後編
五月の札幌の街はどこもかしこも花々の甘い香りが漂っていた。高木に白い花を咲かせるアカシアの木、至る所に揺れている白や青、紫のライラックの房の花、足元には白い鈴のようなスズランの花が咲いている。空は青く、新緑は輝き、風が薫る。なんて美しい街なんだろうとカウンの胸は高鳴った。ここが
ライラックの木を見つけるたびにカウンは立ち止まったが、隣を歩く来夏はカウンの手を引っ張って市内中心部を横断する大通公園を西に進むと、やがて一本の小さな青い花を咲かせるライラックの木を指差した。
「この木だよ、幸運の花が咲くのは。二輪あるといいけれど」
二人はそれぞれ花房を手に取り、五枚の花びらの花を探し始めた。
こうしているとまるで小学生の時のようだ、とカウンは思った。あの小さな海辺の町
だから高校二年の冬に来夏が手紙で〈父のいる北海道の大学に進学しようと思う〉と告げてきた時は予想外過ぎて、怒りまで湧いてきた。なんで、なんで、なんで。怒りのままに電話すると、来夏は泣きながら謝った。
「ずっと言えなくてごめん。カウンと一緒に大学に通いたい気持ちももちろんあった。でもどうしても私、パパと暮らしながら日本の学校に通ってみたくて、本当は中学の頃から日本語を勉強していたの」
「なんで日本まで行かないといけないの? 日本語を勉強したいなら、日本語学科があるソウルの大学に行けばいいじゃない。
「韓国じゃダメなの! 私は日本に行きたいの」
嗚咽しながら言う来夏の声の烈しさに、カウンは息を飲んだ。
「カウンは一番の親友だけど、ずっとこの町で
何も言えず、カウンは電話を切った。
来夏の本心を理解していなかった自分、来夏に本心を言わせずに自分の望みだけを押しつけてきた自分への強烈な罪悪感がいつまでも消えず、来夏がまた手紙を送っても、電話をかけても、カウンは返信しなかった。
それから約二年間、二人のつながりは途絶えた。
昨年の春、カウンは希望通り梨花女子大に合格し、大学寮に住み始めた。転校を繰り返してきたカウンは大学生活にもすぐに慣れて友人もたくさんできたけれど、来夏のように近しく思える存在はいなかった。
五月中旬になると大学の敷地内で見つけた数本のライラックの木に花が咲いたが、何度探しても幸運の花はなかった。来夏がたまらなく恋しくなり、思い切って来夏の実家に電話をかけると母のハナが出て、来夏が北海道大学の文学部に進学して父と一緒に札幌で暮らしていると教えてくれた。いつかカウンから連絡があったら自分の連絡先を伝えて欲しいと来夏が言っていたと聞いて、カウンは泣いた。
久しぶりに聞いた来夏の声は涙まじりだった。二人は互いに謝りあい、また以前のように連絡を取り合って、一年後、カウンは来夏が札幌で一番美しい時季だと言う五月に北海道にやってきたのだった。
ライラックの木を挟んで来夏がカウンに目配せした。カウンが近寄ると、来夏は手のひらに乗せた二輪の青い幸運のライラックを見せた。来夏は無言のまま一輪をカウンへと渡し、二人は同時に花を口に入れた。こんな日が再び巡ってくるなんて。カウンは幸せだった。
「来夏は去年もその前も、ライラックを飲んでいた?」
「うん、またカウンが連絡をくれたらいいなと願いながらね」
「本当にごめん。私がもっと来夏の気持ちを大事にしていればよかった」
鼻声になったカウンの手を、来夏はぎゅっと握った。
「やっぱり効くんだね、幸運のライラックのおまじないは。またカウンに会えて嬉しい。私の親友はカウンだけだから」
「私もそうだよ。ずっと寂しかった。来夏にずっと会いたかった」
カウンが来夏に抱きつくと、来夏もカウンを優しく抱き締めた。
