煮込んでいたのは、刻んだ根菜と豆、それに干した香草を少し。素朴で香りは強いが、胃にやさしい。昨夜、師匠が「重いものは避けたい」と言っていたのを思い出して、用意しておいた。
──あれから、もう何年が経っただろう。
蒸気の匂いにも、歯車の音にも、初めは怯えていた。言葉さえわからず、路地の影で身を縮めていた日からすれば、いまこうして朝食を作っている自分が不思議に思えるほどだった。
戸口が、きぃ、と軋んで開いた。
「……寒いな。風がいつもより湿っていた」
外套姿の老魔術師が、杖を片手にゆっくりと部屋へ入ってくる。オルド・ルナベル――蒸気都市の片隅に暮らす、古式魔術と機構を扱う変わり者。そして、ノアの師匠だった。
「師匠、朝ごはんできてますよ」
ノアは振り返りながら声をかけ、湯を注いでいたカップをひとつ、テーブルの上に置いた。
料理の香りに目を細めながら、オルドは椅子を引いて腰を下ろす。杖は習慣のように壁際に立てかけ、衣の袖を整えながら言った。
「……いい匂いだな。これは、セルトの根か」
「はい。豆と一緒に煮ました。少しだけ香草も」
「なるほど。悪くない組み合わせだ」
言葉は少ないが、その声には満足が滲んでいる。ノアは静かに隣に腰を下ろし、もうひとつの器を自分の前に置いた。
(あれから……もう、何年になるだろう)
ノアはふと、初めてこの家に来た日のことを思い出していた。
それは、自分が“ノア”という名を与えられたときの記憶だった。
――
目を覚ましたとき、自分は知らない部屋の中にいた。
薄暗く、蒸気の香りがわずかに染みついた空気。壁際には歯車の影が揺れていて、窓の外には淡い術式灯の光がにじんでいた。
肩には、あのときかけられた毛布がそのまま掛けられていた。ほんの少しだけ、温もりが残っている。
傍らの小さなテーブルには、パンと温かいスープ。香草の香りが、鼻先をくすぐった。
少年が身じろぎすると、部屋の奥にいた老人――重たい外套を纏い、杖を手にしたその人が、ゆっくりと椅子を引いて腰かけた。
目を合わせることなく、ただ静かにテーブルを指差し、パンとスープの前にある椅子を小さく手招きで示す。
それは、招かれるというよりも、そこにいていいという“受け入れ”のようだった。
席に着くと、震える手でパンを持ち、スープをひと口啜った。喉が焼けるかと思うほど熱かったのに、不思議と心が落ち着いた。
生きている。それだけが、確かだった。
「名は?」
老人の声は、低く、乾いた響きだった。だがその口調に、問い詰めるような圧はなかった。
少年は、何も考えずに答えていた。
「……ふなもり、まこと」
それは意識するより早く、口をついて出た。前の世界でずっとそう名乗ってきたのだから、それ以外の名があるはずもなかった。
「フナモリ、か。聞いたことのない響きだな」
老人は少し首をかしげながら、少年の顔を観察するように見つめた。
「どこから来た?」
「……わかりません」
少年の答えに、老人はほんの一瞬だけ視線を外した。何も言わず、何も聞き返さず。
けれど、その仕草はまるで――すでに、何もかもを察していたかのようだった。
「なるほど。帰る場所がないのか」
その言葉は、命令でも感想でもなく、ただ静かな事実として置かれた。
「ならば、ここで生きていけ」
そう言ったとき、老人の目は窓の外の光を映していた。
「“フナモリ”という名は、この街では少し浮く。異国の名は、どうしても目を引く。名は、生きるうえで足かせにもなる」
そして、少しだけ考えるように目を伏せたあと、口元にだけ微かな笑みを浮かべる。
「“舟を守る”……そう聞こえるな。では、舟に託される者として――“ノア”でどうだ?」
ノア。
その音は、不思議なほどすっと胸に落ちた。新しい名なのに、どこか遠い記憶のようでもあった。
「私は、オルド・ルナベルという」
老人――師となる人は、最後にそう名乗って、こう告げた。
「今日からお前は――ノア・ルナベルだ」
