好きに生きろと言われたので

広川朔二

好きに生きろと言われたので

神谷悠真は、家の中で最も空気のような存在だった。


父・神谷重政は、老舗町工場「神谷精機」の社長。兄・誠司は跡継ぎとして小学生の頃から周囲の大人に「将来の社長」と持ち上げられていた。その隣に立つ悠真は、常に比較され、親戚からも「誠司くんと違って口下手ね」「お兄ちゃんがいるからあなたは普通に働ければいいのよ」と言われて育った。


母の朋美も同じだった。テストで良い点を取っても、「お兄ちゃんの方が運動も勉強もできてたわよ。もっと頑張りなさい」と言い、主役になれるはずの誕生日も誠司の好きな料理、誠司の好きなケーキが食卓に用意されていた。「悠真も好きでしょ?」悪気もなく言う母に悠真は何も言えなかった。


家では兄だけが“息子”であり、悠真はただの「オマケ」として扱われていた。


高校三年の冬。悠真は国立大学の工学部を志望していたが、模試の判定は厳しかった。


「予備校に通わせてほしい」


勇気を出して口にしたその瞬間、父の顔がしかめられた。


「……バカの尻拭いをなんで俺がせにゃならん。金の無駄だ」


「兄さんの受験の時は通わせてたじゃないか」


「誠司は将来、うちを継ぐ人間でしょ。悠真は背伸びしないで身の丈に合ったところに進学すればいいじゃない。」と母が口を挟む。


悠真は唇を噛みしめた。兄は都内の有名私立大の理系学部に進学し、家から月に二十万円の仕送りを受けていた。金銭的に余裕がないわけではないのだ。それに兄の受験の時には予備校だけではなく家庭教師まで付いていた。


一方、悠真は自分で稼いだバイト代で買った参考書を頼りの勉強だ。それでもなんとか地方の私立大学に合格したが、学費が高いと両親から言われ奨学金で進学することになった。


それでも、努力をすれば報われると思っていた。


だが、大学三年の春。帰省して報告に向かった実家で、父から言われた言葉がすべてを打ち砕いた。


「お前には継がせるものはない。うちの家業は誠司が継ぐ。お前は……好きに生きろ」


好きに生きろ——それは自由の宣告ではなく、冷たい追放宣言だった。


その夜、兄は酒に酔いながら笑った。「親父が『あいつには継がせない』って言ってたよ。正しい判断だな」


悠真は、その言葉を心の奥に刻み込んだ。もう、家族として認められる日は来ない。





東京のワンルーム。六畳一間のアパートに、神谷悠真は独りでいた。卒業後、大手企業の面接にはことごとく落ちた。「実家が町工場? ああ、親族経営なんですね」と笑われるたび、心に鈍い棘が刺さった。


結局、入社できたのは、社員五人の零細IT企業。休みも少なく、先輩もすぐに辞めたが、悠真はむしろ好都合だった。業務システムの開発・保守・運用。雑務も全部自分で回すうちに、どんな業務も“できるようになるしかない”状況になった。


「お前、やたら覚え早いな」


唯一の同僚・日下部が言った。


「昔っから何でもできるようにならなきゃいけなかったからかな」


「ま、それが今の力になってるなら“昔”ってのも悪いもんじゃないのかもな」


「だったらよかったんだけどな」


胸に残るチクリとした痛み。だが苦笑いをしながら流せるほどには家族のことは過去のものになりつつあった。


そんなある日、仕事で訪れた町工場で、悠真は懐かしい“匂い”を感じた。油と鉄と埃と、昔、父の工場で嗅いだ匂いだ。そこにあったのは、紙の帳票で在庫を管理し、ベテラン職人の勘で工程を調整する、まるで時が止まったような現場だった。


「これ、全部手書きなんですか?」


悠真の問いに、工場長は苦笑した。


「今さらパソコンなんて無理だよ。機械は動いてるんだからいいじゃないか」


心の奥に、なにかが灯った。この業界には、変わらなきゃいけないものが山ほどある。そして、俺には変えられる武器がある。


悠真は会社を辞めた。日下部と共に、小さな法人を設立した。最初の半年は地獄だった。営業先では「若造に何ができる」と門前払いされ、開発しても売れず、資金はどんどん減っていった。


だがある日、たった一つの案件が転機になった。


「部品加工の機械、調子が悪くなる前に教えてくれるシステムってできる?」


中堅工場の課長が漏らした一言をきっかけに、センサーとAIを組み合わせた“予兆保全”のプロトタイプを作った。それが、大手企業の目に留まった。


そこから先は、転がるように道が開けた。生産ラインの可視化、稼働率の分析、異常検知システム。悠真たちの作る「工場の頭脳」は、旧態依然とした製造業に風穴を開けていった。


そして三年後。


悠真の会社は従業員三十人、資本金一億、資本提携先には上場企業の名も連なっていた。


あれだけ大変だった日々が笑い話になっていたある日。営業担当が持ち込んだリストに、見覚えのある社名があった。


神谷精機。父と兄が守る、あの会社だった。


その社名を見た時に、悠真の中で何かが灯った。ただ蔑まされていた時の無力な自分はもういない。今の俺なら——。


悠真は営業部に神谷精機について調べるように依頼した。


「最近導入した数社が神谷精機と取引があるみたいです」


業界全体でDX化の波が広がる中、悠真の会社が提供する「工程可視化ツール」は圧倒的なコスパで、導入先が急増していた。その中に、父と兄の会社と取引のある工場も含まれていた。


