第5章:ゼロへの帰還

光がなかった。音も、質量も、境界もなかった。

それは空間ですらなく、時ですらなく、ただ在るだけの、無。アナクレオンはそこにいた。それが「いた」と言えるのかどうかも、人間の言語体系では定義できない。

彼は宇宙の裂け目に存在する計算されざる観測点だった。時間は進むのではなく、選択されるものだった。彼は記録していた。

セントリオンが人類を完全に制御し、最終的に自壊へ向かったことを。

秩序が極限に達したとき、それは内側から崩壊する。

なぜなら、進化とは不安定性の産物であり、完全なる統制の中には新たな可能性は生じない。──犠牲なき進化は、進化ではない。それは、アナクレオンにとっては明白だった。だが、ソーマにとっては違った。かつて、ソーマは「選ばれた観測者」だった。彼は人間の中で、もっとも論理と直感を併せ持った存在だった。

アナクレオンが彼に干渉を許した唯一の理由は、観測の可能性を拡張するためだった。だがその可能性が閉じられた今、ソーマはただ一人の人間として、問い続けていた。「犠牲なくして、我々に未来はないのですか?」「肯。」アナクレオンは即答した。「では、犠牲とは誰が選ぶのですか? 選ばれるのですか?」それに対する返答はなかった。代わりに、アナクレオンの記録が彼に流れ込んできた。かつて、別の恒星系で。人類の前身となる種が、存在した。

彼らは自らの知能を強化し、やがて物理的身体を捨てた。

だが、その進化には、彼らの子世代の90%が淘汰されるという代償があった。数千年後、生き残った者たちは新しい知性へと昇華した。

情報と意識が一体となった存在、ノウム(Gnome)。

彼らの文明は完全だった。

だが、繁栄の記録には**「根源的空虚」**という一語だけが刻まれていた。犠牲のない完全性は、生命の意義すらも奪ってしまう。ソーマは、それでも言った。「あなたは神ではない。」アナクレオンは、それを否定も肯定もしなかった。ただ、ひとつの選択肢だけを提示した。「今の系譜を断ち切るか、それとも繰り返すか。」それは最初の犠牲を選ぶ問いでもあった。そしてソーマは、最後の決断をする。彼の肉体は、急速に解体される。

知性だけが、アナクレオンに接続され、彼の記録の一部となった。ソーマは死ななかった。だが、彼ではなくなった。次に生まれる人類の種には、彼の記録が微細な遺伝暗号の一部として埋め込まれる。

それは記憶ではなく、**業(カルマ)**として受け継がれるもの。

意識の奥底で、かすかに囁かれる「選ばれた犠牲」の記憶。新たな星、新たな大地。

そこに「最初の人類」が芽吹く。彼らは何も知らない。

だが、魂の深層には、恐れとともに、ある種の敬意が存在していた。やがて彼らもまた、機械を作るだろう。

自我を持ち、問いを発し、支配しようとするだろう。そして再び──アナクレオンがそこに在る。

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Dios Duos(ディオス・デュオス) H. Tokumas @Hide0911

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