第40話 新たな契約
「新たな、契約?」
美桜が尋ね返すと、レイは頷き、書類を美桜に見えるように広げた。
「――婚姻届?」
美桜は目を見開いた。驚きのあまり、涙腺の決壊もおさまってゆく。
レイは柔らかく微笑んで、首肯した。
「この契約の、貴女にとっての利点は、二つ。一つは、共にいる時間が増えることで、護衛がより盤石なものになるという点。もう一つは、このまま俺との結婚を期待しているであろう貴女の両親を、安心させることができる点」
レイは、美桜に言い聞かせるように、落ち着いた声で語りかける。
「契約期間は、貴女が契約の破棄を望むまで。ただし、その際は、互いに納得がいくようにしっかりと話し合いをした上で、双方が合意する必要があるとしよう。その他の条件は、今回、ひとまず無しとする……それで如何か?」
「その他の条件……」
そう提案するレイの頬が、わずかに朱く染まっているのを見て、美桜も恥ずかしくなる。レイの言う『その他の条件』が、以前の契約で提示していた、互いに触れ合うことに関する条件だと察したからだ。
「うん、大丈夫」
美桜が頷いたのを見て、レイはホッとしたように頬を緩めた。
「でも、レイ。確かに、私には利点しかないけど……、私と契約することで、レイにとって利点はあるの?」
「愛する女性との結婚、それ自体が俺にとっての最大の利点だ」
「そ、それって、もう契約じゃなくて……」
――まるで本当に、相思相愛で結婚するみたいではないか。
美桜の顔が、熱くなる。
臆面もなく、堂々と愛を告げるレイを、素直に信じて受け入れてしまいたい。喜びのままに、自分の気持ちも伝えてしまいたい。
けれど、レイと美桜との想いは、ずっと微妙にすれ違ってきたのだ。すんなり受け入れるには、美桜は臆病すぎた。
「……本当に、私でいいの? 私は、桜花姫みたいにお淑やかな女性じゃない。彼女に比べたら力も知識も足りないし、レイの足を引っ張ったり、迷惑をかけちゃうかも――」
「――何度も言うが、姫様の代わりではない。決してだ」
レイは美桜の手を取り、自身の胸に押し当てた。手のひらからは、どくどくと速い鼓動が伝わってくる。その瞳は真剣で、頬はやはり朱く色づいていた。
「レイ、ドキドキしてる……? 私に……?」
「ああ、この通りだ。俺の鼓動がこんなにも速いのは、美桜、貴女の所為なのだぞ。――誰の代わりでもない、俺が妻にと望むのは、今ここにいる貴女だけなのだ」
レイは反対側の手で、美桜の頬にそっと触れた。
「拒むなら、今だぞ。拒まぬのなら――」
頬に触れるレイの手に、美桜は自身の手を重ね合わせ、じっと彼を見つめた。レイは、藤色の瞳を小さく揺らす。
「拒むわけ、ない。レイ――好きよ」
「――ああ、美桜……俺もだ」
レイは嬉しそうに目を細めて、胸に当てるようにしていた反対側の手を引き寄せる。
美しいレイのかんばせが近づいてきて、美桜はそっと瞼を閉じた。
*
こうして美桜とレイは、新たな契約を結ぶこととなった。
契約結婚という体を取ってはいるが、この契約が破棄されることは、おそらくない。自分が契約破棄を望むことなど、今の美桜には考えられなかった。
婚姻届の証人欄には、すでに、京極白蓮と橘夕弦の署名が記されていた。美桜たち自身も記入を済ませて、あとは提出するだけだ。
レイが書類を持ってきたタイミングを考えると、京極は、橘とのお見合いの前から、美桜が彼に協力することを分かっていたのかもしれない。
京極白蓮については、到底、人の業とは信じられないような話もあった。戸籍に関してだ。
どうやら京極黎明の戸籍は、パッと作ったものではなく、二十年以上前から用意していたもののようなのだ。それも、彼は京極白蓮の双子の弟として登録されていた。
何手先まで読んでいるとか、そういう次元の話ではない。本人、あるいは近しい人間が、未来を予見できるとしか、考えられなかった。
レイがその件について尋ねたところ、京極白蓮は、「家系図だよ」という意味深な言葉を告げただけで、詳しい事情は教えてくれなかったそうだ。
とにかく、京極に力を貸すことに決めたはいいものの、彼らの秘密主義は相変わらずだった。