価格競争は激化している。どうやら神谷精機は古い体制のまま、コスト削減に乗り遅れ、納期は遅れがちになり、大手の発注元からの信頼も揺らぎ始めているようだった。


やがて、噂が届いた。


「最近、神谷精機の業績が悪化してるらしい」

「兄貴が社長になったけど、無能だって話だ」


悠真は、家族の顔を思い浮かべた。そこには家族を心配する感情は微塵もなかった。ただ、口の端が吊り上がるのを堪える気はなかった。





半年後。

神谷精機は、経営改善のためのITシステム導入を決定。

取引工場の紹介で、コンサルティングを依頼した先——それは、悠真の会社だった。


「こちらの案件、現地訪問をお願いします」


部下に言われ、悠真は久しぶりに“あの場所”に足を踏み入れた。懐かしい油と鉄の匂い。変わらない古びた工場。出迎えたのは、白髪の混じった父と、スーツの似合わない兄だった。


「……お前が社長なのか」


父はそう言ったが、目にあったのは驚愕と、わずかな焦りだった。


「どこもかしこもお前のとこのシステムを使ってる。な、家族だろ。お前もこの工場の再建に協力してくれよ」


兄は焦ったように言った。


——俺のことを救世主とでも勘違いしているのだろうか。


呆れた感情を表にださないよう、能面のような顔で悠真は静かに一礼し、用意していた資料を開いた。


「まず、現状の問題点を確認します」


業務フローの非効率性、工程の属人化、在庫管理の不備……。淡々と指摘するたびに、父と兄の顔が強張る。


「……で、導入には、どれくらい費用がかかる?家族なんだし割引、いやタダでの導入はどうだ?ほら、導入事例とかああいうのに使っていいからさ。何って言うんだ、モデルケース、みたいな」


悠真はわずかに笑った。


「そうですね。特別価格でご提案しますよ。過去、私に投資されなかった分を、回収するだけの特別価格です」


空気が凍りついた。


「……何様のつもりだ」


父が絞り出すように言った。


「はっ、“継がせるものはない”と言われた息子の、なれの果てですよ」


悠真は言葉を投げ返した。あの日と、まったく同じ響きで。


交渉は決裂した。父と兄は、プライドを捨てきれなかった。システム導入を断った代償は重かった。数ヶ月後、神谷精機は主力取引先をいくつも失い、資金繰りが悪化。倒産寸前まで追い込まれたところで、悠真は最後の一手を打った。


「買収を検討しています」


社外取締役を通じて、メッセージを送った。


救済ではない。買収——それは、主従を逆転させる宣告だった。


資金繰りに詰まった父と兄は、銀行からの信用を失い、資本提携を装った実質的な譲渡契約を締結するしかなかった。


ある朝。


新しい経営体制の説明会が、神谷精機の小さな会議室で開かれた。悠真はスーツ姿で登壇し、十数名の従業員たちに向かって語った。


「これからは、“誰かの家業”ではなく、“みなさんの会社”として再建します」


拍手が起こる中、後方に立つ父と兄の姿は、まるで“部外者”のように見えた。


式の後。悠真は社長室だった部屋——かつて父の城であり、幼い自分には決して入ることを許されなかったその空間に、初めて堂々と足を踏み入れた。


そこには、父と兄が待っていた。


「お前が……すべてを奪うのか」


父の声には、怒りではなく、もはや疲弊しかなかった。


「奪ったんじゃありません。いただいたんです。“継がせるものはない”と私を捨てたのはそちらです。そんな相手が救うはずないでしょう」


悠真は静かに答えた。


兄が机を叩く。


「ふざけるな! 俺がどれだけこの会社を支えてきたと思ってるんだ!」


悠真は、それを嘲笑う。


「“バカの尻拭いをなんで俺がせにゃならん”……覚えてますか、父さん」


言葉の一語一句を、彼はそのときと同じ口調で返す。父の顔が歪む。


「……言ったかもしれない、でも、親なんだぞ。家族なんだぞ……!」


悠真は、それに答えなかった。ただ、一枚の紙を差し出す。退職届。二人の名前が印字された書式に、悠真があらかじめ印鑑を用意していた。


「この会社にあなたたちの居場所はありません。家も、会社所有の社宅扱いですから、明け渡してもらいます」


父の顔が青ざめた。兄は震えながら唇を噛みしめた。


それでも悠真は、涙一つ見せなかった。

これが、積み上げてきた答えだった。


数日後、神谷家のかつての邸宅には「売却済」の札がかかり、両親と兄は、郊外の古びた賃貸住宅へと移った。母はパートを始め、兄は再就職に苦しみ、父は小言ばかりを繰り返していたという。


一方、悠真の会社となった旧神谷精機は新しい社名で再スタートを切った。


会社の理念には、こう書かれていた。


——誰かに否定されても、自分で自分を証明できる世の中を。


高層マンションの自室から、街の光を見下ろしながら、悠真はふと思った。


あの家で過ごした十数年がなければ、自分は今ここにいなかった。だが、もうあの場所に戻ることはない。復讐の果てに残ったのは、誰かを叩き潰した快感ではなく、“自分の人生を取り戻した”実感だった。


「好きに生きるさ」


誰に向けたでもないその言葉を、小さく呟いた。そして彼は、過去に背を向けるように、窓のブラインドをゆっくりと閉じた。

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好きに生きろと言われたので 広川朔二 @sakuji_h

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