それは、ただの命名ではなかった。
名前をもらったというよりも、場所を、時間を、生きるという行為そのものを手渡されたような気がした。
わけもわからずこの世界に落ちてきた居場所のない自分が、初めて“誰か”になった瞬間だった。
――
ノアは器の縁にそっと指を添えたまま、ふう、と小さく息を吐いた。
あのときから、どれほどの月日が過ぎたのだろう。思い返すたびに、自分の中の“ノア”が少しずつ確かになっていく気がする。
「……さて、そろそろ始めるぞ」
師の声が現実を引き戻した。
顔を上げると、オルドは静かに立ち上がり、自分の器を片付けながら杖を手に取っていた。
食事のあとの流れは、もう日々の習慣になっている。ノアも立ち上がると、手早く器を重ねて流しに運び終えた。
「では、片付けたら行きます」
そう言って振り返ったノアに、オルドは何も言わずに一度だけ頷いた。
この家に来てから、どれほどの時間をこの訓練室で過ごしてきただろう。
“ノア”という名を得て、食卓を共にし、眠る場所を得て、そして――術を学ぶようになった。
この街で生きていくには、何かしら術を身につけなければならない。そう言って、師匠は魔法の基礎を一から丁寧に教えてくれた。
詠唱の仕組み、魔力の扱い方、陣式の構造――全部、ノアの理解に合わせて、何度も繰り返しながら。
ただ生きるために、ではなく、生きられるように。
最初はただ形をなぞるだけだった術式も、いまではいくつかの初歩的な発動までなら形にできるようになっていた。
オルドは訓練空間の中央に立ち、杖の先で空中を軽くなぞる。
うっすらと発光する術式陣が空間に浮かび上がり、一度だけ静かに光を揺らした。
「今日は、少し趣を変える。基礎ではないが、お前のような者には向いているかもしれん」
ノアは背筋を正し、言葉を待った。
「“
――残滓魔法
ノアはその言葉を静かに反芻した。
記憶や想念に“触れる”。物に染みついた何かに魔力を染み込ませ、そこから反応を引き起こす魔法。
「どうやって使うんですか?」
「構える必要はない。魔力を、物の中に流し込む。その物に染みついた思念や記憶の残りかすが、魔力を通して反応する」
「返ってくるのは、断片だ。映像かもしれんし、音や匂いかもしれん。あるいは何も感じないこともある。だが、何かを受け取ったなら、それをそのまま口にしてみろ」
「……わかりました。やってみます」
「まずはこれで試してみろ」
オルドは飾りを布の上に置いた。
小さな装飾品だった。
青い石がはめ込まれた銀細工の胸飾り。手のひらに収まるほどの大きさで、繊細な透かし彫りが施されている。
細工の精緻さと石の質から、それが高価な品であることはすぐにわかった。だが、留め金はわずかに歪み、表面には細かな傷が浮いていた。
ノアは正面に座り、静かに右手を飾りの上へと差し出す。
指先から魔力を注ぎ込む意識を向ける。飾りの内部にある“何か”に向かって、ゆっくりと魔力が沈み込んでいく。
魔力が触れた瞬間、空気の層がわずかに揺れた気がした。
かすかな反応――目に見えたわけではないが、熱でも震えでもなく、“何か”が応じた。
次の瞬間、胸の奥がかすかにざわめいた。
――大きな扉。
廊下を行き交う使用人たち。包まれた食器、重ねられた布団。
家具が運び出されていく。
その光景を遠くから見ている、ひとりの女性。
慎ましやかな衣装。柱にもたれて、静かに部屋を振り返っていた。
言葉はなかった。ただ、その表情には深く沈んだ何かがあった。
視界が戻る。ノアはそっと目を開いた。
「……この品は、たぶん……屋敷を手放さなくてはならなくなった、没落した貴族が、資金繰りのために放出したものではないかと思います」
オルドが、目を細めた。
「そこまで視えたのか?」
「……いえ。実際に見えたのは、使用人が家具を運び出している様子と、それを見ていた女性の表情だけです。
でも……動きの整いすぎた感じとか、空気の重たさとか。あの人の顔つきも……“去る”というより、“捨てざるを得ない”感じがして」