小学生の時は同じくらいの背丈だったのに、いつの間にか来夏のほうが高くなっている。何も疑わず永遠の友情を信じていた子どもの頃とは違う。でも、カウンの願いは変わらなかった――来夏と一生一緒にいること。
来夏の父は物静かでとても優しい人だった。韓国語は単語と簡単な文しか通じなかったけれど、細かい部分は来夏が通訳したりスマートフォンの翻訳アプリを使えば問題なかった。それに彼は仕事が忙しく、朝早く出て夜遅くまで帰らない。だから二人は毎日気ままに出かけたりスーパーで買ってきた食材で料理をしたりして一週間楽しく過ごした。
明日帰国という日、来夏の通う北海道大学に一緒に行った。広大な敷地にはポプラが生い茂り、小川も流れている。牧場まであると聞いてカウンは驚いた。
「札幌の街もこの大学も本当にいいところだね。やっぱりここが来夏の居場所だった?」
来夏ははっとしたような顔をした後、ゆっくりと足元に視線を落とした。
「……よくわからないの。札幌は好きだけれど、私の日本語は外国人っぽくて下手だし、授業で先生の話が聞き取れないことも多いから、成績も良くないし。ここでも結局、日本人から見たらよそ者だよ」
「そんな。お父さんともうまくいってるし、お店でもどこでも来夏の日本語は問題なく通じているし、今も何人も友達とすれ違ったじゃない」
「パパは優しいけれど、きっとずっと私と離れていた罪滅ぼしもあるんだと思う。私に遠慮しているのがわかるし、こうやって韓国語で深く話し合えるほどには私の日本語は上達していないから、パパとも日本人の友人とも上辺の付き合いになっている気がする」
「そっか……就職はどうするつもり?」
カウンは来夏が就職を機に韓国に戻るのではという一縷の希望を込めて聞いた。だが来夏はきっぱりと言った。
「日本で就職しようと思ってる。韓国にも関連がある企業に入って、両国に役立ちたい。せっかく韓日どちらにもルーツがあるんだから、ちゃんと日本でも必要とされるくらいにしっかり勉強して就職活動に臨むよ」
――来夏はまるで意地で日本に溶け込もうとしているようだ、とカウンは感じたけれど何も言えなかった。ただ、応援するしかなかった。
毎晩、眠る時は来夏のベッドの脇にカウン用の布団を敷いた。来夏は寝付きがよく、電気を消すとすぐに寝息が聞こえてくる。その柔らかな音を聞いているうちにカウンも眠りに誘われる。でも、明日には帰国して、また会えるのは年末に来夏が帰省する時だと思うと、最後の夜の寂しさが溢れてカウンはなかなか眠れなかった。
そっと起き上がって来夏の顔を覗き込んだ。カーテンの隙間から漏れる月の光に来夏の寝顔が照らされている。大学に入って化粧をするようになった来夏は大人びて見えたけれど、寝顔は幼い頃のままだった。白くふっくらした頬、長いまつげ、少し開いた唇から綺麗な歯が見えている。胸が呼吸に合わせて規則正しく上下しているのが妙に安心できて、涙が出てきた。どうしてこんなにも愛おしい存在と離れることができたのだろう。どんなに遠くても来夏とは繋がっていられるはずなのに、なぜ全てを放り出すことができたのだろう。布団の上に無造作に置かれた来夏の右手を両手で包み、そっと口づけた。
――大好き。
この気持ちが恋心だと自覚するのは怖かった。そう自覚したらもう戻れなくなると知っていた。それでも想いが苦しいほどに溢れる。私は来夏に恋している。離れたくない。韓国に一緒に連れ帰りたい。
でも、そんなことを言ったらまた優しい来夏は本心や決意を隠してしまうだろう。そうなったらもう二度と自分のことを許せなくなる。いつまでも一番の親友で味方だと思ってもらいたい。そのために来夏が還りたくなるような居場所になろう、そうカウンは誓った。
