紫煙生誕歌

灰崎凛音

花として咲き誇ることが全てではないでしょう?

 この広い施設には喫煙所が二箇所しかなく、しかもそれは最北部と最南部に配置されていた。

 ぼくは紙巻き煙草愛煙家だ。

 今日も今日とて喫煙所——北側の喫煙所に歩を進める。手動のスライド式のドアを開けると、今日も今日とて彼が居た。

「お疲れ様です」

 彼はフィルターの茶色い紙巻き煙草を燻らせながら薄く笑う。

「お疲れ様です、調子はどうです?」

「ボクは相変わらず落ちこぼれですよ」

「ご謙遜を」

「本当の話です」

 益体もないやりとりをしながら、ぼくはいつもの一本を取り出し、彼が手渡してくれた百円ライターで火を付けた。

「そちらはいかがですか?」

「ぼくですか? どうでしょう、主観的に見るなら平常運転ですが、客観的に見ればもしかするとスキルアップしているのかもしれません」

「それはまた、羨ましい限りです」

 ぼくは彼とほぼ同年代だが、彼のバックグラウンドや個人情報は知らない。彼もまた、ぼくのことを知らない。ぼくらは単に、この広大な地下施設の喫煙所でよく顔を合わせては世間話をするだけの間柄だ。

「しかし今日も冷えますね、おかげでさっきまで手足が震えていました」

「ボクは疑問に思うんですよ、何故この施設にはセントラル・ヒーティングやACのような室内温度の調節機器がないのか」

 ぼくは少し黙り込む。ぼくが吐き出す煙と彼の煙草から立ちのぼる煙が無駄に天井の高い頭上で絡み合っているのを何となく見上げる。

「こちらは北部ですからね、今の内から寒さに慣れておけ、という上層部の考えがあるのかもしれません」

 そう率直に言うと、彼は鼻をすんと鳴らし、少々不満げな表情を浮かべた。

「南の方はどうなんでしょうね、暖かかったりするのかな? 想像もつきませんけど」 

「想像できたところで無駄なことですよ。ぼくらの居場所はこちら側ですからね」

「おっしゃる通りで」

 彼は皮肉めいた笑みを浮かべて次の一本に火を付けた。



 ぼくらは勉学や実習を含めた訓練を受けている身だ。

 その総数はぼくも誰も知らないし、もしかしたら上層部も把握していないか、しきれていないかもしれない。

 今のぼくや喫煙所の彼は、まだスタート地点にすら立っていない。

 ぼくたちの最初のステップは、まずこの地下施設から脱却すること。

『脱却』という言葉は適切ではないが、ぼく個人はこの単語がしっくりくる。他の訓練生が使うような夢見がちな表現は避けたいのだ。何故なら、繰り返すが『脱却』はスタート地点に立つことだけなのだから。



「こんにちは、お疲れさ——」

「ボクは相当な落ちこぼれです」

 今日の彼は相当の傷心状態だった。それでも相変わらずしっかりと茶色いフィルターを指で挟み、深く煙を吸い、しっかりと吐き出す。

「訓練で何かあったんですか?」

「教官に酷く絞られましてね……。ボクのような出来損ないは見たことがないだとか、ボクは絶対に上に行けないですとか、まあ、言葉の暴力の範囲内ですけどね、それでも傷付きはします」

 彼は眉をハの字にしていた。

「それは、もしかして実技の方ではないですか? 僭越ながら、ぼくから見てあなたは相当頭の良い方に思えます」

 ぱっと顔を上げた彼の眼は涙で滲んでいた。

「おっしゃる通り、ボクは実技がてんで駄目で……。座学はそこそこなんですけど……」

「だったらそこまで落ち込む必要はありませんよ。ここで重要なのはバランスです。しばらく実技の訓練や自主練を増やしてみては? 基本的に、この施設の面子にはそこまで個体差はありません。ぼくが保障します」

 彼は一瞬口をぱくぱくとさせ、

「ほ、保障、というと——」

 と言うので、ぼくは照れ隠しをしながら、

「他ならぬぼくも、昔は実技が大の苦手だったんですよ、今は良いバランスですけどね」

 と微笑んでみせた。



 全ての訓練を終えて寝床に戻る前に、ぼくはやはり一服したくなり、喫煙所に寄ってみた。彼は居なかった。ひとりで黙って煙草を吸うのが妙に久方ぶりのように感じられ、リラックスすると同時に、なんだか物悲しさを覚えた。

 だが次の瞬間、重い金属音がぼくの鼓膜を叩いた。

 喫煙所に窓はないのだが、それをも貫通して響く音だった。

 よもや、と思って急いで煙草を吸い切って喫煙所を辞し、近くの磨りガラスの窓の方へ向かうと、誰かが身体のトレーニングをしているのが見えた。磨りガラスだしその人物と窓までは少し距離があったから断定はできないが、ぼくには、彼が金属の器具を使って実技の自主練習をしているように見えたのだ。

——嗚呼、やはり彼は努力ができる人物だった。

 ぼくに押し寄せたのは、彼に対する賛辞でも、助言した自分への満足感でもなく、安堵だった。



「よくよく考えるとおかしな話なんですよ」

 彼が言う。今は昼休憩で、お互い昼食を済ませて、しかし他の訓練生らとそりが合わず、気づいたら他に誰も使用しないこの喫煙所に足を運んでいた。

「何故ボクたちはこのような姿をしていて、まして火を扱い、喫煙なんて行為が可能なのか、挙げ句それを美味しいと思える感性を持ち合わせているのか」

 彼は繊細で、様々なことに気づきやすく、見て見ぬふりができない性格の持ち主だと、ここだけの会話だけでも理解していた。

 それは時に苦痛にもなる。

 大多数が気づかないことを鋭敏に感じ取り、好奇心や疑問心を放置することができず、思考回路が通常より大幅に疲弊してしまう。それはぼくも近しい部分があるから、なんとなくだが共感できる部分があった。

「そんなことを言い出したらキリがないですよ。ボクらが受けている教育は本当に事実に即しているのか? 本当に太陽は東から昇り西に落ちるのか? 光合成なるものは本当に不可欠なのか? この地下施設に在る以上、良い意味でぼくらは盲目的になるしかない。これは盲信するという意味ではなく、精神的な自衛のためです」

 おそらく、ぼくは彼より年が上なのだろう。或いは彼の生命としての年齢が若いのだろう。特別優秀でもないぼくだが、何故だか彼にはこうして先輩風を吹かすというか、良く言えば助言をすることができた。何よりも、彼がよく口にすることはほとんどぼく自身がこれまでに身を以て感じてきたことがほとんどだったからだ。

「……確かに」

 彼は煙を吐き出しながら、腑に落ちた、といった顔で呟いた。

「精神的自衛、それは大切ですね」



 午前の訓練の休憩中、たまたま隣に座っていたセミロングのきれいな女性が声を掛けてきた。

「ねえあなた、もしかして煙草を吸うの?」

「ああ、さほどの量ではないけどね」

 すると彼女は信じられないといった驚愕の表情を浮かべ、

「ここがどこだか分かっているの?」

 と、若干の憤りすら孕んだ小声で詰め寄ってきた。周囲の数名が不思議そうな顔でこちらを見遣る。

「重々承知の上だよ」

「副流煙について考えたことはないの? あなたの纏う匂いや煙が私や他の訓練生に悪影響を与える可能性が無いとは言わせないわよ?」

 彼女はあくまでも押し殺した声だったが、その眉間には皺が寄っていた。

 紙巻き煙草を吸う者として『迫害』されることには慣れていたので、ぼくはただこう返した。

「じゃあなんで喫煙所が施設内に二箇所もあるか、上の人に聞いてくれないかな? 需要と供給の話になると、ぼく個人は思うけどね。それに副流煙程度で終わってしまうならその訓練生はそこまでの運命だったんじゃないかな」

 ぼくは立ち上がり、ボディバッグを着用してドアへ向かった。美しい彼女の表情がどうなっているかなんて、微塵も興味が無かった。



 その日は珍しくぼくが先に喫煙所に着いて一服していた。半分を吸い終える頃に彼が入室してきた。顔色は悪いが、それよりも視線が定まっていないのが気になった。

「随分お疲れのようですね」

 そう声を掛けると彼は軽く首肯し、しかし煙草だけはいつも通りの手つきで取り出して点火した。

「……次の選抜でどの訓練生が上に行くのか、情報が漏洩しているのをご存知ですか?」

 まるで灰色の声音で彼が吐いた。しかしその内容は衝撃的だった。

「選抜ですって? 上に行くか否かは訓練生の——」

「訓練生の励み次第だとでも? 心外ですね、あなたのような方がそんなお伽噺を信じている類とは思っていませんでした」

 煙草を持っていない左手で顔を覆う彼、その口角は歪みつつも釣り上がっていた。

「ボクは……」

 もはや彼は煙草を持つだけ持って、灰が落ちるのも気にせず、絞り出すかのような声で声を発した。

「ボクは……、もう、いい……。こんなくだらない競争社会からは脱落して構わない。知ってますか? 上に行くと、ボクたちはここでの記憶を失うんですよ? 地上に出たら文字通り空っぽになって、『無垢』なんていう聞こえの良い阿呆に成り下がってここで学んだことなど忘却の彼方、ただただ日光に向けて背を伸ばし、ある種の連中は花を咲かすことだけに腐心する。それで他の植物や動物、人間なんぞから『まあ美しいわね』とか何とか言われることに至上の喜びを覚えるらしいですよ。そんなの、ここでこれだけ訓練を積み重ねてきたボクらからすれば不条理でしかない!」

 それは悲痛な叫びだった。彼はフィルターが燃えて異臭を放っていることに今気づいたかのようにそれを灰皿に捨てる。

 ぼくの心の中はその動きを一方で仔細に観察しながらも、他方では茫然自失状態だった。ここから『脱却』したら記憶を無くす? ここでの苦労を忘れて呑気に花を咲かせるなんて、彼の言う通り本物の馬鹿じゃないか!

「……ボクは」

 蚊の鳴くような声で、彼が二本目の煙草を取り出した。

「ボクはいっそ煙になりたい……。煙になることができれば、誰にも、何にも囚われることなく自然と上昇し、拡散し、自分でも気づかぬ間に消え失せることができる。でも煙になるには、何者かに点火され、焼かれないといけない。最も痛みを伴う死因だと人間の間では言われているそうですが、ボクは、もういいんです。ボク自身は灰になって、何者かに踏まれたり風に飛ばされたりして、でも煙になったボクは自由になるんです。ボクはもう、本当に、それしか望みません……」

 最後に彼は一口だけ煙草を吸い、真上にゆっくりと煙を吐いた。蛍光灯へと昇っていく紫煙に、彼の瞳は幼い子供のような憧憬を映し出していた。そして別れの言葉も何もなく、彼は吸い殻を捨て、喫煙所から出て行った。

 それ以降、ぼくは彼の姿を見なくなった。



 ある日の最後の訓練、勉学の最中、どういうわけかぼくは教官に指名され、部屋の黒板の前でこの地下施設からの『脱却』、つまり『発芽』についてのプレゼンテーションを要求されていた。

「きみの思うように意見を述べてもらって構わないよ。これは成績には影響しないし、最近とみにレベルを上げてきているきみに対する私自身の好奇心でもあるからね」

 部屋には約五十人の訓練生が居て、皆が皆、ぼくと同じタイプの訓練生だった。こんなのただの公開処刑じゃないか——と、最初はそう思ったが、即座に自分の日々の思いを吐き出すチャンスだと捉え直すことにした。

「では遠慮なく」

 ぼくは白いチョークを手に取り、黒板に横二メートルほどの直線を描いた。

「これが地上と地下の境界線だとします。言うまでもなく、今ぼくたちが居るのは、ここですね」

 今度は黄色いチョークでその直線の下に、大きな楕円を描いた。ほとんどの訓練生が頷いている。

「これまでぼくらが受けてきた教育では、地上には——」

 ぼくは素早く赤いチョークを探し、なるべく高い位置に丸を一つと、そこから直線が数本伸びている図を描いてみた。加えてその近辺に水色でその周辺を薄く塗りつぶし、あくまでも自分の想像の範囲内ではあったが、白いチョークで薄い丸を幾つか描く。

「そう、地上の空高くには強烈な光を放つ『太陽』があり、広大な『空』が広がっています。また日によっては上空に白い『雲』が浮かび、または『雨』や『雪』が降ったり、特にこの地域では秋口に『台風』という暴風雨に襲われることが多いと教育されてきました。それでもぼくたち『』が日々勉学と実技に励み、来たるべき『発芽』に向けて精進しているのは、今の内からこれら地上での厳しい競争社会に備えるため——。ぼくはそう信じてきました。しかし、ぼくが今述べたのは、この地下施設の教育が真実であることを大前提にした上での話です」

 一瞬の沈黙の後、教室にざわめきがひろがっていった。教官は慌てて一歩前に出、

「一体何を言い出すんだい? 我々がきみたち『種子』にでたらめを吹き込んでいるとでも?」

 ぼくはあくまでも無表情に、眉をぴくぴくとさせる中年の男性教官に語りかけた。

「この施設には、『脱却』、つまり出て行った『種子』は居ても、『無事に花になれたよ、ここの教育が正しかったよ』と証明できる卒業生やその他エビデンスがありません。そもそも教官、何故『種子』であるぼくたちはヒト型なのでしょうか? 何故『種子』である僕たちが土の中ではなくこのような人工的な施設の中に居住し、人間さながらの生活を送り、ぼくに至っては紙巻き煙草の愛煙家になっていますが、それはどうしてなんでしょうか?」

 中年の教官は額の汗を拭き、何か言おうと口を開いたが、どうやら咄嗟の嘘は苦手なタイプらしい。

「ぼくからのプレゼンテーションは以上になりますが、結論といたしましては、『良い意味で疑いをもってかかれ』というメッセージになります。なお、ぼくはこのクラスを最後にこの施設から離脱し、自力で発芽することをここに誓います」

 息をのむ者、大声をあげる者、絶句する者、裏切り者と叫ぶ者、反応は様々だったが、ぼくの意思はかたまっていた。


    



——眩しい、眼が痛い。いや、ぼくに眼はあるのか? 

 ふんわりと、ゆるやかに視界が拡がっていった。何か涼しいものが全身を右から左に撫でる。これは——風?

 足許を見る。予想より高い位置に、ぼくの意識はあった。まだまだ白さを残した黄緑色の身体に過ぎなかったが、どうやらぼくは自意識と記憶を保持したまま発芽することに成功したらしい。

 彼が言っていた通り、あの地下施設から『選抜』されて地上に出た連中は赤子レベルの知能しか持ち合わせていなかった。ろくに話し相手も居ない中、ぼくはなるべく身長を伸ばそうと努力した。

 彼のことが気になっていた。

 もし彼が何らかの形で発芽に成功していたら——という一抹の希望は捨てきれなかったが、その可能性は極めて低いと言わざるを得なかった。彼はあの時点で『煙になりたい』と言っていたのだから。



 二ヶ月が経過した時、ついにぼくは、ぼくと彼の、つまりは種子と種子の間に確かに存在した友情、絆の証左を発見することになる。

 ぼくは花を咲かせるタイプではなかったが、その分背が高く、広くまで根を張れる植物だった。そして、北の方に根を伸ばしていたら、突然根の先が異物への接触を感じたのだ。それは確かに異物ではあったが、どこか懐かしさを感じさせるものだった。ぼくの胸は躍っていた。視覚を根の方へと移し、猛スピードで根の尖端まで移動させた。ぼくの本体は比較的湿り気のある土にあったが、それは少し乾燥した土に変化していて、そこには——があったのだ。


 それは、ぼくらが吸っていた煙草のフィルターだった。

 ぼくが吸っていた白いフィルターと、彼が愛煙していた茶色いものが、無数に。


 もしぼくに眼があったらぼくは泣いていただろうし、もしぼくに言葉を紡ぐことができたら、


「久しぶり、また一緒に吸おう」


 と言っていただろう。

                            (了)

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紫煙生誕歌 灰崎凛音 @Rin_Sangrail

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