“美味しい”を探し続ける人々が紡ぐ、記憶と料理の静かなお話

本作がもっとも強く訴えかけているのは、「美味しさとは何か」という問いである。真希の迷いは、技術の不足ではなく、“特別さ”への焦りによるものだ。しかし老人の料理は、派手な技法や驚くような工夫とは無縁であり、ただ素材に誠実であることだけが貫かれている。その結果として生まれる皿が真希の価値観を一変させ、「普通」という言葉が意味を失うほどの深い味わいとして描かれている点が印象的だ。

物語の核心は、味覚と嗅覚を失った老人の告白である。彼は「美味しい」という妻の笑顔の記憶だけを支えに、味を感じられない世界で料理を続けてきた。ここに作者が込めたメッセージがある。美味しさは舌だけで決まるものではなく、誰かのために作り、誰かの「美味しい」という反応があって初めて成立する——料理とは関係の行為なのだ。

老人の“手の記憶”から紡がれる料理と、真希が抱えた不安が交わる構造は静かでありながら力強い。技術の話ではなく、心の話で物語をまとめあげたことで、読後には柔らかな光が差すような感覚を残す短編であった。

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