遣らずの雨の力尽くまで
昼下道途
遣らずの雨の力尽くまで
夕立だった。夏の蒸した空気を太い雨が打つ。低山と畑の青い匂いがにわかに濃くなった。蝉の声は雨と入れ違いに消えて、二の腕に痒みを覚えた。蚊に刺されたのだと思う。夏は余り好きになれない。色々と鬱陶しかった。
『あんた、ソラちゃんにはいっぱいお世話になったんだから!』
母の根気強い説得に折れて、有給休暇を取得して、久しぶりに帰郷した。着替え、シェーバー、ノートパソコン。諸々を詰め込みながら、出張の準備みたいだと思った。最寄り駅までの道中、タクシーの運転手に質問された。
「里帰りですか」
「ええ。線香をあげに」
「孝行ですねえ」
他人の家に線香をあげにいくのはたぶん孝行ではない。ただ、そんなことを運転手と話しても仕方がない。車内の空気は少し悪くなったのを覚えている。帰るのは面倒だと思っていたから、薄情者であるには違いなかった。
『あの子はレアチーズケーキが大好きだったから』
新幹線に乗り換える前、母の指示通りにケーキを買おうとした。店員に旅程とあわせて訊くとおそらく痛むだろうということだった。結局、ケーキは母が買い、私が供えることになった。
『気持ちなのよ』
母の言葉と、職場の虚礼廃止通知が並んで思い出された。
新幹線から吐き出されて人の波に揉まれ、特急に並び、また揺られる。帰ってから旅費の精算処理をしなくてもよいのは楽だと思った。
実家の最寄り駅には父が迎えに来ていた。
「仕事はどうだ」
「ちゃんとやっていけているか」
「困ったことはないか」
実際的な母の指示と違って、父の言葉は抽象的だった。私の帰郷の次第に父は詳しくないのだから仕方のないことだった。それは、子供の頃の、日が落ちる前の時間のことで、今の私や父にとっては労働している時間のことなのだから。
全ては矢継ぎ早に進んだ。数年ぶりの実家はいくつかの機器が最新のものに置き換えられていた。母は私に小皿でいくつか食べさせた。向こうで食べるだろうけど、栄養のあるものも食べなさいということだった。それから、白いケーキの箱を受け取った。
「あんた、気持ちが大切なのよ」
今回のことに関与しない父が居心地悪そうにしていたのが、印象的だった。ケーキを持って、玄関に立って、古い姿見の前に立つ私はあまり情に篤そうには見えなかった。
「娘がたいへんお世話になりました」
実家から歩いて3分、ソラの家では十数年ぶりになるおばさんとの挨拶をした。おじさんとも二言三言話したけれど、父がそうであったことと同様に、おじさんも今回のことにはあまり関係のない人だった。
「懐かしいですねえ。昔は2階でよく遊んでいました。5時まで! よく覚えています。5時なんて、ねえ。今もサイレンが鳴るんですよ」
「ケーキ! ソラも貴方も甘酸っぱいものが好きだったから、困りましたよ。酸っぱいものだらけになって。ソラなんてもう、甘すぎる! ってすぐ言うんだから。真っ赤なベリーソース、黒いブルーベリー。本当にソラが好きそう!」
「上がって上がって、挨拶してあげてちょうだい」
おばさんの話は長かった。一時間弱は続いた。もしかすると、私が盆の間ここにいると勘違いしているのかもしれなかった。実際には、翌日にはデスクに向かって仕事をしている身なので、少し焦った。
ソラに線香をあげるというのはしっくりこなかった。死人はもう終わったものだから放っておけばいい、というような人間性の持ち主がソラであったことを私はよく了解していた。
ただ、それは過去形で語られることだ。ソラは結婚し、離縁し、昨年命を絶った。葬式に出なかったしソラが死んだ事実も知らなかった私がこうして盆に姿を現したのは、2つの文書のせいだ。
ひとつは中学時代の彼女が担任に預けていたもの。十年以上先に同窓会で開封される予定だったとか。私の知るソラであれば、そんなものに出席しようとは考えないだろうから、どうせまともなことは書いていないだろうと思っていたし、実際その通りだった。
私にとっては彼女らしい言葉がそこにはあって、その中で少しだけ私の名前が挙がっていた。
文書のうちもうひとつはソラが命を絶つ前に遺していたというテキストデータの印刷物。挫折と卑屈さに満ちていて読むに堪えなかった。私の名前がそこに多くあがっていた。謝罪とともに。
