Like Butter

接木なじむ

秋の死臭

 胡乱うろんな月が、深い夜を青白く照らしていた。

 花泳ぐ秋夜しゅうや。可憐な死神はすこやかに笑う。

 その姿は、まるで――



『Like Butter』



          〇


キンモクセイ/金木犀【Osmanthus fragans var.aurantiacus】

中国原産の常緑性の小高木。

庭木や公園樹、街路樹として植えられる。

九月から十月頃に橙黄色の花を咲かせる。

花は香りが強く、日本三大香木にも数えられる。


          〇



 十月七日

 いわく、月が落ちた夜。

 まるで恋のようだった。

 海のように深い夜空には、嫌に綺麗な月。

 でたらめに大きくて、怪しいほどに眩しくて、嘘みたいに綺麗だった。

 かぐや姫さえ降りてきそうな美しい月夜。ともすれば何か物語が始まってしまいそうなこの特別な夜に、あろうことか私は自分の人生を終わらせようとしていた。

 自殺。

 つまり、自ら命をつことだが、以前の私だったら、絶対に試みることのない行為だっただろう。

 他人に迷惑をかける死に方なんてするべきではない。

 と、正義感たっぷりにそう考えていたし、自分の利用する鉄道が人身事故で遅延しようものなら「関係ない人にまで迷惑をかけないでよ」と、嘆息たんそくを漏らしていたことだろう。

 あるいはその考えは、道徳的観点から見れば間違いではないのかもしれない。だがしかし、今まさに自殺を実行しようとしている者から言わせてもらえば、それは間違いであると言わざるを得ない。

 なぜなら、他人の迷惑なんて考えていられるほど余裕がないのだ。

 それだけ追い込まれている。

 それだけ切羽詰まっている。

 ということである。

 少し想像力を働かせればわかりそうなものだが、恥ずかしながら、自ら死の淵に立ってようやく、初めて私は思い至った。

 まあ、それが理解できたところで何があるわけでもないし、これからしようとしていることに対する言い訳なのかもしれないけれど。

 けれど。

 そんなことに、もう意味はない。

「全部、今更だよ」

 夜更けの住宅街は異様な静けさに包まれていた。月光の降る音さえ聞こえてきそうな深い静寂に、自然と独り言がこぼれ落ちる。それがより一層、孤独を強調することも今は心地がよかった。

「あと、もう少し」

 この道を抜ければ、目的地に着く。街の境にある大きな橋だ。

 そこから飛び降りて、私は死ぬ。

 もう、迷いはない。

 広い道から脇にれたところを通っているこの道は、自動車の通り抜けもできないほどに狭い小道で、街灯もほとんどなかった。

 道端には金木犀が咲いていた。道の両端をいろどるように連なって植えられたそれは、月の青白い薄明りに照らされて、なんとも不気味な様相をていしていた。

 まるで、珊瑚サンゴのお化けのような…………

 はなやかな表情の裏で無数の触手がうごめいていると思うと、吐き気を覚えるほどに気持ちが悪かった。

 それに、この鼻にまとわりつくような甘い香りも、獲物をおびき寄せるためのものだとしたら――

「うっ…………」

 普段であれば、心が安らぐはずのその高貴な香りも、このときの私には、胸をさざめかせる刺激臭でしかなかった。

 私は、思わず鼻をつまんだ。

 花が視界に入ることも耐えられず、深くうつむいて、足元だけを見て歩いた。

 このとき、はからずも私が格好の獲物、、になっていたことには、まだ気付いていなかった。

 そのまま少し行って、十字路に差し掛かったときだった。角から通行人が出てきたことに遅れて気が付き、私は俯いたままその人を避けた。

 その次の瞬間、私の視界が真っ暗になった。

「――――っ!?」

 声も出なかった。

 否、出せなかった。

 俯いていた顔を強引に持ち上げられ、私は正面を向かされる。そして、私が自分の身に何が起きているのかを理解するよりも先に、後ろから私の身体を羽交い絞めにする何者かが、静かに告げる。

