あなたが呼んでくれた名前は少しくすぐったい

ハナビシトモエ

月の光はレモンの香り

 月の光はレモンの香り。

 凛風りんふうもそう言って隣で笑っていたな。

 十二月二十五日、風が冷たい中、私と当時のパートナーである凛風がベランダで明るい飲み屋街をみながら漏らした言葉だった。


 きっと上手く返答出来なくて、そのせいできっと翌年の二月の二十九に彼女は荷物をスーツケースに入れて出て行ったのだ。


 清少納言の言う通り香炉鋒の雪がどうかを答えることが出来ていれば、あのクリスマスの夜に隣で話を続けて「知っている? 甘いレモンもあるんだよ」とか言っていれば別れも無かったかもしれない。


 ただ私はたくさんのあの時を間違えたことだけを。


 あの子は男の子も好きになることが出来た。会社でも高層ビルで階層ごとに彼氏がいるほど、魅力的な女だった。出会いは最悪で「ねぇねぇ、田所さん。彼氏いないなら付き合ってやろうか」と見下したていで話かけてきた。私は顔を下げて「結構です」と言って、エレベーターに乗り込んだ。


 凛風が二階の男と破局した。三階の男とホテルに入るところを見たのだという。



「私、あなたと付き合っている気無いけど」

 恐ろしい女だと思った。階層が二十あって、それぞれ違う会社で男が少なくとも二十はいるのに誰とも付き合っている男がいない可能性があるなんて、そんな女とお近づきになりたくない。


 出来るだけ自分のオフィスから出ないように努めた。どうやら御仁は五階の経理らしい。私は八階の事務だ。オフィスの窓をなんとなく確認し、御仁が退社して三十分経つと退社した。



 お酒を必要としないので私はまっすぐ家に帰る。



「ねね、あなた八階の女でしょう。名前なんだっけ、田所?」

 寄ろうとした銀行のATMで御仁に声をかけられた。


「なんですか」

 路地に引き込まれて、向かいの立ち飲み居酒屋を指さした。


「あそこの男、金はめちゃくちゃ持っているから一緒にいるけど、田所のことを好きらしくて、あの見た目どう?」

 細くて猫背で何かと人を小馬鹿にする大声で話している。


「今から一緒に飲みに行かない?」

 お酒は飲めないですということは出来ず、お金も下ろせずに私は飲み屋街を抜けた。不服だった。

 都合のいい時に都合よく使うなんてあの男たちにする手段と同じではいか。この人の不誠実さといつか刺される人間関係の構築の下手さが腹立たしい。



「私さ、モテるの」

 でしょうね。色んな階に色んな男の人がいたらそう思えるでしょうね。


「たまには女を抱いてみたいと思うの」

 振り切ろうとした女の手を力の差で振り切れない。

「私、そんなに悪い女かな。ムード作りは上手いし、テクニックもけっこうあるよ。そんなにいい女なのに嫌がる理由は何」


 やっと振り切った腕を胸に抱き、私は後ろを見ずに走った。




「田所さん、ちょっと」

 仕事はまぁまぁ出来るが契約社員だ。更新の日が近づいている。

 思った通り会議室に呼ばれ、更新はしないと告げられた。

 有給消化の相談や引き継の件、挨拶回りでしばらくは忙しくなるが、先に業務の引継ぎを終わらせば少しは楽に出来そうだ。



 いつものように窓を確認して退社した。

 あの女の周りに男がいなかった。


「あんた契約解除だってね。いやぁ、私もやらかしてさ」

 また男関係だろう。


「マッチングサイトで見つけた高収入の男は不倫をしていた相手はまさかの社長の息子で不倫発覚。私は知らなかったということがあるけど、社内風紀を乱した。無かったことにしてやるから依願退職しろってさ。この建物ともお別れだ」


「お疲れ様でした」


「ちょっとちょっと」


「男にないがしろにされて、プライド傷ついているかは知りませんけど、私には関係ないので」


「社宅なんだよね」


「そんなの男の人の部屋で」


「さすがに訳あり女は居候出来なくてさ。急なお願いで申し訳ないけどさ」


「ダメです」


「一か月だけ。家賃は五万出す」

 契約社員の生活は出来る人なら給与もまだあるが、並みだと厳しいものがある。それに若いというだけで重宝される。三十路間近の契約社員は新卒に負けるしかなかった。それだけに五万は魅力的だった。



「じゃ、今からということで」

 女は前を歩きだした。


「ダメです」

 不服そうな顔をするので、私の思うがまま告げた。

「お金で何とかしようとする人は嫌いです」


「あれれ、田所さんではないですか」

 振り向くと先日の細身でいけ好かない男性。何人かの男性と共に立っている。

「契約を止められて大変でしょう。僕の家、家賃の割に部屋数が多くて、もし良かったらシェアハウスしませんか?」



 ぜーったい無理。三択ある。


 クソ女と住む。

 クソ男と住む。

 逃げる。


 私は逃げるのを選択した。失敗した。


 業務の引継ぎや挨拶回りで今日は疲れていた。有給消化も始まる期間も何となく設定されて、今日はすぐに電車で帰りたかった。



「私、この子と付き合っているので」

 肩を抱かれた力強い腕に空気が凍った。何をやりだすのだ。

「私、ネコでこの子じゃないと満足させてもらえないの。今日も一緒に帰るところだもんね」


「違います。本当に違うんです。関係ないです」


「黙ってくれるって約束はいいよ。もう辞めちゃうから関係ないし、お世話になりました。ばーい」


 唖然とする男たち、愕然とする私、ルンルン気分の御仁。


「怖がらなくて大丈夫。嫌な人にはしないからさ」



 とか言ったくせに帰ってシャワーも浴びずに押し倒された。

 悔しい。



 四月一日にはまだ仕事は決まらず右往左往していた。

 一方、押し倒された後にした自己紹介では(普通押し倒す前にするのではないかと思うけど)、凛風と名乗った。凛ちゃんと呼ぶことになった。


 家は狭いから引っ越そうと言われて、半ばヒモ状態であるがプライド的に私名義でマンションを借りた。そこそこ高かったけど、本当に優秀らしい凛ちゃんはすぐに仕事を見つけて、私は警備のバイトをしながら就職活動をしていた。


「そんな無理しなくても養ってあげるよ」


 近くのワインショップで買ったワインをあの十二月二十五日に飲み交わすことになった。


 私はいくつかの企業から正社員で内定をもらった。事務の中途で資格持ちは強かったようだ。欲をかいて編集者で頑張るなんて言わなければ良かった。


 バイトは辞めて歳初めから仕事が始まる。


 今日が初めてゆっくりと休める最初で最後のクリスマスだった。

 この関係はずっと続くことはないだろう。私が始める仕事は二人のライフスタイルに合わない。

 働いている時間はさほど変わらないが、場所が違う。二人とも最低限の生活しかしない。どちらかが料理や家事をしないのだ。あまりに溜まると有給をとって片す。




「和葉」

 私は和葉。押し倒されたあとに言った名前、ベッドで抱きしめながら凛ちゃんは嬉しそうに何度も言った。


 私は寒い中、もこもこのセーターを着た凛ちゃんにグラスを渡した。スウェットを着た私は「クリスマスだね」とつぶやいた。あぁ、そうだね。なんて言われたかとも思う。



「和葉、知ってる?」


「なに?」

 ケーキ食べたいねなって出るかしら、コンビニのケーキはもう売り切れているかな。


「月の光はレモンの香りがするの」

 凛ちゃんはふぅと息を吐いて、私の顔をまじまじと見た。

 どんな顔をしていたのだろうか。ただ、後になって分かったのは私が就職してから、件の二月二十九日に至るまで凛ちゃんは複数の男の家に通い、妊娠したことだった。


 別れを告げられて、一緒に育てようと言えなかったのは一生の迷いとなった。少し膨らんだ凛ちゃんには誰か分かっている男の元へ行ったのか私には見当もつかなかった。

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