復讐は、一度きりの魔法で

色野仄

復讐の、一度きりの魔法で


「おい、次は“飼い犬”らしく這いつくばって取れよ」


教室の隅。放課後直前の空気に満ちた中、乾いた笑い声が響く。

結城颯人が蹴り飛ばした蓮のノートが床を滑り、黒板の近くまで転がった。


「……はい」


望月蓮は立ち上がり、誰の目にも映らないように素早く歩き、ノートを拾った。机の下に身体を潜らせるようにして手を伸ばす。

その姿を見て、周囲から笑いが漏れた。


いつものことだった。

教師は見て見ぬふりをし、クラスメイトは沈黙を守る。誰もが自分の立場を守るのに必死で、誰も助けようとはしない。


蓮は、何も言わない。言葉を飲み込むのは、呼吸と同じくらい自然なことになっていた。


     * * *


放課後、蓮は教室を飛び出すように出て、階段を下りた。

行き先は図書室。

学校でただひとつ、彼が「自分でいられる」場所だった。


「望月くん、また来てくれたのね」


静かな声で出迎えてくれたのは、水城沙耶。

図書室の司書であり、蓮が唯一、心を許せる大人だった。

彼女は眼鏡の奥で微笑み、いつものように貸出カウンターに座っている。


蓮は黙ってうなずき、いつもの席へ。

水城先生の近く、窓際の一角。

本を開く。読み進めることはできない。

ただ、ページをめくる手の感触が、少しだけ自分を現実から遠ざけてくれる。


     * * *


帰り道。

日が暮れ、校門を出たときだった。

蓮のスマホが突然振動した。


画面には、見慣れない通知が表示されていた。


【魔法使用:未使用】


意味がわからなかった。

通知履歴を見ても、アプリにも表示されない。

何度確認しても、そのメッセージだけが繰り返される。


その日から、毎晩夢に現れるようになった。

黒いフードの男。顔は見えない。声もどこかこもっている。


『お前は選ばれた。魔法を一度だけ、使うことができる』


『望む“結果”をひとつ、現実に変える。ただし、代償は語られない』


奇妙な夢にすぎないと思いたかった。だが数日後、本当にその男が現実に現れた。


     * * *


土曜日の帰り道、商店街の脇道。

ふと横を見ると、黒いフードの男が立っていた。


『お前は、もう“選ばれている”』


男は、そう言って蓮の手を取った。冷たい。人の手とは思えなかった。


『一度だけ。お前が強く望む“結果”を叶えよう』


蓮は迷った。怖かった。

けれど、そのとき浮かんだのは、結城の笑い顔だった。

何度も、何度も、自分を踏みつけてきたあの顔。


「……結城を、二度と人を傷つけられないようにしてくれ」


その瞬間、男の手が熱を帯びた。

次に目を開けたとき、蓮は自室のベッドの上にいた。

夢だったのか、それとも——。


     * * *


月曜日。

結城は学校に来なかった。

火曜日も、水曜日も。

担任は「体調不良だそうだ」と言ったが、クラスにはすぐ噂が広がった。


「精神科に運ばれたらしい」

「なんか、家で暴れたって」

「記憶がなくなったとか……」


どれも真偽は不明だったが、蓮には分かっていた。  魔法は——本当に、発動したのだと。


クラスの空気は、驚くほど静かだった。

いじめはぴたりと止んだ。

皆が蓮を避けていたが、それは「無関心」ではなかった。

「恐れ」が混じっていると、彼は感じていた。


——自由になれた。


そう思った。

ようやく、呼吸ができるようになった気がした。


     * * *


それから一週間後。


図書室に入ったとき、水城先生が呼び止めた。


「蓮くん、少し話せるかしら」


彼女は、慎重に言葉を選ぶように話し始めた。


「結城くん……入院しているらしいの。でもね、彼、誰のことも覚えていないそうなの。ただ……」


水城先生は少し声を落とす。


「“望月蓮”って名前だけを、ずっと繰り返しているって」


蓮の背中が凍りついた。


     * * *


その夜。帰宅途中の橋の上。

川の流れの音を背に、あの男が再び現れた。


『よくやったな。お前の望んだ“結果”は叶った』


蓮は口を開く。


「あれは、どういうことだ」


『お前の願いは“人を傷つけられなくする”ことだった』


『だから、結城の“悪意”を取り除いた』


『そして——代償として、それをお前が引き受けた』


頭の奥で何かが軋んだ。

体の奥底がざわめき始める。

理解が追いつかない。

だが、直感は告げていた。


これは、呪いだ。


     * * *


翌朝。

目覚めたとき、嫌な夢の感触が残っていた。

自分が、誰かを殴っている夢だった。


学校に着き、廊下で後輩と肩がぶつかった。


「……どこ見て歩いてんだよ」


低い声が、自分の口から漏れた。


後輩が怯えた顔で謝る。



その顔を見て、ぞくりとした。

それは、結城が自分に向けていた“あの視線”と、まるで同じだった。


     * * *


放課後。

図書室でも落ち着かない。

本を持つ手が震えている。


水城先生が心配そうに声をかける。


「望月くん……最近、少し変わったように見えるわ」


蓮は何も答えられなかった。


心の奥に、黒い塊がある。

それは日ごとに大きくなっていく。

誰かを見下し、怯えさせ、支配したいという衝動。


そうだ。

これは、あいつの“悪意”だ。

俺が引き受けた……はずの、感情だ。


     * * *


蓮は気づいていた。

自分が、少しずつ変わっていくことに。

感情が制御できない。

すぐに怒りが湧く。声を荒げてしまう。


最初は「自分を守るため」だった。

でも今は違う。

怯える目を見るたび、心がざわつく。胸の奥が、熱くなる。


そうやって、ゆっくり、ゆっくりと、 蓮は“あちら側”へと染まっていった。


——結城と同じ場所へ。


     * * *


夜。鏡の前。

自分の顔を見て、蓮は気づく。


微笑んでいる。

ほんのわずかに、口元が吊り上がっている。


「……これが、代償か」


呟いた声は、どこか他人のもののようだった。


悪意は、消えない。

ただ、持ち主を変えるだけだ。


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