第35話
蒼穹を舐める紅蓮の炎を、今も覚えている。
葵は、腐臭の漂う路地裏に座り込んでいた。片腕に収まる小さな生命体は泣き疲れたのか、状況も知らぬように安らかに眠っている。目を覚ましている時の嫌な強張り方は無いが、全体重を預けて来る存在がどうにも居心地悪い。先程までの警報にも似た悲鳴は何だったのかと辟易するばかりだ。
和輝と霖雨は無事に逃げられただろうか。霖雨だけなら兎も角、界隈を知り尽くしたスーパーマンのような和輝が一緒ならば安心して良い。それは彼に対する信頼ではない。和輝はそういう人種だ。人を救い、安心させる。其処に見返りを求めない。
危険度が高いのは、彼等よりも此方だ。男達――D.C.の狙いはレイラだからだ。口封じとして抹殺を狙ったとしても、優先順位はレイラの暗殺だ。
逃亡か、潜伏か。
何れにせよ、身一つで飛び出して来た今の状態は心許無い。赤子の扱い方も解らないし、此処には哺乳瓶もオムツも無い。抱き替えれば起こしてしまうような気がして、レイラのいる右腕を動かせない。そんなことはちっとも知らないレイラはすやすやと眠っている。
いい身分だな、と皮肉る。どうせ伝わりはしない。
二人と何処かで落ち合おうとポケットから携帯を探るが、傍受されている可能性を考えると通話は戸惑われる。葵は考えを巡らせた末、状況を打開すべく携帯を取り出した。
その瞬間、レイラの双眸が開いた。
翡翠のような両目に自分の顔が映り、葵は硬直する。此処で先程のような悲鳴を上げられたら、見付かってしまう。
何かで口を塞がなければ、と考える必要も無かった。目を覚ましたレイラは、表情を変えず、泣き声も漏らさなかった。状況を察したのかと過大評価してしまう。レイラはぐるりと視線を巡らせて、携帯を見詰めた。
腕の中でレイラが、携帯へ手を伸ばす。
「これは駄目だ」
そっと携帯を遠ざける。レイラは、くしゃりと顔を歪めた。
声帯が震える――。
「解った。交換条件だ」
葵は携帯を差し出した。レイラは両手で携帯を抱え、満足したのか笑った。
同時に、携帯が震えた。ディスプレイに映る番号は和輝だった。傍受の可能性も鑑みず、通話して来たに違いない。取り上げようと手を伸ばすが、レイラが再び顔を歪めたので、葵は溜息と共に通話を諦めざるを得なかった。
このクソガキ。
携帯は未だに震えている。位置情報が特定される前に、電話に出るか、電源を落としたい。
だが、葵にはその選択肢がなかった。やがて通話が切れた。レイラは不思議そうに携帯を見ている。
このままじゃ駄目だ。今はこの場所から離れた方が良い。事情を知っていて、レイラを預けることが出来て、二人と合流出来る可能性のある安全な場所――。
そんな場所は何処にも無い。あるとすれば、襲撃を受けたあの家だけだ。
背中に疲労がどっと押し寄せて、葵は壁に凭れ掛かった。ふっと下ろした瞼の裏に、過去の記憶が鮮明に蘇った。
三年前の七月――。
渡米して生活も安定し、充実した毎日を送っていた。新しい土地で新しい人間関係を構築し、何一つ不自由も無かった。あの日、一通のエアメールが届いた。それは母国に残して来た数少ない友人からの手紙だった。
七月某日、渡米する。
迎えに来いなんて不躾に、墨塗れの筆で記されていた。葵は突然の知らせに驚いた。母国に残して来た友人とは、生涯会う事も無いだろうと思っていた。否、会いたくもなかった。だが、自分が何を言っても海を越え、空を渡って来るだろう友人に対し、葵に拒否権は無かった。
脳に寸分違わず記憶された番号へ電話を掛ける。小さな機械越しに聞こえた友人の声に、故郷を懐かしむ程の愛着は無かった。葵は一言だけ告げた。
空港で待っている。
断りの言葉を持たない葵の、唯一の返事だった。
