第37話

 目的地は、すぐ目の前だった。

 葵と合流するはずだったその瞬間、夜の闇に破裂音が走った。

 銃声だと気付くより早く、和輝は弾かれるように駆け出していた。


 パン、パン。乾いた音が何度も夜気を裂いた。

 霖雨が叫んでも、和輝は振り返らなかった。

 あの背中はあっという間に遠ざかり、霖雨が追いついた時には、アスファルトの上に複数の男が転がっていた。


 火薬の臭いが鼻を刺す。呻き声。濃密な焦燥が空気を淀ませる。霖雨が駆け寄ろうとしたとき、和輝は片手を翳して制した。


 その視線の先に、一人の青年がいた。

 頬に返り血を浴びた青年は、感情を削ぎ落とした無表情に、伽藍堂の瞳をしていた。


 銃口が和輝に向けられ、逸れる気配は微塵もなかった。まるで――最初から、そうすることだけが決められていたかのように。


 それが葵だと解った時、込み上げたのは安堵ではなかった。胸を掴むのは、確かなだった。拳銃への慣れ、命を奪うことへの躊躇いのなさ、氷のような眼差し。その全てが、今まで接してきた葵という存在を霞ませる。


 ヒーローと透明人間が対峙する。霖雨の立つ余地はなかった。

 彼はただ、物語の端で舞台を見つめる観客のように、身を凍らせてそこにいた。




「葵」




 掠れる声で、喘ぐように和輝が呼ぶ。


 葵の視線は動かない。拳銃は下ろされず、レイラの声ばかりが悪夢のように響いている。


 緊張が張り詰め、呼吸すらままならない。言葉より先に、息を呑んだその瞬間、和輝が歩き出した。無防備に銃口の前に立つと、葵の肩が微かに震えたように見えた。


 和輝は銃を片手で掴むと、ゆっくりと下げる。

 霖雨に背を向けたまま、和輝は静かにレイラを抱き止めた。赤ん坊の泣き声は、潮が引くように消えていく。


 どこか遠くで、改造車のバックファイヤーが聞こえた。けれど、霖雨は二人から目を離さなかった。葵は俯き、無感情の目で問い掛けた。




「何が正しかったと思う?」




 聞き覚えのある問いだった。


 ああ、そうか。霖雨は胸の内に漏らした。

 そうか、彼は本当に、解らないんだ。同じものを食べて、同じ家に住んで、同じものを見ていても、葵は倫理の境界の外にいる別の生き物なんだ。


 葵が解らないのは正解や不正解ではなく、物事の善悪が理解出来ないのだ。そして、本当に恐ろしいのは、解らないまま正常な人間として生きてきたということなのだ。


 我々は違う人種であるということを理解しなければならない。和輝の父の記した一文が、霖雨の耳に蘇る。


 和輝は訝しげに目を細め、至極当然のように言った。




「何も正しくないだろ」




 倫理の境界線を挟んで、彼等は対峙している。

 それでも、和輝は言葉を止めない。




「なんで誰かの採点を待ってるんだよ。何か罰則でもあるのかよ。そんなこと考えて、誰かが救ってくれるのかよ。自分が思うようにしろよ」

「そんなの、ずるい」




 絞り出すように、葵が言った。

 普段の彼からは聞いたこともないような拙い物言いだった。


 和輝はレイラを抱き直し、葵の手から拳銃を取り上げる。まるで眠った子どもの手から玩具を引き離すみたいに。




「その時のお前は、きっと最善を尽くした。俺は、そう思う」

「……」

「でも、最悪の結末を回避出来なかった。だから、後悔してる。そんなお前を、誰が責められる?」




 葵が、僅かに俯いた。返り血を浴びた横顔が、街灯に照らされている。




「もしも、誰かがお前を許さないって言うなら、俺がそいつに言ってやる。――だったら、お前が助けに来いってさ」




 和輝は皮肉っぽく笑った。




「人生は既に難しくできている。それを更に複雑にする必要はないさ。過去がお前を呪うなら、認められるような人になれ。自分を許せる生き方をしろ。それでいいじゃん」

「それじゃ駄目なんだよ」

「いいんだよ。どうせ、何をしたって批判されるんだから。自分のやりたいようにやっていいんだよ。それでもダメなら、俺を呼べよ」




 和輝が放胆に笑った。




「頼れよ、友達だろ。あとほんのちょっとが足りない時にこそ、頼ってくれよ」




 レイラを腕に抱きながら、和輝が訴える。

 縋っているのは和輝なのか、葵なのか。


 和輝が言った。




「手を伸ばせ。必ず、掴んでやるから」




 葵の掌が解かれた。

 まるで、泣き腫らした子どものように無防備な顔付きだった。和輝は拳銃をポケットに押し込んだ。暴発しないか心配だ。


 葵が可笑しそうに喉を鳴らす。皮肉っぽい嫌な笑い方だ。




「理想論で綺麗事だねえ」

「よく言われるよ」




 もう慣れてしまった。

 和輝が、そう言ってからりと笑った。


 葵も釣られるように笑った。

 疲れ切った、けれど、憑き物が落ちたような何処か晴れやかな笑みだった。



 彼の纏う棘は猛毒だ。

 けれど、それはきっと、陽の光に溶けていく氷でできている。

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