「声を出すな」

 しゃがれた男の声だった。

 咄嗟とっさのことに頭が回らず、私は反射的にうなずこうとしてしまった。しかし、頭を押さえつけられているために、結果として頷くことはできなかった。

 顔全体を覆うごわごわとした感触。

 ここでようやく、タオルのようなもので目と口を塞がれていることに気が付いた。

 気が付いたところで、何ができるわけではなかったが。

 男の手が、私の胸を乱暴にまさぐる。

 熱っぽくて、荒々しい手だった。

 声を出したかった。

 助けを呼びたかった。

 けれど、できなかった。

 この場で男に逆らうことが怖かった。

 怖かったのだ。

 男の手が、私の腹をなぞり、そのまま下へと滑っていく。

 みじめだ。

 実に惨めだ。

 結局、私は最後まで、理不尽に対してただ大人しく従うことしかできない。

 あまつさえ、犯罪者の言うことだって聞いてしまう。

 本当に。

 本当に惨めな人間だ。

 もう――

「殺して」

 果たして、私のそれは声になっていたのだろうか。

 わからない。

 わからないが、私の身体をもてあそぶ手が、ついに私の恥部に触れようとした――そのときだった。


「いっけなーいっ! 遅刻遅刻ぅーっ!」


 突然聞こえてきたのは、あまりにたりな台詞せりふだった。

 瑞々みずみずしい少女の声がつむぐ、正統派少女漫画的展開の代名詞とも言えるような、在り来たりな台詞。

 だが、この場に限って言うならば、それはあまりに斬新ざんしんな台詞だった。

 斬新すぎて、もはや場違いだ。

 登場する場面を間違えているし、そもそもジャンルを間違えている。

 たった一言で、ここまでのシリアスな展開をまるごとなかったことにしてしまいかねない。それほどまでに力のある台詞だった。

 こんな前衛的な物語があっていいのだろうか。

 そんなものが存在するのならそれは是非とも読んでみたいと思うが、とにかく、こんな展開から始まる物語がハッピーエンドを迎えないなんて、学校に遅刻しそうな美少女が曲がり角でヒーローとぶつからないぐらい、ありえないことだろう。

『たっ、たっ、たっ、たっ』

 と、駆けてくる足音は急速に近づいてくる。

 この後の展開は、もうわかりきっていた。

 走ってきた少女は『お約束通りに』私と男に衝突した。

 右方向からの強い衝撃で突き飛ばされた私は、大胆に尻もちをつく。その際に、私の顔を覆っていたものがほどけ、暗闇と息苦しさから解放された。

「いったたぁ……」

 少女の苦鳴くめいが聞こえる。

 声のした方を見やると、そこには学校の制服に身を包んだ小柄な少女が、私と同じく尻もちをついていた。

 左手にはやけに分厚い食パン、もう片方の手には銀色のバターナイフ、それから、ほっそりとした華奢きゃしゃな首には黒革のチョーカーを着けている。

 見た目からして高校生だろうか。

 こんな夜更けから制服姿で行くような場所があるのか、とか。一分一秒を急ぐ状況でなぜバターナイフを持ってきてしまったのか、とか。当然の疑問が頭をもたげたが、この際、私にはもっと他に考えるべきことがあったかもしれない。

 それは例えば、彼女の手を引いて急いで男から逃げる――とか。

 だが、私も大概この状況に相応ふさわしくなく、彼女の愛らしい容姿に思わず見蕩みとれてしまっていた。

 黒髪のショートボブに、おでこが透けて見える薄めの前髪。丸い輪郭の小さな顔に、くりくりとした大きな目。表情がよくわかる大きめの口は、色素の薄い唇で縁取られている。

 まるでお人形のような可愛らしさだった。

 そんな少女は、すくと立ち上がると、乱れた前髪を手櫛てぐしで素早く整えながら、ヒステリックに叫ぶ。

「もうっ! こんな時間にこんなところで何してるのよっ!」

 こっちの台詞だ、という突っ込みはひとまず置いといて、少女のそれは、これまた定番な台詞で、安心感すら覚えるものだったが、この場に限って言うならば一番聞きたくない台詞だった。

 この状況で男を刺激するのは、あまりに危険な行為だった。

 脇腹を押さえて地面にうずくまっていた男は、少女の言葉を受けていきり立つ。そして、固く握り締めた拳を、少女めがけて振るった。

 少女の小さな身体が弾け飛ぶ最悪な想像が頭をよぎった。

 だが、結果から言えば、男の拳が少女に届くことはなかった。

 ぎらりと、鈍いきらめきがまたたいた次の瞬間、私の視界に映ったのは、アスファルトの上で跳ねる、男の腕だった。

「は?」

 男が私の疑問を代弁してくれる。

 もっとも、突然、肘から先が失くなった本人からしてみれば、それ以外の言葉は見当たらないだろうけれど。

 断面からは、おびただしい量の血液が漏れ出ていた。とくとくと、拍動に合わせてリズミカルに強弱を繰り返しながら、アスファルトを真っ赤に染めていく。

 目が眩んでしまうほど、真っ赤に。

「うわ――――」

 男が悲鳴をあげようとした。

 その刹那せつな

 口を開けてから、声が発せられるまでの一瞬。存在したかもわからないそのわずかな間隙に、少女は手に持っていた食パンを、男の口にねじ込んだ。

「もがっ……!」

 一瞬の出来事だったため、実際に何が起こったのかはわからないし、そんな離れ業が実行可能なのかは疑問だが、男がその場に倒れ込み、声にならない声を発しながらのたうち回っている現状と、少女が先程まで持っていた食パンを手にしていないことをかんがみれば、そう推測するしかなさそうだ。

 とにかく、私の理解を超えている。

「~~~~~~っ! ~~~~!」

 男は、突然気道を塞がれたことでパニックを引き起こしているようだった。

「ちょっと、レディにぶつかっといて『ごめんなさい』の一言もないわけ!?」

 その『ごめんなさい』を言えなくしたのは、他でもなく少女自身なのだが、彼女は依然として男に対して激しく怒っていた。

 そう、彼女は怒っていた。

 てっきり、そう思っていた。

 彼女の顔を見るまでは――

「遅刻したら、あんたのせいなんだからね!」

 と、感情的に叫ぶ少女の顔は、へらへらと笑っていた。

 まるで、おふざけでもするかのように。

 うすら寒く、薄情に笑っていた。

「~~~~~~~~~~~~~!」

 男は残っている片方の手で、気道を塞いでいる食パンを必死に取り除こうとするが、相当奥の方まで詰め込まれているのか、上手く取り出すことができない。

 男は喉を搔きむしる。

 アスファルトに手を叩きつける。

 爪を立てる。

 暴れまわる。

 まるで駄々をこねる子供のようだった。

 次第に男の動きが鈍くなり、ついには小さく痙攣けいれんするだけになった。恐らく、脳が酸欠状態に陥っているのだろう。

 少女はもう笑ってはいなかった。

 それ、、を見下ろす少女の顔は酷くうつろで、うろのように感情が読み取れない。

 不気味だった。

 感じるのは底知れぬ恐怖。

 彼女は人間じゃない。

 人間の形をした何かだ。

 直感的にそう思った。

 少女は、男の顔のそばに膝を突くと、右手に持っているバターナイフを、脈絡もなく男の首にあてがった。

 次の瞬間、またしても信じられない光景が私の前で繰り広げられた。

 男の首にあてられたバターナイフは、するりと首の中へと入っていったのだ。

 私は目を疑った。なぜならバターナイフは決して肉が切れるものではないからだ。

 しかし少女は、まるで柔らかいバターを切り分けるかのように、なめらかに、かろやかに、ナイフを横へと滑らせていく。

 一瞬、男の四肢が緊張した。

「おやすみ」

 静かに語りかけて、少女は上品な手付きでナイフを抜き取った。それと同時に、開いた傷口から華々しく鮮血が噴き出した。

 鮮やかな赤が――少女を、夜を、いろどっていく。

 強烈きょうれつで、鮮烈せんれつな光景。

 薄暗い夜の中、そこだけが異様に鮮明だった。

 血塗られた少女はゆらりと立ち上がり、こちらへと振り返る。

 その姿は、妖艶ようえんとも言えるほど美しかった。

「ごめんだけど、お姉さんには死んでもらうね」

「えっ」

 少女は一言ことわりを入れるぐらいの軽いノリで、とんでもないことを言う。実際、少女にとってはその程度のことなのだろう。

 少女はゆっくりと近づいてくる。

 私は動けなかった。

 腰が抜けてしまっていたのだ。

 少女は私の前で膝を突くと、私の頬に優しく触れる。

 柔らかくて、冷たい手だった。

「大丈夫。幸せな気分のまま逝かせてあげる」

 少女は優しく微笑んで――気が付けば、唇を奪われていた。

「――――!」

 少女は、甘くむように唇を繰り返し、繰り返し重ねる。その度にぴくりと私の身体は緊張した。

 少女の期待させるような口付けに際限なく緊張感が高まり、私の身体が完全に硬直した頃、少女が私の中へと入ってきた。

 互いの舌が柔らかく絡み、内側から解きほぐされていく。

 甘くて、温かくて、まるでぬるくなったバニラのようだった。

 頭の奥がとろけるような感覚と、少女の甘い香りに、目眩めまいを覚えるほどくらくらとした。

 脳髄のうずいを襲う落ちていくような感覚。

 怖い――――!

「いたっ……」

 少女は口元を押さえ、顔をしかめる。

 私が思わず彼女の舌を噛んでしまったのだ。

 少女は血の混じった唾を吐き出した。地面に小さな赤い染みができる。この短時間で、随分と見慣れてしまった赤だった。

「ふふっ、お姉さん、やるね」

 少女が笑う。

 私はたまらず訊いた。

「あなた……いったい何者なの?」

「あたし?」

 私が頷き返すと、少女は立ち上がり、その場から二、三歩後ろへ下がる。そして、スカートの裾を両手で軽く摘み上げ、優雅な所作でお辞儀をした。


「あたしは死神だよ」


 嘘臭い月の下、赤く濡れた髪を揺らして、少女は健やかに笑う。

「お姉さんを殺しにきた」


「こ、殺しに……」

 こんな話を聞いたことがあるだろうか。

『死神はその人にとって最も魅力的な姿をしている』

 何故なのかはわからない。

 その方が仕事が円滑に進むからかもしれないし、最後のひとときを幸せに過ごさせるためかもしれない。あるいは、死は人間にとって魅力的なものであるということの暗喩あんゆなのかもしれない。

 わからない。

 わからないが、もうそんなことはどうでもよくて、とにかく、私の前に現れた死神は――バターナイフを持った女子高校生だった。

 こんなとき、私が言うべき台詞はこれしかなかった。


「死んでもいいわ」


 まるで恋のようだった。


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Like Butter 接木なじむ @komotishishamo

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