第3話 思い出しましたの。あのイワナは美味でしたわ。

 遠き過日、ワタクシに微笑みを向けてくださった殿下が、今は冷たい眼差しでワタクシを見下ろしておられる……。一段、周囲よりほんの少し高い祭壇のホールに上がられて、しっかりと妹を抱き、その手を握りしめていらっしゃるの。


 ワタクシ、記念式典後のパーティ会場を抜け出て、こちらの大ホールへ参りました折りには、まさかこのような辱めを受けるとは思ってもおりませんでしたわ、殿下。


 何より許しがたいのは傍にいる妹ですわ。なぜ貴女がそこに立っているの? そこは、ワタクシが実力で他の貴族の皆さま方に認めて頂いて勝ち得た場所ですわ。貴女がいるべき場ではありませんわ。


 なのになぜ、殿下はワタクシの誇りを踏みにじって平気な顔をしていらっしゃるの?


 殿下もお父さまも、いいえ、国中が何かおかしいのですわ。嫌な予感が致しましたもの、国王陛下を蝕んでいる病の原因が、我が国の誇る魔導院が総力を挙げて調べておいでだというのに、それでも何も解らないだなんておかしな話でしたもの。何かがおかしいのですわ、何かが。


 ワタクシ、エリザベート・ルセス・ミルフォードは王家に連なる由緒正しき名家の出身、いやしくも王国に並び立つ三公爵の家門ですわ! このような辱めを受ける謂われなど本来ありませんことよ!?


 心の中の絶叫は、誰の耳にも届きはしないのですわ。


 殿下の目が、妹の目が、ワタクシに好奇を向けているのはなぜですの!?

 周囲の貴族子弟の方々も、何か奇異なものを見たかのように顔を背けて……!


 いけない、気が昂ぶってしまいましたわ、冷静に努めねばなりませんのに。


 いつの間に、ワタクシと殿下の距離はこれほど遠ざかっていたのでしょう。壇上におわす殿下が、実の距離よりもずいぶん遠くに感じられますわ。


 嗚呼、ワタクシたち二人、こんなにも距離の開いた関係でしたでしょうか。


 過去の記憶が取り留めもなく流れ去っては、ワタクシの感情を揺さぶりますわ。初めて殿下をお目にしたあの日や、お言葉を掛けてくださったあの瞬間……。あれは、幻でしたの?


 キラキラと、輝く水面を眺めながら二人きり昼下がりの庭園を歩いた日のことも、ワタクシの脳裏にはまるで昨日のことのように浮かび上がりますのに。


 まるで走馬燈のように、キラキラと、ゆらゆらと。水鳥の足元で小川の波がさざめく度に、殿下は優しい笑みをワタクシに向けて、あれはどこそこの鳥だよ、と。柔らかな声でそう教えてくださったのに……。


 感情の昂ぶりを抑えきれませんわ。記憶の翳りが掠める度に、熱いものが目頭にこみ上げて参りますわ。悔しさのみでなく、どす黒い嫌悪までもが涌きだして、ワタクシの大切な想い出までもを染め変えていくのですわ。


 ひどい裏切りではありませんの。その上に、この、ひどい仕打ちですわ。


 クリスティアン殿下の影に隠れて、怯えたフリをしている妹のイライザを睨みつけてあげましたの。殿下は露骨に嫌悪感を滲ませたお顔をしていらっしゃる。


 拒絶の色を読み取ることが、今日ほど辛く、心を苛んだことはありませんわ。


 いつ、すれ違ってしまったのでしょう。

 いつの間に、こんなに心が離れていたのでしょう。


 美しい川べりで、二人だけで語らい合ったあの日の会話はもう思い出せなくて、それがどれほど遠い日だったのかを、今になって思い知らされるだなんて。


 あれは、遠き過日のこと。両の指では足りぬほどの、昔のことでした?


 キラキラと輝く水面に、小さな魚の群れが影を差して。リールの軋む音が幻聴のようにワタクシの想い出の中に重なっては、不穏なノイズを奏でるのですわ。


「魚がいる、」


 殿下の指差す先、水の中では輝く鱗と虹色の影が躍るように見え隠れしていましたわ。とてもいい型の鮎が群れていましたの。

 この辺りの渓流は川幅が狭いから、投網では無理がありそうね。向こう岸は断崖になっていて、根掛かりが心配だし、友釣りよりも疑似餌が向くわ。いいえ、いいえ。渓流になど出掛けた覚えはありませんわ、これは、いつの記憶?


 ああ、ワタクシ、混乱してしまってますわ。色々な記憶がない交ぜに湧き上がって、まるで混線を起こしたテレビ画面のよう。テレビ? 知らない単語ですわ。


「エリザベート、僕は君を選ばない。幾ら貴族院の決定があろうと、僕は真実の愛に従って、神の祝福を受けるに相応しい女性を娶る。それは君ではない。」


 殿下の、これほどに冷たいお声は初めてお聞きしました。

 ワタクシの心臓がドクンと飛び跳ねましたわ。


 鼓動が、またしてもドクドクと脈打ち始めましたの。息をしているのに、空気はまるで入っては来ませんのよ。喘ぐような浅い呼吸を、なんとか周囲に悟られぬように抑えているのですわ。

 ワタクシ、気丈にしているつもりでしたけれど、やはり苦痛を受けていたのですわね。雷に打たれたような衝撃が突然走りましたわ。


 あなたは、稲妻のようにー わたしのカラダを、引き裂いたー。

 ああ、なんて古い歌を口ずさんでしまったんでしょう。昭和歌謡かよ。


 そう言えば、ディスコにも行かず仕舞いだったことをいきなり思い出しましたわ。まるで無関係なことが思い出されてしまうのは、これは逃避ですかしら。


 なんですって……? 今、のは、ワタクシの思考ですの? 


 キラキラと輝く水面は、殿下と歩いた庭園にある池の畔ではありませんの。北陸にある渓流ですわ。春先の雪解け水がまだ冷たい……。それと気付いた瞬間に、堰を切った記憶の河は怒涛の奔流となりましたのよ。


 テレビ画面の中、ミラーボールの幾千の鏡面が光に反射して煌めいていたことや、清き渓流の流れの速さに、太陽の光が煌めいていた、長閑な田舎での風景が、呼び覚まされるように、次々と脳裏に流れていきますわ。


 走馬燈? なんですの、それ?


 ゴツゴツとした岩場の、足場の悪い中をよろけながら踏み入った、この記憶はいったい? 流れ込んでくるこの光景は? この知識は? この過去は、この映像は、本当にワタクシの記憶? な、なんですの、なんなの、なんなんだ、これ?


 あれ? 私、このドレス……ワタクシ、釣りなんてやったことは御座いませんわよ、リール……と、申しますの? この記憶はいつのものですの?


 イワナ釣りに渓流を降りて行くのですわ、急な斜面を滑らないよう気をつけて降りてゆきますの。河原に辿り着けば大小の丸い石が一面を覆い、せせらぎの音が喧しいほど夏の空間に響いている。春先の寒々しかった氷川は、緑の萌え出る盛夏の頃には涼やかな清流に変わるのですわ。


 清廉な川面はキラキラと反射して、覗き込めば確かに魚の影が見え隠れしている。

 私は澄んだ空気を肺一杯に吸い込むのが好きなんだ。


 清水の冷たさを指先に確認するために、私はまず最初に沢に降りるんだ。それから改めてキャンプ地だ。仲間達とはたいてい手順が逆だけどね。

 安全な場所にテントを張ったら、もう一度沢に降りていくんだ。岩場のいい所を見つけて、石を丸く並べて簡易の炉を作るのさ。

 薪はそこらにある柴とか枯れ木を適当に集めて、湿気ってたら火が付きにくいから、その時は素直にオイルを振りかけて燃しちまうのが早い。


 釣ったばかりのイワナを金串に突き刺して周囲に並べておくだろ? いい具合に焼けてきたら、皮目が焦げて剥がれてきたりする。そこに醤油を振りかけてぇ……、


 アツアツのとこを、かぶりつくんだ!


 やめてちょうだいっ!


 ワタクシは公爵令嬢のエリザベート・ルセス・ミルフォードですわ!!

 誰ですの!? ワタクシの頭の中に野蛮極まりない原始人がいますわ!

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