無為の鳥

津島 結武

無為の鳥

 男は、朝の空気がまだ白む頃に家を出ることが多かった。大学まで片道四十分。最寄りのバス停は遠く、坂の多い道を自転車で下るしかない。杉林を左に見て、小さな川を越えると住宅地が広がっている。まだ眠っているような街並みに、カラスの声だけが冴え冴えと響いていた。


 男は二十二歳。地元の国立大学に通っているが、何をしたいのかわからないまま四年目を迎えていた。就職活動は始めてはいるが、気乗りがしない。エントリーシートを書きかけては、画面を閉じてしまう日が続いていた。友人は多くもなく、少なくもなかった。話す相手はいるが、心に残る会話はあまりなかった。


 そんな彼にとって、朝の道は唯一、世界と繋がっていると感じられる時間だった。人も車も少なく、鳥の鳴き声がやけに大きく聞こえる。耳を澄ますと、遠くで何かが動いている気配がする。風でも獣でもない、もっと小さな、何か――。


 その日、彼はいつもより五分だけ早く家を出た。砂利のまばらな駐車場にできた小さな水たまりで、小さな鳥が水浴びをしていた。陽の光を浴びて、羽が淡く光っていた。雀のようで、メジロのようにも見えた。彼にはそれが、金色に輝いて見えた。


 彼は不思議とその鳥が気になった。なんて鳥だろう。自転車を止めて眺めていると、それは彼の頭上を通って飛び立っていった。しかし、道なりに。まるで道案内をするかのように。


 今日はたまたま早く家を出た。少しくらい寄り道をしても講義には遅れない。たとえ遅れたとしても、それは些細なことだ。彼はその鳥を追うことにした。


 一般的に鳥は馬よりも速い。しかし、金の鳥は彼の視界から消えることはなかった。断じて飛ぶのが遅いわけではない。数秒飛び進んでは石垣や低木に止まり、彼が追いつくとまた飛んでいく。


 やがて、場所は静謐せいひつな住宅街に移った。まるで街自体が長い夢をみているかのような場所である。そして、鳥はある寺の敷地内へ入っていった。


 朝霧がまだ地面を離れきらず、寺の境内は湿った白さに包まれていつつも、晴曇からかすかに漏れ出る光に照らされていた。山に抱かれるようにして建つその寺には、手水舎と鐘楼、そして仏像を納めた古びた堂、奥まったところに住職の住まう小さな庫裏くりがあるだけだった。余計なものはなく、ただ静けさと石とがそこに在った。


 境内には細かい砂利が敷き詰められ、踏みしめればさく、さくと音がする。今朝、その音を立てているのは、住職ひとりであった。ほうきを手に、まだ、あるいはもう誰も来ぬ場所を掃いていた。風も吹かず、落ち葉も見当たらない。それでも住職は、ゆっくりとした動作で境内を端から端までなぞるように掃いていた。手の動きに焦りはなく、しかし眠気の名残もない。何かを祓うというより、ただ在るものを整えているような、そんな所作だった。


 ふと、住職の手が止まった。手水舎の脇の梅の枝に、先の鳥がとまっていた。朝日を背に、羽がわずかに光る。目を細めた住職は、小さく「あれは……」と呟いたが、声には起伏がなかった。静かな朝に、その鳥だけが音の代わりのようにそこにあった。


 そして、視線の端にもう一つの気配を感じた。境内の入り口、木の門をくぐった石段の上に、若い男がひとり立っていた。男は何も言わず、不思議そうに住職と金の鳥を見ていた。住職はその姿を見て、鳥を見たときよりも少し長く、まばたきをした。


 風がないにもかかわらず、梅の枝がかすかに揺れた。砂利の上の音は止み、しばらくのあいだ、鳥と男と住職だけが、時間の奥に置き去りにされたように立ち尽くしていた。


 「この鳥に、導かれてきたようじゃな」


 住職はそう言って、ほうきを立てた。声は小さいが、霧のなかに溶けず、まっすぐに男の耳に届いた。

 男は思わず身じろぎし、少しだけ目を伏せてから問い返した。


 「……お邪魔でしたか」


 住職は首を横に振る。その動作には、否定の意志というよりも、風を鎮めるような柔らかさがあった。


 「人が来るのは、縁じゃ。鳥も人も、選んで来るわけではない。来るべきときに、ただ来るだけじゃ」


 男はしばらく何も言えず、砂利を見つめていた。金の鳥は、もうどこかへ飛んでいってしまったようだった。


 「……何か、悩んでいることがあるようじゃな」


 住職の声は、問いかけというより、見立てのようだった。男は少しだけ目を細めたが、否定はしなかった。


 「……わからないんです。自分が何をしたいのか。何をしても、どこか他人事みたいで」


 住職は黙って耳を傾けていた。


 「朝起きて、夜寝て……それを繰り返しているうちに、自分の輪郭がぼやけていく感じがして。生きてるっていうより、ただ無駄に生かされてる気がするんです」


 その語尾には、怒りも嘆きもなかった。ただ乾いた土のような静けさがあった。


 「何か始めようと思って、それっぽい本も読んだりしたけど、全部空っぽに見えてしまって……。意味なんか、本当はどこにもないんじゃないかって」


 住職はしばし口を閉ざした。手元のほうきを見つめ、それをゆっくりと石の壁に立てかけた。


 「昔な、この寺には『金の鳥』の伝説があってな」


 男が目を上げる。住職はその視線を受け止めながら、語りはじめた。


 *


 ずっと昔のことじゃ。この寺の近くに、大きな山があってな。ある春の日、その山が鳴った。地が揺れ、村の者たちは皆、神の怒りだと言って恐れおののいた。


 村人は寺の老僧に神の怒りを静めてくれと懇願した。それに応え、老僧は可能な限り念仏を唱えたり、儀式を行ったりしたが、依然として山鳴りや地震は収まらなかった。


 すると、寺の老僧の前に、黄金の羽を持つ小鳥が現れた。当然のことながら鳥は老僧の目を強く惹いた。しかし、鳥は老僧に目もくれなかった。それから鳥は声もなく、ただ南の空を指すように飛び去った。ただの一切も声を出さなかった。それが重要だった。普通は鳴く生き物が、少しも鳴かなかったことには意味がある。


