『八月三十一日』
浅野じゅんぺい
日曜日の夜
明日から、また一週間が始まる。
日曜の夜、カーテンの隙間から漏れた街灯の青い色が、部屋の壁に淡くにじんでいる。ソファに深く沈み込みながら、僕は手の中のマグカップをころがしていた。もうぬるくなってしまったコーヒーは、口をつけるたび、苦味だけを舌に残す。
時計の針は、22時15分を指している。
明日の朝、満員電車のなかで、スマートフォンをぼんやり眺めている自分が想像できた。着信履歴に並ぶ取引先の名前、開かれていないままのメールの束。埋まっていく予定表の余白。ひとつひとつが、じわじわと胸の奥を重くしていく。
そして、思う。
ああ、また月曜日だ。
この気持ちは、知っている。ずっと昔にも、似たような気持ちになったことがある。
それは、たとえば──子どもの頃。
夏休みの終わり、八月三十一日の夜。
外では虫の声がして、風鈴がチリリと鳴っている。母がつけたまま忘れたテレビの音が、遠くで途切れ途切れに聞こえる。部屋の中の空気は不思議に静かで、いつもより時計の音が大きく感じられた。心のどこかが、ぎゅっと締めつけられるような、でも誰にも言えなかった、あの感じ。
「もう終わっちゃうんだな」って。
海で焼いた肌の色も褪せて、打ち上げた花火のにおいも、今はもう思い出せない。友だちと笑い転げた記憶さえ、靄のかかった夢のようだった。
気がつくと、机に向かっていた。
自由研究の工作は、慌てて説明書きを書き足して、日記は一週間分まとめて書いた。どこかで見たような天気をつけ足して、絵日記の絵も雑に色を塗った。空白を埋めるたびに、自分を責めるようなため息がこぼれた。
でも、結局、全部終わらせた。
締切には間に合った。あの夏休みも、ちゃんと終わった。
──思えば、それは奇跡のようなことだったのかもしれない。
今の僕にも、宿題はある。大人になったって、終わらせられないことは山ほどある。
転職のこと。
あの人にちゃんと伝えられなかった「ごめん」。
ずっと言えずにいた「ありがとう」。
読書感想文のように枚数も決まっていないし、提出する先生もいない。だから、いつまでも放っておけてしまう。そのくせ、心の中ではずっと、その「やり残し」が疼いている。
見ないふりをしているだけで、本当は知っている。ずっとそこにあるのだということを。
部屋の隅、青いランドセルが目に入る。小学生の頃に使っていたそれは、去年の引っ越しのときに、実家から持ち帰った。捨てられなかったのだ。革の手触りは、少し乾いているけれど、確かにそこにあった記憶を思い出させてくれる。
開けてみたことはない。でも、きっとあの中には、いくつもの「終わった夏」がつまっている。
ふと、「明日も会社に行く」とつぶやいてみた。
誰に向けたわけでもなく、自分にだけ届くように。音にすることで、現実が少しだけ輪郭を持った。
明日が来るのは当たり前で、でも時々、それが少しだけしんどい。
だけど──
夏休みの最後の夜、あれほど焦っていたのに、僕はちゃんと朝を迎えた。ランドセルを背負って、新学期の教室に座っていた。
あの時の僕がやれたのなら、今の僕にも、きっとできる。ほんの少しの勇気があれば。
だから、また月曜日がやってくる。
それは、世界がリセットされる瞬間みたいに思える。何も変わらないようでいて、でも、心のどこかがそっと背中を押される。八月三十一日の夜のように。
そっとコーヒーを飲み干して、カップを流しに置く。部屋の明かりをひとつだけ残して、ベッドに向かう。
カーテンの隙間から漏れる青い色が、まだ壁に滲んでいた。
──八月三十一日は、とうに過ぎた。
でも僕の心のなかでは、あの夜がまだ、静かに呼吸をしている。
そして、明日が来る。
それだけのことが、今夜はほんの少し、愛おしい。
『八月三十一日』 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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