友人は「当然だろう」と尊大な言い方をして、通話は終わった。数年越しに会うとは思えない近しい距離感に、葵は苦笑いを浮かべた。
約束の日、葵は空港へ向かった。着陸しようとする飛行機を見ていた。美しい流線型が滑走路へ滑り込む様を鮮明に覚えている。それが折り畳んだ足を下ろし、着陸の体勢を取った瞬間だった。
恐らく客席だろう飛行機の部位は爆発炎上した。突然の事態に空港内は阿鼻叫喚の地獄と化し、滑走路はジェット燃料が溢れ火の海となった。駆け付けた消防隊も近寄れず、炎の中で悶え苦しむ客の影が照らされ、踊っているように見えた。
鎮火まで丸一日掛かった。引火し爆発した機体は墨となった。乗員、乗客を含めた二百名近くの人間が骨も残らず消し炭になった。助かった人間は一人もいない。友人もまた、同様だった。
乗客名簿に刻まれた友人の名前を、葵はじっと見詰めていた。初夏の日差しが真上から照らしていた。
国際犯罪組織による自爆テロだと、報道された。死者を悼む葬儀は盛大に行われ、まるで大きな祭典のようだと思った。
葵には解らない。葬儀に出席した葵は、その希薄な存在感の為に報道陣からの取材は一切受けなかった。この訃報を聞き付けた故郷の友人が、憔悴し切った声で労わりの電話を掛けて来た。葵の対応は事務的だった。――解らなかったのだ、葵には何も。
――憤るべきか。泣き叫ぶべきか。縋るべきか。突き放すべきか。
葵には解らない。今も解らないままだ。
葵に家族はいない。神木家は代々続く警官の家系で、両親と兄は葵が高校生になる頃には皆殉職していた。
常識と呼ばれる社会的風習は知っている。周囲の人と違わぬように生きることが正しい――、そう教え込まれた。困っている人を助けることも、親切にすることも知っている。葵にはその価値が解らない。
規則は知っているが、何故、それを守らなければならないのか解らない。社会に影響を与えぬ範囲で、自分の身を守り、殻に篭ることが最も平和的手段だった。誰にも干渉しないし、させない。人と深く関わらなくとも生きていける。—―いや、深く関わるべきではない。干渉し合うから、人は死ぬのだ。
黒炎を昇らせる爆炎の中、酸素を求めて黒い影が踊る。硝子越しのそれは、まるで喜劇のようだった。
葵には、解らない。あの時、何をするべきだったのだろう。責めるべきか、打ち拉がれるべきか。何が正解だったのか、葵には解らない。
奈落の底に転がり落ちてしまいそうな思考が、急ブレーキでも掛けられたように停止する。
硬直し冷えて行く指先を、何かが縋るように握っている。葵は瞼を開けた。腐臭に満ち、ゴミ捨て場のように寂れた路地裏で、この世の不条理等欠片も理解出来ないだろう非力な生命体が、葵の指先を握っていた。
地上で最も醜悪で、最も脆弱な生物の幼体だ。身を守る牙も鱗も毒も刺も甲羅も持たない。けれど、その手は力強く、温かかった。
「……悪かったな」
葵は、立ち上がった。
行く宛がある訳ではないが、この場所は安全ではない。
体中に疲労感が滲む。
レイラの握る携帯が、再び着信した。浮かぶ番号は和輝のものだった。傍受を恐れて葵はそっと手を伸ばす。レイラは携帯を握ったまま離さないので、そっと電源を落とした。
同時に、葵は閃いた。あの二人なら、エリザベス女史の元に向かうだろう。葵は頭の中に地図を思い浮かべる。当然、敵も思い至るだろう。葵はポケットの中の拳銃を確かめ、レイラが泣き出す前に早足に歩き出す。
路地裏に靴音が迫る。荒々しい罵声が壁を震わせ、腕の中の赤子は小動物みたいに強張った。
葵は思考より先に、銃へと指を伸ばしていた。
――破裂音。硝煙。血の臭い。
世界は唐突に途切れ、血膿の路地へと組み直される。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます