第23話 紅い瞳
「おう、目を覚ましたか」
湿った床に靴音を鳴らし、男が現れた。見覚えのある顔だ。レストランで見た男。右手の黒い金属が窓明かりを拾って鈍く光る――私の拳銃。男は親指で安全装置を弾く、癖の悪い手つきで口角を吊り上げた。
私は半歩、セシルさんの前に出る。彼女の肩が、わずかに強張った。
「おっと、動くなよ」
銃口が、まっすぐこちらに向く。
「それ、私の!」
「おう、なかなかいいもん持ってんじゃねえか。ねずみが入り込んだと思ったが、あんた何者だ?」
薄気味悪く笑う男の顔からは、次に何が起きるのか一切読めない。想像の届かない未来に、激しい恐怖が全身を駆け巡る。
「おい、そこの赤い髪の方、こっちに来い」
男の言葉に、セシルさんは静かに従った。引き留めたいのに声が出ない。喉が粘つき、声は糸のように途切れていく。代わりに、靴音だけがやけに澄んで響いた。
やがてセシルさんが男のもとへ着くと、男は自由な左手でポケットを探り、小瓶を取り出す。中には赤い液体。親指ではじかれた栓が床を転がり、甘さと鉄錆を混ぜたような匂いが鼻を刺した。
「おい、これを飲め。飲まねえとお前も、そっちのやつも殺す」
引き金にかかった指がわずかに動き、冷たい音が部屋の空気を締めつける。
セシルさんはほんの少し顎を引き、静かに瓶を受け取った。窓明かりに赤が鈍く光る。
「……飲めば、いいのね」
乾いた唇にガラスの縁が触れる。息を整え、意を決したように、一気に瓶を傾けた。赤が喉を流れ、小さく音を立てて消える。
液体を口にした途端、彼女の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「セシルさんに、何をしたの?」
「いやな、薬の実験台が足りなくてな。助かったぜ」
薬? 実験? 不穏な言葉が脳裏を冷やす。今まさに彼女は、その“実験台”にされているというのか。
――まさか。
昨日の事件の結末が頭をよぎる。
「おい、いつまで寝てんだ。早く起きろ」
男が乱暴に肩を蹴ると、セシルさんは反応して身を起こした。だが、そこに先ほどまでの彼女はいない。
生気の抜けた顔。焦点の合わない視線。そして――
「紅い……瞳」
全身が恐怖で凍りつく。昨日の事件が意味していたものは何だったのか――その答えが喉までせり上がる。
「それじゃあ、早速試してみるか」
男は薄く笑い、私を一瞥した。
「おい、あの女を殺せ」
命令が下りた瞬間、空気が刃物みたいに変わる。紅の色がふっと深まり、足首、膝、腰――彼女の全身に炎がまとわりつく。躊躇いは一片もない。私めがけて、炎の矢が一閃した。
空気が焼け、熱が頬に刺さる。私は横っ飛びに床へ身を投げる。直後、炎の矢がさっきまで私の顔のあった空間を裂き、背後の石壁に深い亀裂を走らせた。乾いた石がぱちぱちとはぜ、積もった埃に火が移る。
「お、うまくいったみたいだな。元がいいってのもあんのか」
男が愉快そうに鼻を鳴らす。意味が分からない。セシルさんは“魔法が使えない”と言っていたはずだ。なら、いま目の前のこれは――?
第二射、第三射。次々と放たれる矢は紙一重で私を掠める。ひとつでも当たれば終わりだ。
「セシルさん、やめて!」
名を叫ぶ。だが、届かない。男の短い命令だけが彼女を突き動かしている。
「貫け」
矢は確実に私を捉え、まっすぐな軌跡で迫る。間に合わない。このままだと――
「っ!」
恐怖に押し潰されるように目をつむる。祈りにも似た最後の抵抗。
「なっ!?」
いつまで経っても、熱は来ない。
おそるおそる目を開けると、無表情のセシルさんと、呆然と立ち尽くす男がいた。
――いま、私は何をした? ここでは使えないはずの魔法を……使った? そう、使えたのだ。
「お前、まさか……」
男が恐怖に身を震わせる。一体、何をそこまで恐れているのか。分からない。けれど、これは私にとっての希望だ。使えないと思っていた力が、いま手にある。これなら――
「いける!」
私の声を打ち消すように、セシルさんは炎の矢を乱発した。そのすべてが私を正確に捉える。
「無駄だよ」
私はそれらをすべて、触れた瞬間に“ほどいて”消失させた。跡形もなく。残るのは、焼けた空気の温度だけ。
「おい、何をしている! なんでもいいから、あの化物を殺せ!」
怒鳴り声が響く。だけど威勢とは裏腹に、男は脱兎のごとく駆け出し、影に紛れて姿を消した。
「待ちなさい!」
追いかけようとした私の前に、セシルさんが立ちはだかる。業火が全身にまとわりつき、次の一撃が尋常ではないことを告げていた。
――覚悟を決めるしかない。私の魔力は、もう底が見える。ここで決める。
彼女の炎が螺旋になって部屋を覆い尽くそうと広がるより早く、私は炎を断ち切る。そうしてできた間隙に、彼女の姿を捉える。
「止まって!」
叫びが空気を走り、炎は嘘のように静かに消える。わずかな間を置いて、彼女の膝から力が抜けた。
慌てて駆け寄り、その身体を支える。
わずかに目を開け、私を見る彼女の瞳から、紅の色が少しずつ薄れていく。
「もう大丈夫だから」
そう告げると、安心したように瞼が閉じた。穏やかに上下する胸が、彼女の生存を教えてくれる。私は周囲の火種を足で踏みつぶし、残り火を払い落とした。
「レナさん!」
背後から、耳なじみの良い、心の緊張をほどく声。振り返ると、シャルが息を切らして立っていた。
「…………え?」
シャルと目が合う。彼女の表情が驚愕に染まる。
「その紅い瞳は……一体……」
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次回が第二章最終話です。
ただの便利屋だった私が、王女様と一緒になるまでの話:王女様の様子がなんかおかしい? くと @kuto_kkym
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