二年後の春、二人は無事に大学を卒業した。カウンは夢を叶えて小学校教諭として南部の山間の町に赴任し、来夏はグローバル展開する日本の衣料企業に就職して東京の店舗に配属された。
「最初から東京に配属されるなんて、期待されているってことだよね」
「そうかな? とにかくがんばるよ。いつか韓国に出張したりして」
「その時は必ず連絡してよ。ソウルでも釜山でも会いに行くから」
電話で報告した時、父母と同じくらいにカウンも喜んでくれたので来夏はほっとした。カウンが自分の帰国を待ち望んでいることは気づいていたから。でもカウンは何も言わなかったし、来夏も気づかないふりをした。
東京は来夏が三歳の頃、最後に家族揃って暮らした場所だった。母は来夏が北海道大学に進学しても一度も札幌に来なかったけれど、東京でなら家族で再会できるかも知れないと思った。ハナに電話でそれとなく話してみると、それもいいかもねと言って笑った。また父母がやり直せるかも知れない、そう思うと、せわしなくごみごみした東京で一日中上司や先輩に叱られながら立ち仕事をして、むくんだ足を引きずりながら狭いアパートに戻って寝るだけの日々でも、来夏は前向きに頑張ることができた。
しかし来夏が東京の店舗で働いたのは試用期間の半年間だけだった。本配属はソウルの店舗との通知があり、来夏はひどくショックを受けた。
父母になんと言えばいいかわからず、来夏はまずカウンに電話した。
「やっぱり私は日本では通用しないんだ。だから韓国に戻されるんだ」
話しながら来夏は泣いた。
「そんなことないよ。韓国の店舗で来夏みたいに日本語も堪能で日本をよく知っている人材が必要なんじゃないかな。きっと活躍できるよ」
カウンは一生懸命励ましたが、密かに願っていた家族の再会も実現させられなかった来夏の涙は、なかなか止まらなかった。
来夏が韓国に帰国した日、カウンは仁川空港まで買ったばかりの車で迎えに来た。カウンの笑顔を見ると、来夏の心もようやく明るくなった。
会社からはソウルでの勤務開始前に引っ越しのために数日間の特別休暇を与えられていた。日本からの荷物がまだ届かなかったので、実家に一度帰ることにするとカウンに話したら、ちょうど週末でソウル近郊にある実家に帰っているから、空港まで迎えに行って聖浦まで送ると言ってくれた。
夕方到着の便だったので休憩所に立ち寄りながら夜の高速をひたすら南下し、夜更けに来夏の実家にたどり着くと、ハナが用意してくれていた布団で二人はすぐに眠った。
翌朝、ハナと一緒に朝食をとってからカウンと来夏は家を出て、海辺へと向かった。砂浜のあちこちにゴツゴツした岩場の磯があり、小学生の頃に小さな蟹やテナガダコを夢中で捕った思い出を笑いながら話した。強い風に乱れる髪を押さえながら、二人は引き潮の浜を手を繋いで歩いた。
「三年しかいなかったのに、私、今でもこの町が自分の故郷だと感じる」
カウンが海を見つめたままそう言うと、隣の来夏は首を振った。
「私は……ここに来るたびに寂しくなる。まだ日本にいる時はもう何を言われても平気、私は日本でやるべきことがあるって思えて堂々と歩けた。でも、たまに帰ると町から人がどんどん減って寂れていくのがよくわかった。去年おばあちゃんも死んじゃったし、いつかママも死んじゃったら私はもうここには来ないと思う」
「じゃあ、来夏は将来はどうするの? ソウルで暮らすの? 札幌?」
「そんな先のことはまだわからないよ。まずはソウルで頑張る。一応生まれ故郷だし。カウンはどうするの? 先生だから転勤続きだし、結婚するタイミングも難しいよね」
