第45話 英雄の終わりと、騒がしくも幸せな

 帝都を揺るがした未曾有の内乱は、皇弟殿下と軍務大臣の死をもって、ようやく終結した。

 全ては、表向きには帝国軍元帥の見事な采配によるもの、ということになっている。


 俺たち「ナイトオウル」の存在は、再び歴史の闇の中へと静かに葬り去られた。

 だが、それでいい。

 それが俺たちの望んだことだ。


 数日後。

 俺は帝都の夜景が一望できる元帥府の執務室に一人、招かれていた。


「君たちがいなければ、この帝国は今頃、内側から腐り落ちていただろう。改めて礼を言う、レイド・アシュフォード。いや――元ナイトオウル隊長殿」


 月光を背に立つ、アークライト帝国軍元帥。

 その顔には、最高権力者としての威厳と、一人の人間としての深い疲労の色が浮かんでいた。


「君の望み通り、カフェの再建費用と、これまでの全ての功に対する報奨金は匿名で用意させた。それに加えて、だ。もう一度、私の下で働いてはくれんか? 帝国再建のため、君のその力が、私には必要なのだ」


 元帥の瞳は真剣だった。

 だが、俺は静かに首を横に振る。


「謹んでお断りいたします。俺の戦いは、もう終わりました。これ以上、誰かの血を見るのも、その匂いを嗅ぐのも、もうごめんです。俺は、ただのカフェのマスターに戻ります」


 俺のきっぱりとした言葉に、元帥は一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、やがて諦めたように微笑んだ。


「……そうか。君らしい答えだな。分かった。だが、覚えておいてほしい。帝国は、君という英雄がいたことを、決して忘れない」


「英雄、ね。柄じゃないですよ」俺は肩をすくめた。「それより、二人の少女の未来について、お約束いただけますか」


「無論だ」元帥は力強く頷いた。「リゼット嬢については、アストリア旧領との融和の象徴として、その地位と尊厳を帝国が正式に保証する。彼女が自らの意志で、平和に生きる道を選択できるよう、私が責任を持って環境を整えよう。彼女はもう、誰かの政争の道具ではない」


「ミア嬢も、私から月影族の保護と、その知識の研究支援を申し出たのだが……断られてしまってな」元帥は困ったように笑う。「『この力は、ミルウッドで、私を救ってくれた人々のために使いたいのです』と。あの子も、君に似て、随分と頑固なようだ」


「そうですか。なら、安心しました」


 仲間たちが、それぞれの未来を、自らの意志で選び取っている。その事実が、何よりも嬉しかった。


「最後に一つだけ、レイド」元帥は、執務室の窓から帝都の夜景を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。「君のカフェが再建された暁には、私も一度、客として訪れてもいいだろうか」


「ええ、最高のコーヒーを淹れてお待ちしていますよ」


 こうして、俺の戦いは、本当に終わりを告げたのだった。


◇◇◇


 帝都での後処理を全て終え、俺たちがミルウッドの町へと帰り着いたのは、それから一週間後の、よく晴れた秋の日のことだった。

 主要街道から外れ、見慣れた森の小道へと入る。

 木々の隙間から差し込む柔らかな日差しが、俺たちの疲れた身体を優しく包み込んでくれた。


「……帰ってきた、のですね」


 アリアが、感慨深げに呟く。

 その声には、安堵と、そして少しの寂しさが混じっているように聞こえた。


 町の入り口にたどり着くと、そこには信じられない光景が広がっていた。

 ボルック村長、ヘイゼルおばさん、自警団のゴードン、そして、見知った顔、顔、顔……。

 町の住民たちが、まるで俺たちの帰りをずっと待っていたかのように、勢ぞろいで出迎えてくれたのだ。


「おかえり、レイドさん!」

「アリアちゃん、無事で良かった!」

「みんな、よく帰ってきた!」


 割れんばかりの歓声と、温かい拍手。

 ヘイゼルおばさんが目に涙を浮かべながら俺たちを一人一人抱きしめ、ゴードンはぶっきらぼうに「心配させやがって」と頭を掻いている。

 リゼットは、その光景にただ圧倒され、呆然と立ち尽くしていた。

 俺も、仲間たちも、ただ「ありがとう」と繰り返すのが精一杯だった。


 俺たちが守ろうとしたこの町が、今、俺たちを温かく受け入れてくれている。

 その事実が、何よりも大きな報酬だった。


◇◇◇


 温かい出迎えの後、俺たちは焼け落ちたカフェの跡地へと向かった。

 そこは、黒い炭と、瓦礫の山があるだけだった。

 風が吹くたびに、灰が舞い上がる。

 かつての、あの穏やかな空間の面影はどこにもない。

 分かっていたことだが、改めて目の当たりにすると、胸にぽっかりと穴が空いたような、どうしようもない喪失感に襲われた。


 俺が、その場に立ち尽くしていると、背後からゴードンの野太い声が飛んできた。


「おい、レイドの旦那! いつまで黄昏れてやがる! 感傷に浸るのは、新しい城が建ってからにしな!」


 振り返ると、ゴードンを先頭に、町の男たちが次々と資材や大工道具を担いで集まってくるではないか。


「俺たちに任せとけ!」

「あんたには、世話んなったからな!」

「今度は俺たちが、あんたの力を貸す番だ!」


 ボルック村長が、新しい店の設計図らしきものを広げ、ヘイゼルおばさんたち女性陣は、山のような差し入れを手に、にこやかに微笑んでいる。

 それは、もはや「手伝い」のレベルではなかった。

 町ぐるみでの、一大プロジェクトだ。


 その日から、新しい「木漏れ日の止まり木」の再建が始まった。


 男たちの威勢のいい掛け声、木材を打つリズミカルな音、そして、子供たちの楽しそうな笑い声。

 瓦礫の山だった場所が、少しずつ、だが確実に、新たな命を吹き込まれていく。


 俺も、アリアも、仲間たち全員が、泥と汗にまみれながら、その輪に加わった。

 失われたものを取り戻すのではない。

 みんなで、新しいものを、一から創り上げていく。


☆☆☆


 再建作業が始まって数週間が経った、ある日の夕暮れ。

 屋根の骨組みもだいぶ出来上がってきた頃、俺はアリアと二人、少し離れた丘の上から、新しいカフェの姿を眺めていた。


「……マスター。わたくし、夢を見ていたのかもしれません」


 アリアが、ぽつりと呟いた。


「帝国騎士団の副隊長として、ただマスターの背中を追いかける毎日。それが、わたくしの全てでした。でも、今は……」


 彼女は、夕日に照らされた新しい店の骨組みを、愛おしそうに見つめている。


「マスターが守ろうとしたこの場所で、マスターの隣に立って、同じ景色を見ている。それが、こんなにも……温かくて、幸せなことだなんて、知りませんでした」


 彼女の横顔は、夕陽を浴びて、燃えるように美しかった。

 俺は、心の奥底から込み上げてくる、どうしようもない感情を、もう抑えることができなかった。


「アリア」


「はい、マスター」


「……俺と、結婚してくれないか」


 我ながら、あまりにも不器用で、気の利かない言葉だったと思う。

 だが、それが、今の俺に言える、精一杯の言葉だった。


 アリアは、一瞬、大きく目を見開いた。

 そして、次の瞬間、その大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。


「……ずるい、です。マスター」


 彼女は、涙で濡れた顔で、これまでで一番美しい笑顔を浮かべた。


「その言葉は……わたくしから、言おうと思っていたのに」


 そう言って、彼女は俺の胸に、強く、強く飛び込んできた。

 俺は、その華奢な身体を、もう二度と離さないと心に誓いながら、しっかりと抱きしめた。


☆☆☆


 それから、数年の月日が流れた。


 ミルウッドの町の外れにある新しい「木漏れ日の止まり木」は、以前よりも少しだけ広く、そして温かい光に満ちた場所として、すっかり町に溶け込んでいた。


「パパー! だっこー!」


 カウンターで豆を挽いていた俺の足元に、小さな赤い弾丸が飛びついてきた。

 アリア譲りの鮮やかな赤毛を揺らし、俺の碧眼を受け継いだ、二歳になる俺たちの娘だ。


「はいはい、おいで」


 俺は娘をひょいと抱き上げた。

 きゃっきゃ、と響く娘の笑い声が、店内に満ちていた。


「もう、あなた。お客様がいらっしゃるのに」


 俺たちの様子を、妻となったアリアが、優しい眼差しで見守っている。

 その表情は、かつての騎士としての厳しさは鳴りを潜め、穏やかで、慈愛に満ちた母親のものだった。


 店内に目を向ければ、そこには見慣れた顔ぶれが揃っている。


 カウンターの隅では、森から遊びに来たリリスが、静かにハーブティーを飲んでいる。

 テーブル席では、休暇で帝都から訪れたノエルが、相変わらず片眼鏡の奥で楽しそうに分厚い本を読んでいた。

 店の奥の小さな診療スペースでは、今や町の人々からすっかり頼りにされるようになった薬草師のミアが、ヘイゼルおばさんの膝の痛みの相談に乗っている。


 カラン、とドアベルが鳴り、一人の女性が入ってきた。

 すっかり気品と落ち着きを増し、凛とした美しさを湛えたリゼットだ。

 彼女は、アストリアの民と帝国の架け橋として多忙な日々を送っているが、こうして時折、お忍びで俺たちの元へ帰ってくる。


「ただいま、レイド、アリア」


「おかえり」


 店内にいる全員が、当たり前のように、彼女を温かく迎える。

 その光景を眺めながら、俺は、また新しいブレンドのコーヒーを淹れるために、豆を挽き始めた。


 かつて俺が夢見た、静かで穏やかなスローライフ。

 それは、結局手に入らなかった。

 今の俺の日常は、娘の元気な声と、仲間たちの賑やかな笑い声に満ちている。


 騒がしい日々。


 だが、それでいい。いや、これがいい。

 俺が手に入れた、この騒がしくも愛おしい「家族」との時間。

 これこそが、俺が命を懸けて守り、そして手に入れた、新しい「宝物」なのだ。


 窓の外では、木漏れ日が、キラキラと地面に揺れている。

 俺は、心からの穏やかな笑みを浮かべた。


 願わくば、この日々が、いつまでも続きますように。

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早期退職(FIRE)した元・帝国最強騎士のおっさん(35歳)、田舎でカフェを開いたら元部下(美女揃い)が押しかけてきてスローライフ完全崩壊のお知らせ 河東むく(猫) @KATO_Yuumin

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