 老僧は即座に、経典と仏像を抱えて、寺を南の山の上の古庵に移した。同時に村人たちも村から離れさせた。その夜、山が崩れて、寺のあった場所は跡形もなく流された。


 その後、寺は再建され、「金の鳥は仏の使い」と語り継がれるようになった。


 *


 男は無言のまま、その話を聞いていた。


 「その鳥は、何かを救おうとしたわけでも、意味を告げたわけでもない。ただ、現れ、飛び去っただけじゃ。しかし、あのときその姿を『意味』としたのは、人間の側じゃ」


 そして住職は、男に目を向けて、ゆっくりと言った。


「結局のところ、意味があるかどうかは、結果が出なければわからない。ただ、初めから意味を求めていると、たいていは途中で止まる。意味が見つからないことを、結果の出ない理由にできるからな。何にもならないかもしれないことを、とりあえず黙ってやってみることが、意外と、あとでうまくいってたりする」



 住職の話に、男の心はマッチの火のように揺れた。彼は年長者に礼を言い、立ち去る。


 「意味を求めないこと」か。なかなか無味乾燥な教えだな。

 だが、それが必要なのかもしれない。私は、何者かになる、何かを成し遂げることに意味があり、それが絶対だと思っていた。しかし、そもそも意味など要らないのかもしれない。意味とは、求めて手に入るものではなく、たまたまついてくるものなのかもしれない。

 きっと、私が金の鳥を目撃し、それを追いたいと思ったことも、あの寺に行き着いたことも、単なる偶然であり、意味などないのだろう。

 ただあるのは「事実」だけだ。金の鳥の伝承も、鳥は何かを伝えたわけではない。鳥が現れたという事実があるのみだ。

 しかし、それに対して勝手に意味を見いだしても構わないだろう。


 この偶然を与えてくれた自然に感謝しよう。そうだ、いままで考えてこなかった森林管理に携わるのもいいかもしれない。


 *


 その後、男は実際に森林管理を専門とする企業に就職した。面接の場で人事担当者は首をかしげ、「なぜ国公立の学生がうちに?」と不審そうに尋ねた。男は、金の鳥の話をした。担当者はしばらく黙っていたが、やがて「……そういうこともあるのか」と、小さく頷いた。


 就職して間もなく、男は改めて住職に感謝を伝えようと、あの寺を再び訪れた。

 境内は、初めて来たときと変わらぬ静けさと清潔さに包まれていた。だが、住職の姿はなかった。庫裏にいるのかもしれないと思い、男は奥へ進み、古い木の扉を叩いた。しかし、何の音も返ってこない。

 もう一度叩くと、背後の砂利がわずかに音を立てた。住職だと思い振り向いたが、そこには見覚えのない老婆が立っていた。


「あんた、そこには誰もいないよ」


 ぶっきらぼうな口調だった。


「ああ、留守でしたか。では、また後日来ます」


 気まずさを紛らわすように、男はそう言った。

 老婆は眉をひそめ、少しだけ間を置いて答えた。


「……留守も何も、ここはしばらく前から廃寺だよ」


 老婆の言葉に男は目を丸くした。


「そんなはずは……。以前、ここで住職と会いました。話も交わしました」


 老婆はちらりと空を見上げ、それから視線を戻した。


「ああ、あの痴呆の爺さんのことか」


「痴呆……、認知症ということですか」


「そう、このあたりに住んでいたひとり暮らし爺さんなんじゃが、ある日突然、自分をこの寺の住職だと思い込んで、境内の掃除をし始めた。落ち葉も何もないのに、毎朝熱心にな。その爺さんも三年前くらいに死んだがね」


 男は目を見開いた。そんなはずはない! 初めてここを訪れたときから、まだ一年しか経っていないはずだ。


「とにかく、ここにはもう誰もいないさ」


 老婆はそう言い残し、石の音とともに境内から姿を消した。


 男は動揺しながらも堂の前に立つ。頭のなかが混乱していた。

 どういうわけだろう。自分が見たもの、聞いた声、受け取った言葉、すべては存在しなかったのか。幻だったのか?

 ――そんなはずはない。あのとき確かに、老人はここにいた。あの朝の空気と、住職の声と、鳥の羽音は確かにあった。そして、今もいる。もし彼がいなかったとすれば、この境内は綺麗すぎる。きっと落ち葉やゴミが散乱しているはずだ。


 とはいえ、私はもう彼に会うことはないのだろう。

 男は小さく息を吐き、帰ろうと一歩踏み出したとき、足元に小さな影が舞い降りた。金の鳥――ではなかった。淡い緑と白の、よく見かける鳥。


 メジロだ。

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無為の鳥 津島 結武 @doutoku0428

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