オルドは視線を飾りへと戻した。少しだけ間を置いて、口を開く。
「……その品は、かつて王都北区を治めていたセリファード家のものだ。
家の没落に伴って、多くの私物がギルド経由で処分された。
これもそのひとつだと聞いている」
そして、ノアに目を向ける。
「お前は、ただ視えた映像を口にしただけではない。その断片が何を意味していたのか……自分の中で、編み上げたんだな」
その言葉に、ノアは小さく息をのんだ。
確かに、自分はあの場面をただ眺めたわけではなかった。
あの家具がどこに運ばれ、あの女性がどんな気持ちでそれを見つめていたのか――映像の中にあったものを、自分の中で並べて、繋げて、意味にしていた。
それはきっと、無意識のうちにやっていたことだった。けれど、師にそう言われて、はじめて自分の行為に輪郭が与えられた気がした。
……自分は、そういうふうに物事を見ていたのだ。ずっと、昔から。
――前の世界で、自分は鉄道会社で「遺失物係」という仕事をしていた。
窓口には毎日さまざまな“落し物”が届いていた。財布や鍵、筆記具、イヤホン、時計。名前も連絡先もないものが、無数に集まる。
それらを手に取り、どこで拾われたかを確認し、いつ、どんな状態で発見されたのかを聞き取り、記録し、箱に分類して収めていく。
――ただ、それだけでは、どうしても“届かない”ものがあった。
たとえば、ひとつの傘。
駅のホームで拾われたというそれは、骨の先がわずかに折れていて、柄の先にはうっすらと子どもの名前がかすれて残っていた。
その筆跡が、小さな手で書かれたような曲がりくねった文字で。
見た瞬間に思った。これはきっと、雨の日にお母さんが持たせたものだ。学校の帰り道に置き忘れてしまって、家で泣いていたのではないか――
そんなことを、勝手に想像して、タグに書いた。「赤いビニール傘。子ども用。持ち主、きっと寂しがっているかも」
数日後、子どもを連れた母親が現れた。笑っていた。でも、子どもの顔には、ほんの少し涙のあとが残っていた。
けれど、そんなふうに“返せたもの”は、むしろ珍しかった。
ほとんどの遺失物は、名も顔も持ち主もわからないまま、ただ一定の保管期間を過ぎ、処分されていく。
その箱の中で、行き場もなく静かに眠っていた小物たち――傘、ぬいぐるみ、手袋、ヘアピン。
どれも、本来なら誰かの日常の一部だったはずなのに。忘れられた瞬間から、“無かったこと”のように扱われてしまう。
仕方のないことだと分かってはいた。でも、あの並んだ品々のそばに立つたび、ノアはいつも、どうしようもない寂しさを感じていた。
――もし、この世界でなら。
魔法という手段があるなら。
名も知らぬ誰かが遺した想いを、ただ“忘れられた物”として終わらせずに済むかもしれない。
返すべき場所へ。帰るべき誰かのもとへ。
それができるのなら――
ノアは、ふっと肩から力を抜いた。
何かを取り戻した気がした。名前や、記憶や、役目のようなもの。
言葉にはならないけれど、それは確かに、胸の奥に灯っていた。
***
残滓魔法を初めて使ってから、ノアは気づけば、その術式ばかりを繰り返していた。
物に手を添え、魔力を流し、わずかに染みついた何かを感じ取る――ただそれだけの、初級訓練の一つにすぎない魔法だ。
実戦で使える場面は限られ、実用性もほとんどないとされている。けれど、自分にとってはどの攻撃術よりも、どの防御術よりも、この感覚がしっくりきた。
魔力が応えるときの、あの静かな重なり方。指先に残る痕跡。それがなぜだか、懐かしくて、確かだった。
師匠も、それを咎めることはなかった。
残滓魔法に固執するのは訓練としては非効率だと、分かっていなかったはずはない。
けれど何も言わず、必要なときだけ助言をくれた。理由も成果も問わずに、ただ見守ってくれていた。
ノアはその沈黙を、否定ではなく、肯定だと受け取っていた。
これまでは、屋敷にある古い器や使い古された文具など、もともと手近にあった物ばかりを使って練習してきた。
だが今日は、違っていた。
「価値はつかなかったそうだ。だが、どうにも気になってな」
そう言って、オルドがノアの前に差し出したのは、灰緑色をした一つの帽子だった。
布地はくたびれて、色も褪せかけている。柔らかいつばの広がった、作業用の布帽。
ところどころに薄い汚れや折り癖はあるが、不思議と手入れされてきた気配があった。
使われ、仕舞われ、また使われ――そうして積み重ねられてきた痕跡が、確かにそこにある。
師匠は時折、ギルドから下取り品の査定を請け負うことがある。
魔術的な解析だけでなく、古物としての知識や来歴の見極めまで含めた、特殊な仕事だ。
その過程で「価値なし」とされた品の中に、気になるものがあれば、こうして引き取ってくることもある。
今日のこの帽子も、そうやって持ち帰られたものだった。
「試してみるといい」
「はい」
ノアは帽子を両手に持った。
軽く、やわらかい布の感触。その奥に、ほんのかすかに魔力が滲んでいるのがわかる。
意識を落ち着けて、魔力を流し込む。
帽子の奥から、淡く揺らめく光の粒がひとつ、ふわりと立ち上がった。
それは空気の震えに反応するように広がり、次第にいくつもの光が連なっていく。
小さな糸くずのような輝き。蒸気の粒に混じるように、ゆっくりと舞い上がり、布地の縁を撫でるように漂う。
まるで、長く眠っていた記憶が、呼びかけに応じて目を覚まそうとしているかのようだった。
「君の記憶を――見せて」
《意識が、静かに沈んでいく。
ぼやけた視界の先に、やわらかな光が差していた。
草屋根の平屋。白く塗られた漆喰の壁。玄関脇には、背の高い楡の木が影を落としている。
風が抜け、葉が擦れる音が、遠く小さく響いていた。
帽子は、視点のすぐ近くにあった。
誰かの手に持たれている。かすかに布が揺れている。
目の前に立つのは、一人の老女だった。痩せた肩、少し曲がった背中。その顔に、やさしい笑みが浮かんでいる。
「母さん。……暑い日、これ使って」
若い男の声。やや低く、落ち着いた口調。
彼は帽子をそっと差し出し、それを老女の頭に被せた。
「似合ってるよ」
帽子がわずかに沈む。
老女が、指先でつばに触れた。
その表情が、少しだけ照れくさそうに崩れる。頷くように、ゆっくりと瞬きをした。
視界がわずかに揺れる。
男が歩き出して、背を向ける。数歩先で振り返ることはなく、そのまま家の前の小道を歩いていく。
帽子は静かにその姿を見送っていた。
老女の手は、つばに触れたまま、ずっと動かなかった。
それから、静かに目を伏せた。
目元に、ひとすじの涙がこぼれた。
声はない。ただ、帽子を通して、そのぬくもりだけが、長く残っていた。
視界が、薄く、白く、にじんでいく。
音も風も、光さえも、ぼんやりと滲んで――》
ノアは、現実に引き戻された。
帽子を机の上にそっと戻し、静かに息を吐く。
視えた映像は、ごく短いものだった。
草屋根の家、白い壁、玄関脇に立つ楡の木。若い男が老女に帽子を手渡す。それだけの、ほんの一場面。
けれど、その中にあった気配は、確かだった。
使われた帽子が、そのまま置き忘れられたわけではない。あれは、何かを託された品だった。
記憶に残る情景を、ノアはひとつずつ思い出していく。
玄関の構造、庭の小道の形、建物の配置、見える空の向き。
――斜面沿いの造りだ。あの家は、平地に建ってはいない。
そして、町の中心ではなかった。周囲には静かな空気があった。
おそらく、町外れ。北か東の傾斜地。静かな小道沿い。
ノアは立ち上がり、棚からノートとペンを取り出した。
記憶をもとに、見えた景色を簡単にスケッチする。
草屋根、白壁、楡の木の位置。小道の傾き。光の当たり方。
扉が、軽く音を立てて開いた。
「見えたか?」
オルドが姿を現す。すでに何も聞かずとも、察しているような顔だった。