カウンは「私は別に結婚は……」と小さく呟いたが、波の音でよく聞こえなかった。でもカウンが話したい話題ではないことは来夏にも伝わった。
「冷えたね、帰ろうか」
と言いながら来夏が先を歩く後ろで、カウンはそっと涙を拭った。
数ヶ月後、来夏は親しくしていた男性の先輩と付き合うことになった。彼はハンサムというわけではなかったけれど背が高く、ソウルの店舗に着任した時から優しく接してくれた。来夏が困っているといつも声を掛けてくれたし、仕事で失敗した日は帰りに食事に誘い、励ましてくれた。
配属から二ヶ月ほど経ったクリスマスに、映画を見に行った帰りに告白された。彼が自分を好きなのは気づいていたし、穏やかな彼は父と重なった。彼が向けてくる視線ほどの熱さは来夏にはなかったけれど、日本に否定されたと思っていた痛みが彼といると和らいだ。この人なら大丈夫だと思えたから、付き合って欲しいと言われ、頷いた。
カウンにはなんとなく電話では言いづらくてメッセージで報告した。
〈よかったね。でも来夏を泣かせたら許さないって彼に言っといて〉
と冗談めいた返信が届いて、来夏はほっとした。
彼とは特にケンカもなく交際が続き、翌年五月の家族週間には自分も帰省するついでだからと来夏を車で聖浦まで送ってくれた。彼はハナに丁寧に挨拶し、また車に乗ってさらに南部にある故郷へと向かった。
「きちんとしているし、優しそうな人だね。彼と結婚するの?」
ハナに嬉しそうに聞かれて来夏は照れながら頷いた。
「多分。実家に帰ったらお母さんたちに報告するって言ってた」
「いい人と出会えてよかったね。ああ、あんなに小さかった来夏もウエディングドレスを着るのね……パパもきっと結婚式には来てくれるよ」
「気が早いよ。まだ何も決まっていないのに」
母のこんなに幸せそうな顔は初めて見た。だからやっぱり彼で正解なのだとカウンは思った。
一ヶ月後。カウンは仕事後、車をソウルへと走らせていた。来夏が彼に別れを告げられたと泣いて電話してきたからだ。
「父親が日本人で、別居していて、その上母親が一人で食堂をやっている家の一人娘なんて、絶対結婚したらダメだって両親に反対されたんだって。休みのたびに手伝わされて金を無心されるだろうって」
カウンは心の底から怒り、来夏を心配していた。来夏が拒絶されるのは何度目のことだろう。育った町に、周囲の人々に、祖母に、父に、父の国に、そして恋人に。言葉を尽くしても励ましきれない気がして、カウンはさらにスピードを上げて夜更けの高速道路を走った。
夜半過ぎにソウルの町外れにある来夏のアパートのチャイムを鳴らすと、来夏は泣き腫らした顔でドアを開け、カウンに抱きついた。
「ごめんね。辛い時ばかりカウンに頼って」
「何言ってるの……親友でしょ、当たり前だよ」
そのままカウンは一晩中来夏を抱き締めた。あなたほど美しく賢く勇気がある人はいない、あなたのことが世界で一番大好きだと何度も囁きながら。泣き疲れて眠った来夏の赤く腫れたまぶたを見て、カウンは声を押し殺して泣いた。
もし、私が男だったら来夏を幸せにできるのだろうか。来夏の居場所になれるのだろうか。こんなに好きなのに、こんなに愛しているのに、互いの体温が直に伝わり合うほど近くにいても来夏の相手にはなれない。
もうこの恋を手放せたらどんなに楽かと思う。来夏を好きなことを何年も隠しながら、親友として来夏が男性と仲良くなり、傷つくのを見ているしかないのはあまりにも虚しかった。ただの友達として心から励ましたり慰められたならどんなに良かっただろう。
何千回も胸に湧き出てくるその願いを、それでもとカウンは押しとどめる。それでも、来夏は幸運のライラックに願った相手なのだ。どんなに辛くてもこの想いを続ける覚悟は、初めてライラックの花を飲んだ日から変わらない。幸運のライラックはただのおまじないではなく、自分自身と来夏への誓いだった。どんな来夏も受け止めて、生涯をかけて来夏の居場所になる。たとえ、来夏にとって自分が唯一ではないとしても。
そんな日々が何年も続き、二人は三十五歳になった。
先輩と別れた後、来夏は転職してビルメンテナンスを行う小さな会社で営業事務をしている。言い寄る男性や紹介された人もいたが、来夏はもう深い付き合いは持たないようにしていた。いつまでも恋人を作ろうとしない娘を心配した母のハナが、帰省した時にお見合いの話をいくつも出してからは実家にも帰らなくなった。
カウンも勤務先の学校が変わるたびに周囲が独身の男性教師先生とくっつけようとしてきたが、親が決めた許嫁がいるのでと言って断った。そして夏が来るたびに幸運のライラックを探し出して飲んでいた。
二人は毎日のように電話して他愛ない話をして笑い合い、年に一、二度はお互いの家に行ったり、韓国や日本の観光地を旅行して一緒に過ごした。
「そういえば、来夏はまだお母さんと仲直りしていないの?」
「別にケンカはしてないし、電話はしているけれど会ってない。ママは自分のせいで私が結婚できなかったと思ってるから、まだ諦めずにお見合いリストを作っているみたい。帰ろうものならすぐ誰かと会わせられるわ」
「じゃあ、来夏はもう結婚はしないつもりなの?」
声に感情が出ないように意識しながらカウンは聞いた。
「若い頃は、きっとどこかに私の全てを受け入れてくれる人がいて、その人と結婚したら父母が結婚して私が生まれた意味を取り返せるのかなと思ってた。でも日本でも韓国でも私は半分外国人で、父親に捨てられた貧乏食堂の娘なの。言い寄ってくる人にそれでもいいんですかって聞くと、みんな去って行ったよ。家族に反対されるって予想できるんだろうね」
「来夏はお父さんにもお母さんにもすごく愛されてるよ。それがわからない男なんて価値はないよ」
「男だけでもないよ。女の人も私の家庭環境を知ると、哀れむような目で見る。韓国と日本でどっちつかずで大変だねって。――カウンだけだよ、子どもの頃から変わらずに私をありのまま受け入れてくれているのは」
そう言うと、来夏は言葉を選ぶように静かにため息をついた。
「私はカウンと過ごす時間が一番好き。カウンといる時だけ、私はどう見られているかなんて気にしないで自分らしくいられる。でもカウンは私と違う。立派な両親に大切に育てられた美人だから誰にでも愛されるのに、私なんかといるから恋愛や結婚ができないんじゃないの? カウンの人生を邪魔しているんじゃないかって、私ずっと心配で」
「邪魔なんかしてない。私は来夏といる時が一番楽しくて幸せなの。私が来夏と一緒にいたいの」
「ありがたいけれど、カウンのお父さんやお母さんに申し訳ない気持ち」
「――決めた。来夏、夏休みは聖浦に帰ろう」
「ええ? 嫌だよ、ママも面倒だし、寂れて何もないし……」
「いいから。今回は私の言うことを聞いて」
珍しくきっぱりと言うカウンの声に、来夏も渋々承諾するしかなかった。
夏。カウンから聖浦駅前で待ち合わせようと言われていた来夏は、びっくりしながら電車から降りた。見たことがないくらい大勢の人々が来夏と一緒に小さく古いホームに降りたのだ。やけに電車が混んでいるけれど、乗客はみんなもっと先の避暑地へ行くのだと思っていたら、まさかこの何もない町が目的地だなんて。一体なぜ?
ホームだけではなく、フェンスの外の駅前広場にも観光客がいるのが見えた。こんな光景は初めてだった。呆気にとられながら駅舎に入ると、壁は真っ白に塗り替えられ、その上に水色と薄紫色の花の模様がいくつも描かれていた。それはライラックの花だった。ところどころに五枚の花びらの花も描かれ、〈愛が叶う幸運のライラックの町 聖浦〉と書かれた前で観光客が入れ替わり立ち替わり写真を撮っていた。
「来夏! お帰り!」
懐かしい声に振り向くと、観光客の間から母が現れ、来夏を抱き締めた。
「ママ? なんで私が来るのを知っているの?」
「カウンから来夏を迎えに行くように頼まれていたんだよ」
ハナはこれを見てと言いながら、ニュース動画が再生途中になっているスマートフォンを渡した。来夏がスタートボタンを押すと、寂れる一方だった海辺の町、聖浦が一人の女性教師と教え子の学生達によって幸運のライラックの町として生まれ変わり、人気スポットになっているというニュースが流れた。画面が切り替わり、カウンが学生達と一緒にライラックの木を植えたり、家々の壁にライラックの絵を描いたりする様子が映る。
カウンがこんなことをしていたなんて! 来夏が驚いていると、カウンがインタビューに答えるシーンになった。
『私は小学生の頃、三年間だけこの町に住んでいました。その時に出会った親友から、五枚の花びらの幸運のライラックの花を飲むと愛する人と一生一緒にいられるというおまじないを教えてもらい、毎年二人で飲みました。忘れられない思い出です。でも、聖浦の人口はどんどん減っていき、いつか町が消えてしまうのではないかと恐れた私は、ライラックの木を町中に植えて花の絵を描けば、愛を叶えたい人たちが町にやって来るかも知れないと思いつきました。計画書を作って町長に申し出ると、町民にも呼びかけて協力して下さることになり、卒業した教え子達も一緒になって何年もかけてこの町を幸運のライラックの町へと変えていきました。学生達がSNSに投稿したら話題になり、次第に人々が訪れるようになって、町は賑わいを取り戻しました』
「カウンはね、聖浦を来夏が還りたくなるような居場所にするんだって言って、十年くらい前から毎月のようにここに来て作業してたんだよ。ママも手伝っていたけれど、見せられる時が来るまで来夏には絶対内緒だって言われていたの。全部来夏のためなんだよ。来夏をこんなに大切に想ってくれる人は他にいないよ」
ハナの言葉を聞いて来夏の瞳に涙が溢れた。私は何も知らなかった……。
「カウンはどこ? カウンに会いたい」
「小学校で作業しているよ。早く行ってあげて」
来夏は白く照りつける太陽の光の中、小学校に向かって走った。通りに植えられているライラックの木は葉だけが生い茂っていたけれど、家々の塀にも、店の外壁にもライラックの花が描かれていた。満開だった。
小学校に着くと、カウンが一人で校門に紫のペンキで幸運のライラックを描いていた。顔を見ると泣いて何も言えなくなりそうで、来夏は後ろからカウンを抱き締めると、背中に頬を寄せたまま囁いた。
「こんなに素敵な町にしてくれてありがとう」
「気に入ってくれた? いつか、来夏にここがあなたの居場所だよって言いたくて、ライラックを植えて花の絵を描いてきたよ」
「ママが、私のことをこんなに大切に想ってくれるのはカウンだけだって言ってた。私もそう思う。カウンだけが私の全てを受け入れてくれた」
言葉にすると自分の胸に長年あった気持ちの輪郭がようやく見えた。
「もうずっと最初から、カウンが私の居場所だった。だから他に誰も好きにならなかったんだ。カウンのことが好きだったから」
「本当にそう思ってくれているの? 私のことが好きなの?」
カウンが振り向く。まつげが涙に濡れて光っていた。
「本当。私、ソウルでも毎年ちゃんと幸運のライラックを見つけて、カウンと一生一緒にいたいと願いながら飲んでいたんだよ」
「来夏……来夏が好き。子どもの頃からずっと好きだった」
涙をこぼしたカウンを、来夏は私もだよと言いながら抱き締めた。
ライラックの花だけが、私たちの願いを知っていた。
もう私たちは一人で幸運のライラックを探すことはない。
夏が来るたびにライラックが咲き乱れるこの美しく懐かしい町へ二人で帰り、一生一緒にいると何度でも誓っていくのだから。
花だけが旅をする おおきたつぐみ @okitatsugumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます