威風の子

@Msatoru

はしがき

 その高台から見える景色は、それまでの幾千年にわたる人類の叡智をも感じさせた。

 南北を大きく縦断する朱雀大路すざくおおじと、それに交差する何本もの路地は碁盤の目を彷彿とさせ、それを上から一望した者は皆、どこか幾何学的なその規則正しさに思わず息をのんでしまう。

 新都と呼ばれるそのみやこが完全なる姿になってからはまだ間もないが、思えば延暦十三年(七九四)の遷都から十数年、この都がこれといった凄惨な争乱や暴動に見舞われなかったのは、ひとえに民衆の心の中に一人の英雄が根強く存在していたからであろう。その英雄は多くの武人からは軍神のような敬い方をされ、多くの民からは安寧な世を築いた象徴として異常なほどの親しみを抱かれた。宝亀ほうき年間に激化した大和朝廷に牙を剝く東北の蛮族との熾烈な抗争では、民衆にとって脅威であった蝦夷えみしを屈服させ、大同五年(八一〇)には退位したはずの先帝による皇位簒奪をその身一つで鎮圧したその英雄は、帝から下々の民にわたって多くの者に惜しまれながらその激動の生涯を閉じた。


 弘仁二年(八一一)五月二十七日。英雄が死して四日たった今日も、未だ人々の心にぽっかりと空いた穴は埋まらなかった。

 この年は新しい帝が即位してまだ二年目であった。

 のちに「嵯峨さが」というおくりなで呼ばれるその帝は、山城遷都という国家にとっての一大事業を決行し、未開の地だった坂東より北を朝廷の支配下に与させた張本人である桓武帝の第二皇子で、もとはいみな神野かみのといった。神野親王は五歳という物心がつくかつくまいかの年頃に母君を亡くし、その後も祟りや度重なる戦に見舞われた激動の世の中を成長した。そんな彼にとって、帝である父の傍らで揺るがない忠誠を貫いたその英雄の姿は、どこか淡い憧れを抱いてしまうほどの神々しさだったに違いない。



 新都・平安京から南東に数里離れた高台の上で、人の手によって土が掘られてはまた、中心にある大きな窪みを囲むように盛られていく。ざく…ざくっと何本もの鋤が音を立てては土を盛り返す。この日、この場で土掘りにあたっていたのは都に勤める下級役人たちであった。慣れない農作業同然の役目に、額にぽつぽつと沸く汗を拭ってはまた地面に鋤を立てる。

 当初は小さな円だった窪みが、やがては大きなお椀のように広がっていき、終いには植木鉢のような深底の穴へと形を成した。深さ十尺(約三メートル)はあるであろうその穴には、当時の中肉中背を縦に二人分積み上げてもまだ空間が残るほどで、さながら都人みやこびとたちの心に空いた巨大な穴が、そのままそこに現れたかのようだった。


 深い穴の底を掘っていた役人が、急な斜面に架けられた梯子を伝って上がってくる。地上に顔を出した瞬間、役人は思わず圧倒されて後ろに倒れそうになった。これからその大きな穴に埋められるが目に入ってしまったのだ。

 高さ七尺(約二メートル)はゆうに越える木棺。その中には当然人の亡骸が入っているのだが、とても骸とは思えないほどの生気を放っている。言ってしまえば今にも動き出しそうなのだ。ただでさえその骸は、身丈だけでも五尺をゆうに超え、当時の並みいる大人はそれを見ようとするだけで見上げた格好になる。

 その上で…それは奇しくも全身に黒褐色の甲冑を纏っていた。

 何枚もの金属板が連結して骸の巨体を覆いつくし、その胴体は亀の腹甲のようにさえ見えた。ひとたび日光が照らせば、その隅々までが燦燦と照り返す。さながら漆のような輝きは、ただでさえ躍動しそうなその躰から発せられる呼吸のようだった。

 これを立ったまま、この地に深々と埋葬する。それが帝からの勅命であった。故に大きな穴なのである―― 

 その片隅でこれから大地の中で深い眠りにつくその英雄は、まるで最期のその一瞬まで、目下に広がる都の姿を目に焼き付けんとするようだった。


 やがて作業もひと段落着いたと見て、ほとんどの役人たちはすっかり休憩に入っていた。まだ年端も行かない役人たちに、かの英雄の美談や逸話を、まるでこの目で見たといわんばかりに誇らしげに語る年配の輩の姿もあった。何処何処どこどこの山に住まう鬼や魔物を退治した話、何処何処の寺社に刀を寄進してその周辺が繁栄した話、捕らえた蝦夷の大将の助命を願い出た話、無念にもそれが叶えられなかった話――

 若輩たちはいちいち相槌を打ち、中には時折「まさかそんなことが…」と怪訝そうに英雄の骸に目をやる者もいた。しばし続いたそんな歓談も、次第に音を弱めていった…

 皆がこちらへと近づいてくる異様な足音を捉えたからである。


 雑木林を隔てた道の向こうから、数にして十は超える人の足音、それが大地を踏み鳴らしながら迫ってくる。皆々が一目で高位だとわかる色のほうを着ており、腰に帯剣し、頭には頭巾ときんを被っている。

 目で捉えられるほどの大きさになった頃には、それがれんと呼ばれる輿の一種を担ぐ集団だと、その場の皆が気づいた。十余名の官吏たちによって担がれたその輿は、まばらに円座していた下級役人たちの眼前まで迫ると、大きな音を立てて地上に降ろされた。砂埃が勢いを立てて舞い上がる。


御上おかみ…!」

 あまりに信じられない光景だったのだろう。それまで座していた一人が甲高い吃驚の声を上げて立ち上がった。一人立ち上がればまた一人

「何故…こちらへ…」

 輦に備わっていた御簾がすーっと上がったかと思えば、中から顔を出したのは他ならないこの国にただ一人の天子――帝本人であった。

 刹那、それまで立ち上がっていた者が今度は唐突に「ははーっ」とひれ伏し、まだ夢か現か状況を呑み込めていない若い者たちもその声に続いた。

 無理もない。自分たちの中には一生を懸けてもその姿を拝めない者だっているだろう…なんという僥倖ぎょうこうであろうか。

「近侍の者に無理をってな…」

 朗らかに笑う帝は、細い口髭を生やしてはいるものの、顔には一本たりとも皺はなく、なんとも不釣り合いな若々しい顔をしていた。

「まあそう強張らなくともよい…面を上げよ」

 そう口にした時には、帝は輿から軽快に降りて足を進めていた。向かう先には勿論――堂々とそびえ立つ棺の英雄がある。

 それを見かねて、それまで帝の側にいた一人の武官めいた男が制す。

「御上…お待ちを。独りでに駆け出されては困ります」

「よいではないか。野足のたり

 童子のような帝の一声にため息を吐くや否や、この男はこれまた厳かな声で、一向にどよめく周囲の者たちを

「皆の者、本日御上がこちらへ行幸あそばされたことは…内密に」と言ってたしなめた。

 年だけならば六十を超えるだろう高齢な形相を覆いつくすほどの、ただならぬ何かを纏っていた。言ってしまえば、棺の中にいる英雄の骸から発せられるものと似た気配である。この場で土を掘る若い下級官吏たちが戦を知らぬ新時代の人たちだとすれば、この老将は間違いなく旧時代の人間だった。それもそのはず――


 名を巨勢朝臣こせのあそん野足。この男もまた棺の英雄と同様、蝦夷との数々の苛烈な戦乱を戦い抜いた軍人である。

 戦が終わるや否や、今度は政務官として朝廷内でめきめきと頭角を現し、昨年には新設された蔵人頭くろうどのとうという役職も務めた。この蔵人頭とは、帝の秘書たちを束ね、帝とそれより下の参議たちの橋渡しを務める――いわば側近の中の側近であった。野足は今この瞬間、間違いなく宮廷内において最も帝の意向を汲むことができる人間であり、また帝にとっても彼は、他の誰よりも我儘わがままを聞いてくれる存在だったであろう。


「これこれ…亡者に近づきすぎてはいけませんぞ」

 気が付けば帝が棺と向かい合わせに立っていたため、数歩遅れてやって来た野足は、声をかけずにはいられなかった。帝はというと、目の前で黒光りする甲冑の巨体を、それに負けないぐらい目を輝かせてじっと見上げている。

ちんにはまるで生きているようにしか見えんのだけどなあ…」

 これには野足も笑いながら左様ですな、と同意した。

 ――ちゃりん。

「来たか…」

 鈴のような音色を耳にしたかと思うと、帝はより一層心を躍らせた。

 その傍らで野足は一人の僧侶がゆっくりと近づいてくることに気づく。僧侶は腰を少し曲げながらも軽快に足を進め、目じりに若干の皺を浮かべながらも、老僧というには若すぎる顔つき。

 帝の横に肩を並べるころには、ちゃりん…ちゃりん…と地面を衝いていた錫杖しゃくじょうの音もぴたりと止み、僧の足も止まった。やがて僧は帝と同じくそびえ立つ木棺に目を移し、まるで大仏でも高々と見上げるように口を開いた。

「ご立派ですね」

上人しょうにん…久しいな。息災か?」

「ええ、おかげさまで」

 この僧は真言密教の祖、法名を空海という。この僧が帝と肩を並べたとて、それを一介の僧侶が大それたことをなどと止める近習の者は誰もいなかった。それはこの空海という僧が成し遂げてきた数々の偉業があったからというよりも、何より彼が帝にとって唯一無二の心を許せる存在であったからかもしれない。時の権力者が影響力のある聖職者を庇護するような関係性とはまた違った、むしろそれをも超越した二人の間にしかわかりえない空気がそこには存在した。


 この後方で口を噤んでいた周囲の者たちは、それまで以上に言葉を失った。

 ただでさえ帝が突如として目の前に現れ、そこに当代一の名僧…そんな両名の目線の先には自分たちの知るに及ばない英雄――死の間際までこの日見た光景を忘れることはない、それだけは確かだった。

 驚嘆のあまり、声を震わすことしかできない役人たちを背後に帝は、野足に向けて悪戯っぽく笑って見せる。

 それを合図に、野足は「皆の者」と声高々に張り上げた。

「ここに佇む御仁こそが平安京の守護神…坂上大宿禰さかのうえのおおすくね田村麻呂卿である」

 その一声で、周囲の役人たちはまた棺へと目を向けた。

 今この都に訪れている平穏な日々は束の間のものかもしれない。数百年後には、下手すれば数十年後には再び国中が悲しみの業火に包まれる日が来るかもしれない。少なくとも己が生きているうちは、この平穏を守り抜くための政をしたい…帝の目にはそんな覚悟が宿っているようだった。

 それでもこれからの世を生きる人々には、この英雄のことだけは永遠に忘れないでほしい。それは帝のほんの小さな願望だったのかもしれない。


「御上、いかがなさいました」

 野足が何かを感じ取ったのか、何かを言いたげな顔で立ち尽くす帝に近寄り声をかけた。

「弓を…」

 帝が一瞬口ごもった。

「弓を携えておらぬではないか」

 その声色は格別穏やかで、部下の者たちの不備を指摘しているというよりも、単にいつもそこにあるはずのものがなぜ今日はないのか、という疑問をまっすぐ口にしているようだった。

 どうすればよいのかと周囲が慌てる中で、ただ一人その意を理解した野足は直ちに傍らの者たちに呼びかけた。

「誰か…田村将軍に急ぎ弓箭を供えよ」

「弓と矢は後ほど埋める際に…」

「ならぬ。今すぐ供えるのじゃ」

 棺の中の躰から伸びている太い腕と体の間に、今度はひと際大きな弓が携えられる。

 なるほど画竜点睛を欠くとはこのことである。呂布将軍が方天画戟ほうてんがげきを携えているように、田村将軍といえば確かに弓であった。戦場であれば弓はたいていの兵が持っていたが、その英雄は誰よりも弓と弦を握る姿が様になっていた。それだけこの英雄と弓は切っても切り離せず、帝もそのどこか不完全な姿に声を漏らさずにはいられなかったのだろう。

 これですべてが揃ったと言わんばかりである。さながら東大寺の盧舎那仏るしゃなぶつに眼が描かれ、一気に魂が吹き込まれるようだった。


 その立派すぎるといっていい立ち姿の骸を、帝と老僧は何も言わずまじまじと見上げた。

 野足がその数歩後ろに立ち、さらに後方にその場にいた数十名の官吏が寄せ集まる形になる。その時であった――

「いけませぬぞ」

 帝がはっとした。

「将軍か…将軍なのか?…朕の声が聞こえるか?」帝が声を震わせた。

 誰が何と言おうと、それは将軍の声であった。後ろに控えている役人たちが顔を見合わせる。誰かが何か聞こえたかと囁けば、いや聞こえなかったとまた一人が首を振った。帝は相も変わらず懸命に骸に語りかけている。

 とうとう我慢ならなかったのか、遂には帝の乱心を疑った一人が口を開いた。

「恐れながら御上…我々には何も」

「いえ、聞こえますとも」

 振り向きもせずに役人をいなしたのは、他ならぬ空海上人だった。先ほどよりも、まるで何かに抱き着こうと駆け出す童子のように前のめりな帝を、空海は皺を浮かべた穏やかな目で眺めた。


「いけませぬ。帝ともあろうお方が私を見上げるなど…あってはなりませぬ」

 またしても英雄の低い声が響いた。というよりも帝には、目の前の英雄がそう口にしているように聞こえてならなかった。

「よいではないか。こうしているとあの頃を思い出してしまうのだ…」


 いつからだろう。己が御座の上から見下ろし、田村将軍がそれを見上げて首を垂れるようになったのは…

 つい最近のようにも、はたまた遠い昔のことようにも帝には感じられた。今頭に浮かんでいる光景はそれよりもずっと昔のことである。あの頃まだ六歳だった己には、その巨躯は何倍にも増して大きく見えた。

 いつかは思い出せない過ぎ去りし日のこと。己はこの将軍と内裏の庭に赤々と花開いてそびえ立つ梅の木を見上げていた。

「将軍様は大きいから、梅の花にも手が届きますな」

親王みこ様その呼び方は…。おのれは決して将軍などでは」

「よいではないか。余もいつの日か将軍様のように大きくなるだろうか…」

 あまりに純真無垢な子供の問いかけに、確かあの時の田村将軍はきょとんとしていた。そして一瞬だけ逡巡したのち

「ご無礼を」

「わっ…」

 梅の花が一気に目の前まで迫った。

 否、自分から近づいていたのだ。気づくと田村将軍に担ぎ上げられ、そのがっしりとした肩に跨いでいたのだった。目を丸くして梅の花に見惚れる幼い我を肩に乗せながら、将軍は今にも消えそうな声で「…など」と何かを呟いていた。

「え?」

「いえ…ほんの戯言」

 その時はさながら、今何と言ったのかといったように白々しく聞き返したが、実のところは全て聞こえていた。

「武官など…ほんとうは要らぬのです」

 田村将軍は確かにそう言った。

 何を言っておるのだ。そなたのような者が戦ってくれるから民は安らかに暮らせるのだと、当時の帝にはその言葉がてんで理解できなかった…。

 だが今ならはっきりとわかる。それこそが、この英雄が今日まで弓を握り刀を振るってきた真の理由なのだと――


 五月の平安京はとりわけ涼しかった。路傍に飢えられた木々や、都を取り囲む山々が例年よりもどこか茂っている。しかし普段ならば聞こえてくる緑葉のさざめきや鳥たちの囀りも、この刹那だけは皆が聞こえるはずのない英雄の声に、静かに耳を傾けていた。

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