日の芳香、月の果実

dede

月の光はレモンの香り

「おニンゲンさんにこんな事わざわざ説明することでもないけれど、月の光は太陽の光を反射したものなの」

「そうなの?」

「そうなの。だから地球が太陽と月の間を遮る月蝕では陽光が届かずに月に陰を落とすの。これはおニンゲンさんが調べてわかったことよ。一つ賢くなったわね、小さなおニンゲンさん」

「ニチカだよ」

「そう。では賢くなったニチカ。そんなお前に頼みがあります」

「なーに?」

「その雑誌、私にも見せて」

「いーよ。一緒に見よう」

 それに私は確か、嬉しくて笑って答えたような気がする。

「ありがとう。けれど一緒には見ないわ。少し見るだけ。と。待ってなさい」

 彼女は少し離れた自動販売機で缶ジュースを2本買うと、公園のベンチにいる私の元に戻ってきた。ソコは街燈の真下なので暗くなっても本が読めるからあの時の私のお気に入りの場所だった。

 彼女は缶のプルを少し苦戦して上げると私に差し出した。

「お礼にあげるわ。飲みなさい」

「ありがとう、お姉さん」

 私はこの時初めて炭酸飲料というものを飲んだ。

「シュワシュワするぅ。酸っぱいぃぃぃ」

「あら、ごめんなさい。苦手だったかしら。別のにする?」

「ううん、コレがイイ」

 炭酸が喉を通る感触が楽しくて、私はゴクゴクと飲んでいく。飲むために顔を上げていたら視界に三日月が入った。ゲップが出た。

「下品ね」

「ごめんなさい。ねえ、お姉さん。月の満ち欠けも隠れるから?」

「あら、ニチカは意外と賢いのね。でも違うわ。あれは太陽の当たる位置が変わるからよ」

「ふーん」

 また一口含んだ。ケフっと出た。お姉さんが私の隣りに座り、肩がぶつかるほどの距離で私の雑誌を覗き込む。

「では見せて貰うわね。フム、フム。これ、本当なの?」

 彼女は紙面の大阪万博特集の中から、1点の写真を指差した。

「テレビでも見たよ。すごいよね、"月の石"って! 月に詳しいお姉さんもやっぱり気になるんだね」

「ふーん。本物なら欲しいわね」

「えー? アメリカが取ってきた石だから貰えないと思うよ。それに家にあってもタダの石だし」

「あら、ニチカは意外と褪めてるのね。そうね、ただのおニンゲンさんにはそうかもね」

「お姉さんは博士なの?」

「……ねえ、ニチカ。さっき月の光は太陽の光の照り返しだと教えたわね? でもその性質は大きく違うの。陽光は生命のエネルギーに満ち溢れて生者の生活の糧になる。それは生者以外にとって毒なの。

でも月光は逆。生者ならざるものを癒し、漲らせるの。元は陽光だというのに。ねえ、ニチカ。面白いとは思わない?」

「ちょっとお姉さんが何を言ってるのか分からない」

「そんな難しい話じゃないわ。月に反射して性質を変えたのだから、きっと原因は月自体にあると思うの」

 私はずいぶんと簡単になった説明に納得するとコクリと頷いた。

「なるほど」

「だから触媒となる"月の石"が手に入ればきっと克服できると思うのよ」

「こくふく?」

 彼女は私の呟きには答えず、立ち上がると私の真正面に立ち私の顔に手を触れると覗き込んだ。それはもう、もう少しで鼻が当たるほどの位置で。彼女に遮られて三日月は視えない。彼女の綺麗な澄んだ円い瞳しか見えない。でもそう思っていたのは彼女もだったみたいで。

「綺麗ね。生命に満ち溢れていて。エネルギーに溢れている。羨ましい」

「お姉さんもだよ。とても綺麗」

「ニチカは意外と面白いわね。どう? たまにこうして会ってもいいかしら?」

 返事をしようとしたら代わりにクフっとゲップが出た。お姉さんが半歩後ずさった。

「いいよ、お姉さん。お友達になろう。お名前は?」

「レモンの匂いがしたわ……ゲツカよ」

「私と名前似てるね」

「たぶん漢字が違うわ。あなたは"お日様の香り"ではない? 私は"月の果実"なの」

「レモンだ!」

「レモンは初めてね。よくバナナと言われるわ。それでは今日からニチカと私は友だちね。でもそうね……今日はもう帰りなさいな。もう真っ暗でさすがに危ないわ?」

「わかった。またね、ゲツカお姉さん」




 それが55年前。

 高校ぐらいまでだろうか。彼女は私の夜遊び友達であった。悪い友達である。

 ずっと姿の変わらないゲツカを不思議に思っていたが、そんなものかと自然と受け入れた。それからは音信不通であり、どこで何をしてるかも知れなかった。

「やっほーニチカ。遊びに来たわ」

 これが今さっき。

「何十年ぶりに再会したのにその挨拶?」

 午後の自宅でゆったり海外ドラマの配信を観ていたらチャイムが鳴ったので玄関に出てみると、大きなスポーツバッグを背負った制服姿の少女が立っていた。服装や髪型、化粧などは違うものの記憶にあったままのゲツカ。けれどあまりの気の抜けた挨拶に一瞬湧き上がった感激は引っ込んだ。落胆というか失望というか。そんな中、トタトタと足音が近づいてくる。

「ねえ、おばあちゃん。そのコ誰?」

 学校から帰っていた孫娘。会話を聞きつけてやってきたようだが、祖母と女子中学生の組み合わせを上手く消化できなかったようである。

「ばあちゃんの知り合いだよ」

「おばあちゃんの? ふ~ん」

「こんにちわー♪」

 じろじろ不躾に好奇心を隠そうともしないで見ている孫娘に対して、ゲツカは笑顔で手を振った。愛想がよくなったものである。

「ほら、私はこの子と話しがあるから部屋に戻ってなさい」

「はーい、またね」

 そういってトタトタとまた部屋に戻っていった。

 私はゲツカを家に招き入れる。リビングでソファに座らせると二つグラスに自家製レモンシロップと炭酸水を注いだ。ゲツカが噴き出す。

「いまでもレモンスカッシュ好きなの? どれだけ好きなのよ」

「好きなモノ飲んでいいでしょ。それでどうして今頃になって急に?」

「ほら、今、万博してるでしょ? そしたら思い出して」

 という事は大阪万博がなかったら会いに来なかったって事だろうか? 私はため息が出る。と、そこで私も思い出した。

「結局"月の石"は手に入ったの?」

「ああ、あの石。万博の石は偽物だったわ」

「アレ、偽物だったの? 信じてたのに」

「万博の石はね。ただ、月の石は持ち帰ってたのかも。渡米してNASAに行ってみたのだけど結界やら魔除けやらで近づけなかったわ」

「あなた、会ってない間にそんなトコまで行ってたの?」

「でも手に入らなかった。無駄骨だったわ」

 でも私はふと気がつく。

「でも今はまだ昼よ。日の光、克服できたんだ?」

 敢えて問いはしなかったけどいつも夜しか出歩かないので昼はダメなんだと思っていた。するとゲツカは嬉しそうにニヤリと笑うとスポーツバッグから薬のチューブを取り出す。

「最近の日焼け止めの進歩は凄いわね。曇っていればだけど、日中外を出歩けるようになったのよ。おニンゲンさんの科学の力は大したものね」

「半世紀だからね。色々変わったわよ。ゲツカは余り変わってないようだけど」

「おニンゲンさんではないからね。ニチカはアレコレ変わったわね」

 彼女は、私を見て、室内を見て、孫の戻って行った部屋へと目を向けてそう言った。

「おニンゲンさんだからね。残念だった?」

「いいえ? 出会った頃の真っすぐなニチカも良かったけど、今の少し癖のあるニチカも好きよ。なんというか……癒されるわ。ああ。ようやくニチカと会ってるって実感してきた」

「性格が悪くなったと言いたいのね?」

「違うわ。魅力がついたってこと。真っすぐでエネルギッシュである事は素晴らしいし羨ましいけれど、時に強い力は相手を疲弊させてしまうわ。魅力的な大人になったのね、ニチカ」

 そう言って笑いかける。けれど違うのだ。なったのではない、したのはゲツカだ。

 私はグラスに鼻を近づけてレモンの匂いを嗅ぐと一口流し込む。シュワシュワとした刺激と、酸味と微かな苦味が喉を通り過ぎていく。甘い余韻を残して。

 十代の私は、悪い事はだいたいゲツカとした。ケンカもしたし楽しい事もたくさんあった。いまでも消化できずにモヤモヤしたまま抱えてる事だってあるし、後悔してる事だってある。でもその一つ一つが私を形作っている。あの頃の出来事が今の私に変質させたのだとハッキリと言える。私はゲツカを通して今の私になったのだ。

 言わないけれど。そういう意味では私は性格が悪くなったかもしれない。代わりに尋ねた。

「また来る?」

「そうね。そうしようかしら。お孫さんもまたねと言っていたし。しばらく癒されに通わせて貰うわ」

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