ノアは頷き、描いたノートを広げた。
「家が視えました。斜面の、町外れのあたりだと思います。楡の木が、目印になります」
見えた映像は、これまでと同じように短いものだった。
けれど、その細部――息の間や光の揺れ、指先の動きまでが妙にくっきりと浮かんでいた。
「……いつもより、はっきり視えた気がする。こんなに細かく拾えたの、たぶん初めてです」
オルドは、静かに言った。
「……返しに行くのだろう?」
問いかけのようでいて、すでに答えは決まっていることを見抜いている声音だった。
胸の奥に、確かなものがひとつ灯る。
「はい。この帽子、返せるかもしれません」
***
斜面を辿るようにして続く、石畳の細い小道。市街の喧騒はもう聞こえない。遠くで蒸気車の警笛が響いたが、それもすぐに木々のざわめきに吸い込まれていった。
足元には苔が広がり、湿った空気が草の匂いを濃くしている。陽の角度からして、昼をすこし過ぎた頃だろう。だが、木立が濃くなった分だけ、光は柔らかく、空気はどこか冷たい。
ノアは足を止め、静かに顔を上げた。視線の先には、草屋根の平屋があった。白い壁。玄関脇には、記憶にあったとおりの楡の木が、静かに影を落としている。
まちがいない――そう思えた。帽子に宿っていた情景が、この風景とぴたりと重なった。
ノアは歩み寄り、家の前で一度だけ深く息をついた。帽子は、両手で丁寧に抱えるように持っている。布の感触が、手のひらにやさしく残る。
戸口の前に立ち、ノアはそっと拳を作り、木の扉を軽く二度、叩いた。
しばらくの沈黙のあと、扉がきぃ、と軋んで開いた。出てきたのは、三十代ほどの女性と、その背後に控える年配の男性だった。扉を開けたふたりは、見慣れない年端のいかない少年が立っているのを見て、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
「こんにちは。突然すみません。この帽子の持ち主を探していまして」
ノアは胸元で帽子を軽く持ち上げてみせた。
女性はノアの手元に目を落とし、それから顔を上げる。
「……母の、だと思うわ」
声には少し迷いがあった。口に出しながらも、どこか自信がなさそうだった。
女性は帽子に視線を落とし、ほんのわずかに眉を曇らせた。
「せっかく届けてくださったのに……本人が、これを見てわかるかどうか……それも、ちょっと心配で」
少し言い淀み、袖の端を指でつまんだ。
「ここ最近、ちょっと……。急に押し入れをひっくり返したり、棚の中を片っ端から開けたりして……。理由を聞いても、うまく答えられないみたいで。正直、何に困ってるのかも、よくわからないの」
ノアは小さく首を振った。
「……でも、ずっと大切にされていた気がします。触ったとき、そう感じました」
女性は、目の奥にわずかな動揺を浮かべた。
「ごめんなさい、上がってもらってもいいかしら? 母は今、奥にいるから」
「はい」
ノアは短く答え、帽子を両手で持ち直すと、促されるままに家の中へ入った。
案内されたのは、南向きの小さな居間だった。
窓の外には楡の木が枝を広げており、揺れる木漏れ日が畳の上に淡く模様を落としている。部屋の奥には白髪の混じる年配の女性が、縫いかけの布を手に座っていた。背は丸まり、動きもゆっくりとしているが、手元には針と糸があり、なにかを繕っているようだった。
ノアが一歩進むと、その女性は顔を上げた。目が細まり、しばらくノアの姿を見つめていたが、やがて視線がノアの腕に抱えた帽子へと移る。
「それは……」
つぶやくような声だった。
ノアはためらわず、帽子を両手で差し出した。
「落とし物を預かっていました。もしかしたらと思って」
女性の手が、ゆっくりと、震えるように帽子へと伸びる。指先が触れた瞬間、わずかに肩が揺れた。
「まあ……」
声が染みるように漏れた。
女性は帽子を抱くように胸に当て、しばらく動かなかった。
「……お母さん、それ……」
娘がそっと声をかける。
「探してたの。ずっと」
年配の女性がようやく言葉を発した。
「忘れちゃいけない気がして。だけど、どこにしまったのか、思い出せなくて……」
声は静かに震えていた。
ノアはただ、その姿を見守っていた。
帽子を手にした彼女の肩が、少しだけ揺れていた。
女性は、しばらく帽子を胸に抱いたまま、目を伏せていた。やがて、ぽつりと口を開く。
「……あの子が、これをくれた日のこと。少しだけ、思い出したわ」
娘が息をのむ。
「ほんとに……?」
女性はこくりと頷いた。
「暑い日だったの。楡の木の影が涼しくて……。家の前で、あの子が私にこれを被せてくれて」
手のひらが、帽子のつばをそっと撫でる。
「“似合ってるよ”って。そんなこと、あの子、あまり言う子じゃなかったのに……」
目元に、かすかな涙がにじんだ。
「出ていく朝だったの。あの子、遠くに行くって言ってて……あのときから、私はこの帽子を、まるでお守りみたいに被ってたの」
「……ずっと、探してたのね」
娘の声が、かすかに震える。
「ええ。でも……何を探していたのか、自分でももう、わからなくなってしまっていたの」
女性は帽子を胸に、深くうなずいた。
「でも、これだったのね。……やっと、帰ってきてくれたのね」
娘は何も言えず、目元をぬぐった。
ノアは静かにその場に立ち、ただ、その光景を見つめていた。まるで失われた記憶の糸が、ゆっくりと繋ぎ直されていくようだった。
***
夜の街を歩くノアの足取りには、ほんのわずかな疲労がにじんでいた。
だがそれ以上に、確かな手応えが心の奥に灯っている。
ささやかでも、誰かの記憶が正しい場所に還る。それが自分の手で為されたのだと思うと、胸の内にじんと温かいものが残った。
歩きながら、ノアはふと、小さな紙片を取り出す。
薄く煤けた帳面の切れ端に、たった一言だけ、書き込んだ。
――灰緑の帽子。母子の記憶。楡の木の下で。
ほんの思いつきだった。
誰かの記憶を届けるという行いが、どこか自分の中でも形になってほしかった。
だから試しに書いてみた。それだけのことだ。
けれどその一文が、思いのほか、胸に深く残っている。
自分が何をしたのか、誰と向き合ったのか。
記録とはきっと、その輪郭をすこしだけくっきりさせるための行為なのだ。
工房の灯りが視界に入ると、ノアはそっと息をついた。
緩やかな階段を上り、扉を開ける。
奥の作業机には、ランプの明かりに照らされながら、いつもの外套姿が背を向けて立っていた。
「ただいま、師匠」
声をかけると、老魔術師は手を止め、ゆっくりと振り返った。
蒸気の香りと油の匂いが入り混じる室内。どこか懐かしい、それでいて落ち着く匂いだった。
「……戻ったか、ノア」
その声に、ノアは小さく頷いた。
そして、一歩、また一歩と歩み寄る。
ほんの短い言葉のやり取りだけで、互いの空気が自然に馴染んでいく。
「何か、収穫はあったか?」
問いかけは、いつもの調子だった。
詮索するでもなく、ただ確認するような声音で。
ノアは一拍だけ迷ってから、ふっと笑った。
「……うん、ちゃんと、渡せた。帽子と、その人の、忘れかけてた記憶も」
それを聞いて、オルドは軽く目を細めた。
それ以上は何も言わず、手元の機構細工に視線を戻す。
ノアはそっと自分のポケットに触れた。
さっき、帰り道に何気なく書いた、小さな紙片がまだそこにある。
誰かの記憶を、自分の手で、正しい場所に届ける。
それは、たったひとつの忘れ物を返しただけの出来事なのに、不思議と胸に深く刻まれていた。
この先も、また誰かの記憶と出会うことがあるかもしれない。
そのとき、自分はまた、こうして記録を残すのだろうか。
それが、ただの気まぐれではなく――
きっと、自分にとって大切な何かになる気がしていた。
ルナベル古物店の記憶手帳 宮本ヒロ @kikutsugu
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