あるだけじゃ伝わらないもの

カズロイド

本編

夕食のあいだ、二人の会話はずっと途切れていた。

静かなダイニングに、食器の触れ合う微かな音だけが響く。

窓の外では細い雨が降り続き、ガラスを伝ってゆっくりと滴り落ちていた。


「ねえ……最近、仕事どうなの?」


妻の彩乃がおそるおそる口を開いた。

彼女の箸は料理の上で止まったままだ。


「まあ、ぼちぼちかな。特に話すこともないし」


僕は淡々と答えた。

嘘ではないが、本当のことでもない。

実際のところ、職場の状況は日に日に悪化している。

日々のストレスや不安は積もっていく一方だったが、それを彩乃に話す気にはなれなかった。

言葉にすれば、その現実をもう一度なぞることになる。それがひどく億劫で、何より怖かった。

誰かに自分の人生を委ねるような気がして、感情を打ち明けることにはずっと抵抗があった。


「でも、夜ちゃんと眠れてないよね。私、気付いてるよ」


彼女は顔を上げ、僕をじっと見つめた。

その瞳には、心配と悲しみが入り混じっていた。


「ああ、まあ……多少はあるけど、大丈夫だから」


僕は軽く視線を逸らした。

小さな沈黙が湯気の立たない食卓に落ちた。


彩乃は少し唇を噛んだあと、再び口を開いた。


「ずっと一人で抱えてたら辛くない? 私じゃ力になれないかもしれないけど、話を聞くくらいはできるし……」


「いや、話したって仕方ないよ。彩乃まで嫌な気持ちにさせるだけだし」


「そういうことじゃないってば。ただ、あなたが何を考えてるか知りたいだけなの。つらいならつらいって言ってよ……」


彩乃の声は、感情がこらえきれないように震えていた。


「感情的になったって現実は変わらないだろ。仕事の悩みなんて結局、自分で何とかするしかないんだから」


まるで何かを守ろうと身構える犬のように、僕の口調は自然と固くなった。


彩乃は「そういうことじゃない」という代わりに、大きなため息をついた。


「なんでわかんないの……? 私には聞く資格もないってこと?」


「資格とか、そういう話じゃない。ただ……」


「ただ、何?」


「ただ、仕事の細かい話を君にしても、わからないだろうって思っただけで……」


僕が言い終わらないうちに、彩乃はもう一つ大きなため息をついた。

それは苛立ちと悲しみが入り混じった、言葉よりも雄弁なため息だった。


「あなたって、いつもそうだよね」


「……何が?」


「私が寂しいとかつらいって言うと、現実とか論理とか、そういう話にすり替えるよね。なんで私の気持ちを受け止めてくれないの? あなたには感情ってないの?」


「感情ならあるよ。だけど、それを口に出したって……」


「だから、口に出さなきゃ私には伝わらないって言ってるの!」


彼女の声が一段高くなった瞬間、僕の中で何かが小さく弾けた。


「そうやってネガティブな感情をぶつけられるのが一番嫌なんだよ」


彩乃は信じられないという表情で僕を見つめた。


「何よそれ……私のこと、馬鹿にしてるよね。感情的になる私がいつも間違ってるみたいに」


彼女は勢いよく椅子を引いて立ち上がり、寝室へと向かった。

強くドアを閉める音が響き、静かなリビングにその余韻が残る。


気がつくと、窓の外では雨がさっきよりもずっと強くなっていた。


――――――――――――――――――――――


僕は食卓に一人残され、激しくなった雨音をぼんやりと聞いていた。

彼女の言葉は正しい。

僕はずっと、感情を誰かに打ち明けることを避けてきた。


大学一年の頃、初めて付き合った彼女に浮気されたときから、僕は他人に自分の人生を預けることが怖くなった。

誰かと感情を共有するということは、自分の生き方そのものを依存させるようで、それだけはどうしても嫌だった。

そのせいで辛い時ほど、「自分の考え方次第で何とかなる」と言い聞かせ、弱音を飲み込む癖がついてしまった。

その話を彩乃にしたことは、一度もなかった。


――――――――――――――――――――――


僕はゆっくりと立ち上がり、寝室へ向かった。

そっとドアを開けると、彩乃はベッドの端に腰掛け、窓の外を眺めている。


僕の気配を感じて、彼女が静かに振り返った。


「さっきはごめん。……昔さ、大学一年の時に初めて付き合った人に浮気されて。それ以来、他人に依存するのが怖くなったんだ。辛いときでも、自分の考え方次第で何とかなるって思うようになって……」


彩乃は目を少し見開き、僕をじっと見つめていた。

何かを言いかけて、でも言葉を飲み込んでいるようだった。


「……ごめん、こんな昔のこと、今さら関係ないよな。ただ……怖かったんだ。君にまで裏切られたら、きっと耐えられないって思って」


彼女の表情がゆっくりと緩み、やわらかな声で言った。


「私を元カノと一緒にしないでよ。私はどこにも行かない。あなたが何を言っても、私はちゃんと聞くから……。だから、もうちょっとだけ、私に頼って?」


僕は小さく、ぎこちなく頷いた。

胸の奥が、静かに溶けていくのがわかった。


窓の外の雨音は、いつの間にか静かに、穏やかなものに変わっていた。





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あるだけじゃ伝わらないもの カズロイド @kaz_lloyd1620

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