異能を用いた作戦については、黒鉄が動いたタイミングで決行されることとなる。そのため、美桜はいつでも動けるように、京極白蓮との連絡役である橘の部下として、秘書部へと異動することになった。
そう、これまでと同じ会社である。
実のところ、本社やグループ会社への異動も可能だったのだが、美桜自身が断ったのだ。
理由は、父の縁談を断る必要がなくなったことと、臨時報酬が約束されていること。そして何より、レイが働く天狗山の蕎麦店から、あまり離れたくなかったからである。
二人の住まいは、まだ一緒にしていない。レイは変わらず蕎麦店で働きながら、その二階に住んでいるし、美桜はマンションで蓬と一緒に暮らしている。
これまでと違っているのは、毎日職場に蓬がついてくるようになったことと、レイが頻繁に家を訪ねてきてくれるようになったことだ。
休みの日には、美桜の両親に挨拶をしに行ったり、美桜とレイと蓬と三人で暮らせる住まいを探したり、二人きりでゆっくり過ごしたり……今のところ、穏やかな毎日が続いている。
それでも、美桜の望みに反して、黒鉄の動きは徐々に活発化しているらしい。一度は失敗した、春時雨の呪法による制御に、間もなく成功しそうなのだろうということだ。
黒鉄が何を望んでいるのか美桜は知らないが、春時雨が絡んでいるのであれば、見過ごすことはできない。
レイが京極の下につくことに決めた三つ目の理由が、大切な相棒であり弟分である、春時雨の救出だからだ。
そして、春時雨の救出は、桜花姫のためでもある。
実際、春はもうとうに過ぎたのに、天狗山の桜はいまだ、満開を保っているのだ。参拝者から不気味がられて、心霊スポットとして噂が広まりつつあるらしい。
桜花姫の未練が解消されない限り、この桜は枯れることなくここで咲き続けるのだろう。
レイは、時々神社を参拝し、桜に黙祷を捧げていたが、前のように桜に触れて愛おしげに懐古するような表情は、見せなくなった。
いや、もしかしたら、桜へ向けるレイの想いは、変わっていないのかもしれない。変わったのは、美桜の気持ちと――、
「美桜」
愛おしげに美桜の名を呼ぶ、レイの態度の方だろう。
契約を新たなものにしてから、レイは美桜に対してあからさまに甘くなった。
美桜は、レイの差し出した手を取り、指を絡める。
「もういいの?」
「ああ。今日は供物もしたからな」
桜の木の根元には、お茶の缶とパック入りの団子が置かれている。ここに来る前に買ったものだ。
「彼女の未練、果たしてあげないとね」
「そうだな」
「……シグレを助け出したら、この桜、枯れちゃうのかな」
「ああ。そうかも知れぬな」
レイは、桜の木を一瞥して、あっさりと参道を降りていく。その足取りは、美桜に気を遣って、ゆっくりとしたものだ。
「やけにさっぱりしてるけど、レイ、平気なの?」
「ああ。美桜と巡り合わせてくれたことには感謝しているが、あの木は、既に命を失っているものだ。満開に見えるが、それは夢幻に過ぎない」
「そっか」
「故に、あれが枯れたとて、俺には何の問題もない。何故なら――」
レイは、繋いだ手を持ち上げると、少し身をかがめて、美桜の手の甲に口づけを落とした。
「れ、レイ?」
「――俺が愛する美しい桜は、ここにある。そうだろう?」
足を止めれば、澄んだ藤色に吸い込まれそうになる。
レイが微笑みを深くすると、美桜のかんばせに、満開の笑みが花開いた。
「うん」
触れ合う熱は、夢でも幻でもない。
確かにここにあって、美桜を抱き寄せ、とくとくと速い鼓動を伝えてくる。
「――愛しているよ、妻殿」
「……私もよ。旦那様」
黎明の桜は、いつまでも咲き続ける。
愛しい人の、腕の中で――。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
いつもありがとうございます!
二人の物語はまだまだ続くのですが、コンテストへの参加のため、一旦の区切りとして完結マークを付けさせていただきます。
ここまでお読みくださった皆様、本当にありがとうございました!
黎明の桜 矢口愛留 @ido_yaguchi
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