第36話
靴音が路地を叩き、罵声が迫る。
気付けば葵の手には銃が握られていた。
破裂音、硝煙の臭い。
血膿に濡れた路地に葵は立ち尽くす。転がる死体はまだ温かい。だが誰も起き上がらない。屠殺場に積まれた肉塊のように、じわじわと熱を失っていくだけだった。
左手にぶら下げた拳銃が重い。金属の重さではない。詰まっているのは硝煙でも鉛でもなく、自分が絞り出した腸や血そのものの重さだ。葵は弾の尽きたそれを落とした。
返り血に覆われた頬はざらつき、乾いた血は剥がれかけの鱗のように張り付く。腕の中の赤子は、腐臭を嗅ぎ取った小動物のように硬直し、息を潜めていた。生き延びる直感は、人間の赤子にも備わるのかと、葵は悪意ある観察者のように思う。
どうせ救われはしない――そう考えながらも、選択肢は翳されていた。
撃ち殺せばいい。
赤子の瞳に映るのは、返り血を塗り込めた獣のような怪物だ。だが指先に力を込めても、膿の塊のように鈍く強張って動かない。
世界は綻びだらけで、不条理に充ちている。祈っても縋っても、得られるのは血と屍だけ。後悔などしない。腐った臓物を無理やり飲み下すように自分に言い聞かせる。――これ以上の選択肢は無かったのだ、と。
嘘だ。
選択肢があることを知っている。正解も不正解も分からないから、誰かに採点を求めるように自問自答しているだけだ。臆病な精神の自己防衛にすぎない。
足元の拳銃を拾い、装填を確かめ、照準を合わせる。首を折るまでもない。引き金を引けばすべてが終わる。言い訳も隠蔽も可能だ。誰にも責められず、生き延びても幸福になれる確率は低い。
状況を想定し、確率を計算する。判断しろ、選択しろ。自分が選ばずとも未来は存在する。干渉してはいけない。干渉されたくないなら。
レイラの翡翠の瞳に映る、自分の返り血まみれの姿。赤子の目は鏡だ。だが力を込めたはずの指先は固まり、体が思い通りに動かない。
どうせ世界は不条理だ。願っても祈っても縋っても、何も得られない。――それでも欲しい。
たった一つでいい。腐臭にまみれた手で抱えてもなお腐らない、大切なものが。
そのとき、路地裏から武装した男が飛び出した。罵声とともに銃口を向ける。葵は反射的に左手を持ち上げたが、電気信号は指先に届かない。錆び付いたシナプス。銃弾が放たれる――その瞬間、小さな影が躍り出た。
天井が割れて光が差し込んだように見えた。血と硝煙の饗宴に、一滴の聖水が垂らされたような光景。
和輝の足が男の顎を蹴り上げる。巨体が宙に浮き、後方へ弾け飛ぶ。後頭部が地面に叩きつけられる音が、やけに鮮明だった。
血腥い路地に、そこだけ天上から光が射し込む。
振り返った秀麗な顔に、レイラが泣き叫び、腕を伸ばす。和輝はそれを受け入れるように微笑んだ。
葵は左手を下げぬまま、ヒーローの登場を見ていた。
これでは喜劇だ。デウス・エクス・マキナ。物語は予定調和のように進んでいく。神を僭称した男が、間抜け面で自分を見上げている。殺意すら知覚しない。頭の芯が痺れるような怒りが湧き出す。
――そんなの、不公平だ。
腸を素手で抉られるような不快と、血を啜りたい渇望が喉を焼く。彼の周囲は消毒液をぶちまけたように清潔で、俺の膿と血で爛れた皮膚を白日に曝す。無数の選択肢に気付きもせず、正解だけを奪っていく。ヒーローなら、なぜもっと早く現れなかった。
――こんなの、ずるいじゃないか。
腐肉に群がる蛆虫のように、同じ言葉が頭を這い回る。彼は葵を救いに来たのではない。レイラを救うために現れたのだ。この不正解の世界から、ただ彼女だけを連れ去るために。
――こんなの、おかしいだろうが!
「葵」
喘ぐように、ヒーローが名を呼ぶ。感情は消え失せ、鋭い眼差しだけが残る。その切れ味で自分を裂いてくれたらいいのに――無駄なことを考える。
銃口を和輝の額へ突きつける。汗と血で滑る指先は、爛れた肉を裂くように鈍く痛む。
ほんの僅かに引けば、頭蓋は熟れすぎた果実のように弾け飛ぶ。
その想像に、唇の裏から鉄臭い血が滲んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます