姉は「大丈夫」と言って、すべてを飲み込んだ

姉貴

第1話

姉は「大丈夫」と言って、すべてを飲み込んだ


序章 姉が言えなかったこと


姉には「頼る」という選択肢がなかった。

困っていても「平気だよ」と言う。辛いときほど「大丈夫」と言う。まるで誰かにそう教え込まれたかのように、どんなときも強がって、すべてを抱え込み続けた——そんな姉の話を、ぼくは代わりに書き残す。



第1章 姉の「大丈夫」は、子どもの頃からだった


姉は三つ年上だ。小学校時代、母が仕事で遅い日が続くと、姉は下校時刻に合わせて学童へ迎えに来てくれた。ランドセルの中身を点検し、忘れ物があれば小言を言いながら一緒に取りに戻る。


ぼくが高熱を出して寝込んだ夜、姉は台所でお茶を温め、タオルを何度も取り換えながらぼくの額を撫でていた。


「お母さん、いつ帰るの?」と聞くと、姉はにこりともしないまま「大丈夫。寝てれば治る」とだけ言った。


その“強がりの優しさ”は、中学・高校でも変わらない。中学で部活に入った姉はバスケに打ち込んでいたが、高校になると家計を支えるためだろう、あんなに好きだったバスケ部には入らずバイトを始め、帰宅してからはテスト勉強を欠かさなかった。成績は上位、でも自慢はしない。これで友達と遊びなと、ぼくにおこづかいをくれる事もあった。

きっと、姉は友達と遊んだりももっとしたかったんだろうと今になって思う。



第2章 社会人一年目、変わっていく姉


大学を卒業した姉は、地元の保険会社で事務として働き始めた。配属当初は覚えることの多さに戸惑いながらも、“雑用でも誰かの役に立つ”と前向きだった。


だが三か月が過ぎた頃から、姉は急に口数を減らした。


「仕事どう?」と聞けば「うん、別に」。

朝食もとらずに出勤することも増え、帰宅すればリビングを素通りして自室に消えた。


「今の仕事大変なんじゃない?」と聞いても「大丈夫」

同僚の仕事を「断れない」姉は、代わりにやっといてと頼まれれば深夜まで残業し、後輩の入力ミスを肩代わりして謝った。評価は上がらない。疲労だけが増え、姉の「大丈夫」は、もはや“余裕のなさ”の合図になっていた。



第3章 保証人


姉とはあまり話さなくなっていた。

珍しくリビングにいる姉に、なにかあったのかと問いかけようとした時


「会社の人にね、頼まれて——ちょっと保証人になった」


お姉さんのようによく世話を焼いてくれたという先輩から、ローンの保証人を頼まれたという。


「名義だけ。迷惑かけないって言われたから」


ぼくは嫌な胸騒ぎがした。けれど姉はもう押印を済ませ、相手を信じることを選んでいた。


「お世話になってるし、少しでも助けになりたい」


その優しさが、やがて姉を深い泥沼へ引きずり込むとは想像もつかなかった。



第4章 いなくなった女と、届いた封筒


二か月後、保証を頼んだ先輩は突然退職し、連絡が取れなくなった。まるで最初から仕組まれていたかのように。


そして恐れていた事が起こる。

届いた封筒には、残高五百万円を示す請求書——。

赤いスタンプが押された紙を見つめる姉は、血の気の引いた顔でただ「ごめんね」と呟いた。


ぼくが自室に戻ったあと、しばらくしてリビングから母の怒声が聞こえた。余計な口出しはかえって姉を追い込みかねなく、黙っていることしかできなかった。


次の日、姉は会社を休んだ。




第5章 夜職の誘惑


昼間の給料と夜勤のコンビニ・清掃アルバイトを掛け持ちしても、元本はほとんど減らない。焦った姉は、駅前で声を掛けてきたスカウトに耳を貸した。


「時給三千円。ドリンクもバック付き。お喋りができればオッケー」


姉は酒にも弱くお世辞にも話上手とは言えない。それでも“今の状況を変えたい”と体験入店し、予想以上のお給料に本入店を決めた。


昼夜多忙を極める姉に、ぼくもなにか手助けをできないかと申し出たこともあったが

「大丈夫。自分のことは自分でやる。」

窮地でも、姉は姉らしかった。




第6章 恐怖


初月は指名0。それでも「優しいから話しやすい」と評判は上々だった。


常連客の一人が執拗にアフターを誘うようになったのは三か月目。


「これまで結構使ったと思うんだけど——今日のアフターはホテル、行こうか」


姉は笑顔で丁重に断った。だが客は激昂し、店の裏口で待ち伏せした。以降、非通知の着信が毎晩鳴り、最寄駅では薄笑いを浮かべる男の影。鍵を開ける手が震え、玄関のチェーンを二度確認しなければ眠れない夜が続いた。


このままでは家族にも危害が及ぶかもしれない。もう無理だ——姉は店を辞めた。



第7章 解放


いつもより早く帰宅した姉に、声をかけようと歩み寄ると


「逃げたって思われてもいい。あそこにいたら自分が壊れる」


あの姉がポロポロと涙を流すのを見て、ぼくは言葉を失った。

この時に、何があったのか教えてもらった。


それでも姉は翌朝には仕事へ向かい、夜は家で副業の勉強に勤しんでいた。対面で接客しない——ネット個人ショップの開設だった。「大丈夫、やるしかない」と深夜にコーヒーを飲みながら呟く姉の表情は、まだ光を失ってはいなかった。



終章 


いま、姉は保証人トラブルの借金を“すべて返し終えた”


残る借入は、ネット事業の仕入れ資金や設備投資——事業拡大のために選んだ“良い借金”。姉は昼間の仕事を辞め、自分の店だけに集中している。幸いにも1人では手に負えないくらい好調な時もあり、ぼくも手伝うようになった。


もちろん波はある。売上が伸び悩むと不安で眠れず、仕入れ先との交渉で胃が痛む日もある。けれど姉は、誰のせいにもせず「怖いときもあるけど、自分で選んだ道だから」と笑うようになった。


朝、コーヒーを飲みながら姉は言った。


「前は“人に頼るのは良くない”って思ってた。でも達成した時の喜びを誰かと分かち合うほうが、いいかなって」


あの言葉には小さな安堵が混じっていたように思う。


この記録が、どこかで誰かの心に届いたなら。

「大丈夫」と言い続けた姉の優しさと痛みを、少しでも想像してもらえたなら。


姉はきっと、今日も少しだけ笑う。

そしてぼくも、その横顔を記録し続ける。

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姉は「大丈夫」と言って、すべてを飲み込んだ 姉貴 @ringobrother

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