許す、許さないというよりもむしろ、ソラへの興味が薄れていくような、美化された思い出が急速に風化していくような、残念な気持ちばかりが残った。
「ソラも喜んでいると思います」
おばさんの話を聞きながら、ソラを知らない人のように思った。写真の中で満面の笑みを見せている成人女性は、少なくともあまり魅力的ではなかった。
それなりに社交的な挨拶をいくつか交わして、ソラの家を辞した。次に実家に戻り、もう発つことを告げた。父母にはあれこれ心配された。そういえばこの人たちに土産物を買って帰るべきだったと遅れて思い至った。
父は余裕ができたら来年などに祖父母の墓参りもどうかと口にした。私は多忙を理由に曖昧に微笑んだ。仕事ならば仕方ないと父は大きく肯いた。母は私に何か食べさせようとしていたが、電車酔いを理由に実家を出た。
「正月には会えるといいな」
父の言葉に、たぶんそうならないだろうと思いながら、都合がつけばと答えた。
……雨が降っている。家族には徒歩で駅に行くと言ったが、ソラの家の傍、潰れた酒屋の前で雨宿りしていた。この酒屋は私たちにとっては駄菓子屋で、昔はそばに誰も使わない公衆電話があったことも覚えている。山の匂い。畑の草の匂い。それらは確かに懐かしかったものの、ソラの晩年の記録による落胆を思うと、帰郷しなければよかったという思いに駆られる。あるいは、それを確認するためにこそ電車を乗り継いで帰ってきたのかもしれないが、
「あんまりだとは思いませんか。私に挨拶もなしというのは。ねえ」
隣で嫌味たらしく零される粘ついた言葉を受けて、いよいよ帰るべきではなかったという思いと、たぶんこれもまた私が帰ろうとした動機なのだろうと思った。
「ただいま、雫。もう俺はここを発ってしまうのだけれど」
ソラが好きなのかもしれないと雫に告白したのと、雫が好きだとソラに告白されたのが一日違いだったのをよく覚えている。いずれもこの酒屋でのことだった。長い雨が降り続く、梅雨の時期のことだった。
「ソラの遺したものを読んだよ」
昔から雫の前では素直になれる気がしていた。そうでなければソラが好きかもしれないということを、私は口にしなかっただろう。私にとってそれは神聖な信仰心に似た気持ちで、容易に開陳できるものではなかった。
――貴方にソラは見合いません。
嘲るようなその言葉をよく覚えている。嬉しかった。ソラの価値をわかる人にだけ、ソラについての気持ちを語りたかったからだ。
――わたしは雫が好きなんだ。
秘密を明かすソラの言葉が綺麗だった。僅かに朱のさした頬に幸福を感じた。ソラが好きなのかもしれないという気持ちが強まって、雫を好きだと言うソラをますます好ましく思った。
「ソラの遺書はマヒロにとって残念でしたね」
「あれは、雫が見つけたの?」
「私がそんなことをすると、本気でお思いですか?」
「……そう思いたくなくとも、事実そうなってしまうこともあるというのを。俺は今日学んだ気がする」
「遅すぎません? 幼稚園児が気づくことですよ」
雫の肌は白く、血管が青く透けるのではないかと思うほどで、黒く艶やかな髪も綺麗というより背筋を凍らせる夜の色があって、ゆるやかに皮肉を口にする彼女はこの世のものではないように、今も見えた。事実として雫は生きているのであり、死んだのはソラだ。
「ソラが私を好いている、ということには。ソラが死ぬ半月前くらいに気づきました。長い半月でしたね。見るに堪えませんでした。あれをソラと、姉と呼ぶのは私には。ちょっと」
私とソラと雫は仲が良かったと思う。行動的な私と、配慮の行き届いたソラと、皮肉屋の雫。幼い頃の綺麗な記憶だった。ノスタルジアの欠片にでも触れられるかと思っていたのだろうか。あの頃と同じ酒屋に立って、私はソラだけを置いてきてしまったような気になる。私と雫がなんてことないように今を生きているなか、ソラだけが何か恐ろしいものにのまれて、そのままいなくなって、それで何も変わらない。
「マヒロは新幹線だからいいですよね。私、航空機は苦手です」
「あなたが虫歯にやられて呻いていたのを、よく覚えている」
「屈辱的です。その恐怖を今も引き摺っているんですよ」
3日間を使っての旅行だった。どこに行ったのかさえぼんやりとしか覚えていないのに、離陸したときの雫の苦悶は鋭く思い出せるし、あまり思い出したくない。
――痛い。痛い痛い痛い。
雫についてはこんな思い出ばかり残っている気がする。シーソーで口を打って血だらけになっている姿とか、階段を転げ落ち、脱臼して蒼白な顔で蹲っている姿とか、ろくでもないことばかり。幼い頃は飄々として憎まれ口を叩く彼女が怪我をしないかよく恐れていた気がする。私は気が回らないから、たいていのことはソラが上手くこなしていたけれど。
「あなたは、ソラに線香を……」
「マヒロはあげたのでしょうね」
当たり前のことを言わせるなという態度。常と同じ、罪の告白があるなら聞いてやると。偉そうなのは昔から変わっていないらしい。その小さな体で、よくもまあ傲慢さをへし折られぬまま社会人になったものだ。あるいは、痛い目を何度見ても昔から懲りない人だったようにも思う。それが変わらないことを嬉しく思うのは、あまりにソラにひどいだろうか。
「ざらりとした線香を手にとって、違うなと思った。ろうそくから火を受けて、違和感があった。柔らかな灰の上に線香を立てるとき、何をしているんだろうと思って、知らない人の笑顔の写真を見ながら手を合わせた。そんな気分だった。俺は、おばさんのためにやっていたように思う。たぶんきちんとできた。おばさんは、嬉しそうだった」
雫は私の前だったのか、後だったのか。それは訊かなかった。
「生者のためと言うこともあるけど、あまりに実がないのは。俺は、不徳なことをしたんじゃないかと思うんだよ。あなたは、たぶんちゃんとやれたんじゃないか。雫ならばと、俺は思うんだ」
「マヒロの薄情は今に始まったことではないでしょう。結局のところ、ソラが好きだという気持ちさえ固められなかったじゃないですか。どうなんです、今は」
「仕事をしていたら一日が終わる。仕事をしていたら一週間が終わって、一ヶ月が、一年が終わる。まあ、意外となんとかなってると思うよ。もう少しなんとかならないと思っていたけど、俺は結構やれるらしい」
「友達だらけのマヒロとは思えない言葉です」
「そんなのは小学生の頃だけだったと思うけど。いずれにせよ、一番上手くやれるのはソラで、駄目駄目なのはあなたになると思っていた。いつかあなたの鼻っ柱は折れるだろうと」
「ふざけないでください。もう一生分骨折はしました。最近もしたんですよ。車に轢かれたんです。理不尽ですよこれは」
雷が鳴り始めた。遠く稲光が見える。ザアザアという太い音が、サーッという連続的な細い音に変わる。いずれにせよ集中的で強い雨だった。
「あなたが図太くてよかった」
自分で思っていた以上に、弱々しい声だった。堪えていたのだと、ようやく知った。精神的なダメージについてのある種の鈍感さは、私にとっては社会人をやる上でどうしても必要だった。ベッドの中で眠る前に溶かすものを、こうして紐解いてしまうのは、雫の前だからなのだろう。実家も、ソラの家も、私にとってはもう、きっと私の居場所ではない。私は、私の生活する空間にひどく根付いてしまっている。そしてここからはもう離れてしまっている。だからこうして最後に雫に会えてよかった。疲労する精神のままに、一人ではここに居ても何も感じられなかっただろう。そして、もったいないことをしたと思いながら電車に揺られることになっただろう。
雫は握り拳をこちらに向けた。私はそれに拳をぶつけた。俺たちの友愛は永遠に失われないと、ここで三人で誓った。私とソラはそれぞれに裏切って、約束はもう跡形もない。雫ばかりが、正直者だった。
「マヒロ」
「うん」
「あなたには……ソラが過ごしてきた日々を、友人として知ってもよいと思います。妹としても話して構いませんし、彼女にとっても慰めになるかもしれません」
「いや、いいよ。俺は知りたくない」
雫は笑った。笑って、それがいいですと言った。
ソラならば、私の知るソラならば。盆での思い出話が慰めになるなどということは口にしない。
「今の皆がそれぞれに幸福でありますように。ソラの、もう一つの方。先生に預けた手紙。俺はあの、あんまり周囲に興味がなさそうで、それでいてなんとなく善意はあって、くらげみたいだと思っていたら、存外にみんなのことを気にかけてくれている、あのソラを知っていればじゅうぶんだ。たぶんあのソラなら、その先のことなんて知られたくないだろう。俺は、そっちのソラを大切にしたい」
「マヒロがそれほど気にかけてみる価値がソラにあるとは思えませんが」
あの長雨の日とは逆の言葉。雫の横顔には強い落胆の色があって、それは私も同じことだ。
「それでも、あのソラが成し遂げたことは未だに力を有していると俺は思うんだよ」
忌々しそうに、雫が私を見上げた。本当に、整った顔をしていると思う。この世界の汚いもの全てを許容できないというような顔をして、こいつも社会人をやっているんだろう。可哀想に、帰りは飛行機に乗るのだそうだ。
「俺が持ってきたレアチーズケーキ」
「ああ、いただきましたよ。あなた――」
「あれは俺の母が用意したものだった」
褒めることで皮肉ろうとした雫の頬が、シニカルな笑顔のままで固まった。ひどい暴力を受けたあとのような。私は雫のそんな顔を見るたびに、ざまあみろという気持ちと、雫にそんな思いをさせたくないという気持ちが等分に湧く。しかし、ソラの名誉のために私は言わなければならなかった。
「ソラの好物だからと母は言った。だから俺に買ってこいと。結局、俺は買えなかったんだ。保冷剤を入れても悪くなるからと言われた。だから母は自分で買って、俺に渡した」
「ベリーソースの鮮やかな赤と、落ち着いた黒紫のブルーベリーを見て、鋭い酸味をソラは好むとおばさんは笑った。おばさんが言っていたけど……」
雨が降り続いている。
「強い酸味が好きなのはソラと俺じゃない。俺だけだ」
雨が降り続いている。
「レアチーズケーキは、あなたの好物だ」
優しく、しかし得意げに微笑む私が好きだったかもしれない人。
「ソラは今も、ただものではないらしい」
こんなことをされたのは、私たちにとって初めてのことなのだから。幸せであるようにと、彼女がきっと無頓着に蒔いたものが、私にはこんなにも嬉しかった。
雫は、長く息を吐いた。そうしている間、彼女は俯いていた。雨はサアア、と細く強く降り続いている。雫の髪の先端から、水滴がひとつ零れた。彼女が傘を持っていないことに今更私は気がついた。雫はひどく雨に濡れていた。
「あの日、あなたは私に。ソラが好きかもしれないと言いましたね」
「あの日、ソラはあなたに。私を好きだと言ったのだと、そう書き残されていましたよ 」
雫は、
「あの日、私はソラに――」
雫のどろりと濁った瞳が私を見ている。いつか、雫とソラはここで隣り合っていた。おそらくはあの梅雨の中に。
「マヒロ。あなたが嫌いだと言ったんです」
私は握り拳を差し出した。唯一約束を守った彼女へ向けて。
「さすがに嘘だ。あなたはそればかりは下手すぎる、あまりにも」
こつりと。力なくぶつかる音。雫の拳がほどけて、私のそれにのびて、触れることなく。雫は手を下ろした。
「ひどいことですよ」
空は雨を降らし続けている。
「ひどいことですよ、これは」
雫は結局それを一度たりとも見上げなかった。
「私は――約束を守りました」
俯いて、雨の中へと濡れたまま、歩き出す。
「ソラ、あなたはまだ生きているんですね」
「死んでいてくれればよかったのに」
雫は、一度だけ振り返った。暗い瞳が炯々として、私を見ていた。
「さようなら」
私は言った。もう二度と会うことはないだろう。
「また今度」
雫は強い確信を持ってそう告げて、故郷の町並みのはずれへ溶けて消えていった。
雨が降り続いている。次の電車を逃せば、あと一時間は動けない。雨が降り続いている。シェーバーを持ってくる必要はなかったことを思い出す。雨が降り続いている。明日はまず、たまったメールから片付けねばならない。とじた酒屋の庇の下で、もう間に合わないなと思った。構わない。次がある。終電までに帰ればいい。どれだけ雨が続こうと、私は結局帰るのだから。
雨が降り続いている。
遣らずの雨の力尽くまで 昼下道途 @yokitimeira
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます