第4話 回転
私の書いた小説のドラマ化の話から数か月。私はテレビ局に来ていた。小説のドラマ化にあたって、小さな打ち合わせや書面やオンラインツールでのやり取りなどは何度も行われて、やっと今日、出演や関係者一同の顔合わせだ。
テレビ局の会議室のドアの前で、私はドアノブを握ったまま立ち止まっていた。
ドア越しに話が盛り上がっている事がわかるほど声が漏れている。
握りこんだ鉄の棒に手汗がしみこむんじゃないかと思うほどに汗をかいている。それは、ドア越しに、よく通る、ステージ上で何度も聞いたあの声が零れて、私の耳に駆け上がってきていたからだ。
作家のわがままなんて通らないと思っていた。だが、大塚さんと打ち合わせと称して飲みに行った居酒屋で、酔ってしまった私は、作品の根幹にあるバンドの事を熱弁してしまった。どうにかドラマの主題歌にはそのバンドを使ってほしい。そうじゃないならドラマ化なんてしないでくれ、などとアルコールが回って真っ赤になった顔で言っていたのは覚えている。インディーズバンドですし、色んな会社が絡んでくるので難しいと思いますけどね、いうだけ言ってみますなんて返されて、それに対して何か喚いたことは覚えているが、翌日痛む頭と、胃液がこみあげてくる二日酔いの身体をトイレに引きずりながら、激しい自己嫌悪と後悔の中で思い出しても後の祭りだった。
それから二か月ほどたって、大塚さんから電話が来た。苦労しましたよ、なんて言いながら、あのバンドが主題歌を歌うことになったとの報告だった。
うれしいやら恥ずかしいやらで、また浴びるようにお酒を飲んで、にやにやと笑いながら壁に向かって初めましての挨拶の練習をした。
そして今日、ドラマ化にあたっての顔合わせというものに呼ばれ、来た次第だ。
昨日、美容院に行って、髪の毛を整えてもらって、ご丁寧にトリートメントまでしてもらった。滅多にしない高いパックなんてしてから寝て、朝からいつもの何倍もの時間をかけて化粧をした。普段は線を引くだけの眉毛は、書いては消してで20分もかかった。店員にすすめられるがまま買ったかわいらしい小花柄のワンピースまで着ている。
腕時計を見ると、さっさと入らないと遅刻してしまう時間だった。もう扉の前で5分も息を整えている。先ほどから、廊下を通る局員が、何をしているんだとチラチラと横目で見ては何人も過ぎ去っていた。
私は一思いに息を吸い込むと、ゆっくりとドアノブに力を込めて押し出した。
扉が、開いた。
ブラインドの隙間から日差しが観葉植物に当たって、きらきらと輝いている。
蛍光灯の光と混ざり合って、瞳孔がすべての光を吸収するかのように、目の前が明るく感じた。目を凝らして、室内をゆっくりと見渡す。
――彼がそこにいた。
「お疲れ様です、後藤先生」
大塚さんが話を切り上げて駆け寄ってくる。普段の服装を知っているからか、気味が悪いほど着飾った私に、口元が少しニヤついている。だが彼女は優しい。そんな事に対して、指摘をしたりはせずに、私が座るべき椅子側に手をかざした。
「じゃあそろいましたし、始めましょうか」
テレビ局の人と思しき方が号令をかけた。
私はあわてて座ると、顔合わせとやらが始まった。
官能小説の実写化ということもあって、ものすごく有名な役者さんというわけではないらしいが、作品のタイトルは知っている舞台などに出ていて根強いファンが居るらしい役者さんや、書店の雑誌コーナーで水着姿を見た事があった気のする女優さんなどが次々に挨拶をしていった。皆口をそろえて、精いっぱいがんばります、だとか、ファンの居る作品なので期待に添えるように力をつくしますだとか言っている。
挨拶を聞いているふりをしながら、目の前の彼を視界の隅で追う。まじめな顔をして、挨拶にうんうんと首を縦にふりながら耳を傾けている。
「では次は、ashのマサさん、お願いします」
「あ、ありがとうございます。えー、今回お声かけいただきまして、正直自分らみたいなバンドが歌わせてもらえるなんて思ってなかったんですけど、でも、ちゃんと読んで、自分なりに歌詞書いたんで、あってたらうれしいです。ヒットすることを願ってます」
ちゃんと読んだ、と彼が言った。そして彼は座る前に、ちらりと私に視線を向けた。
おなかの底から冷たいものが上がってくる。舞い上がって頭からすっかり抜けてしまっていた。大塚さんがどのように人を説得したかわからない。だがもし、私が強く要求して、バンドを起用してもらった事も含めて本人に伝わっていたら。
きっと、この作品のモデルは彼だと、わかってしまう。
気づかれれば、彼は私を痛い女だと思うだろう。彼との情交を妄想して、あまつさえそれを紙に書き起こし、世間に広め、それでお金まで得てしまっている。自慰行為を世間に晒しているにすぎない、浅はかな女だと。
「それでは次に後藤先生、お願いします」
「は、はい。映像化してもらえて光栄です。最後まで、よろしくお願い致します」
真っ白な頭で、うつむきながらそれっぽいことを言うことしかできなかった。これ以上は言えず、脱力したように椅子に座りこんだ。周りは慣れているのか、それ以上の事は求めずに、次の人への紹介に回った。
口から内臓の全てを吐き出さんばかりに心臓が跳ねている。
指先が震える。別に、マサさんとどうこうなりたいなんて思っていない。思っていないから別にどう思われても良いはずだ。いや、どう思われてもいい女は、こんな格好をしてこない。明らかに私は期待していて、よく見られたいとまで思っていて。ぐるぐると頭の中でいろんなことを考えている。逃げ出してしまいたい。今すぐにここから立ち去ってしまいたい。ああでも、目の前の人をまだ眺めていたい。二律背反の感情で、どれが本当かわからない。
「それでは皆さん、よろしくお願いいたします」
声と共にそれぞれから打ち出される拍手で我に返り、慌てて両の手を打ち付ける。
顔合わせは終わっていたらしかった。
「後藤先生、いいですか」
大塚さんが私に耳打ちした。
「実はashのマサさん含め、主演のお二人と脚本家さんと監督さんとスタッフさんやマネージャーさんたちで、この後食事をセッティングしてあるんです」
「えっ!」
濁った大声が、自分で思っていた何倍もの声で喉から飛び出た。
あたりの視線があつまり、私の身体を突き刺した。周りはきちんとした大人たちだ。すぐに何事もなかったかのように自分の行動に戻っていったのがせめてもの救いだ。
「局のほうが、ほら、色々他局で事件があったもので、原作遵守で行きたいと言ってくださってまして。食事会を、という話にはなってたんですけど、そこにマサさんも同行することに今朝なりました。こちらから伝えるのが遅くなってしまい大変申し訳ないのですが、この後あいてますか?」
「はい……大丈夫です」
べたついた汗が額に滲んで、ファンデーションが顔から浮いてひどい顔になっていると思う。
大塚さんに従って、予約してあるという個室の料理屋に向かうために脚に力を込め、ドアへと向かおうとすると、後ろから、幾度となく聞いた、マサさんのあの声がした。
「ご挨拶が遅れてしまいすみません。はじめまして、後藤先生」
「は、はじめまして」
浮かび上がりそうになる手をおさえつけて、とにかく冷静なふりをした。酔ってシュミレーションした挨拶では、笑顔で愛想よくするはずだったのに、そんなものは緊張の濁流で一気に流れ、意識の遥か彼方へ流されていて行ってしまっていた。
「先生もこの後ご一緒だと聞きました。なんか、自分も行っていいんですかね」
大塚さんははなから、私も一緒に行くと踏んでいたらしい。断る理由は無いが、大塚さんの手のひらの上で転がされている気がして、少しだけ悔しい。
「あ、私みたいなのも行っていいみたいなので、その、大丈夫だと思います」
「いや、先生は原作じゃないですか」
「まあ、そう……ですね」
人見知りと憧れがごちゃ混ぜになって、粘土みたいに固まった返答に、見かねた大塚さんが助け舟を出した。
「なるべく様々な業界の方とお話していただければ、その分双方の良い刺激になるかなとおもいましてお呼びさせていただいたんです。どちらも、インスピレーションがあればあるだけいいお仕事かと思いまして」
「ああ、なるほど。お気遣いいただきありがとうございます」
人を乗せるのが上手い人だとは思っていたが、大塚さんはやはり口が上手い。私もこうやって言いまわすことができれば、この人にもう少し好印象を与えることができたのだろうか。
「じゃあ行きましょうか」
大塚さんが先導を切って、みんなでぞろぞろと会議室を出る。
ステージ上で見るよりも大きく感じるマサさんの背中を、目に焼き付けながらついていった。
食事会では、いろいろな料理が出た。何が出たかも、どんな味がしたかもあまり覚えていない。飲みすぎないようにと気をつけながら、レモンサワーを口に含んでは、喉を潤すためだけに飲んでいた。脚本家の方から、この時の主人公はどうしてこう言ったんですか、だとか、ここの体位がちょっとわかりにくいんですけど先生はどういう風な体位で考えてたんですか、なんて聞かれているのが、描写が稚拙なことを指摘されているような被害妄想を抱えながらも、必死に説明した。
マサさんの目の前で、自分の書いたものを必死に説明する姿は、自分の自慰を本人に見せているようで恥ずかしくて、滑稽だったと思う。
脚本の志田さんは、何度も小説を読み返してくれたと言っていた。男性に比べて、女の性欲の行き先となる作品があまりない中で、ちゃんと濡れる作品だったとも言ってくれた。監督の吉谷さんと一緒に、コンドームを付ける描写は、写せないけどどうにか表現したいだとか、主人公に痛くないか聞く所はあくまでも自然に、それでいて重要な会話だからわかりやすいように表現したいだとか。ドラマでの映像化だから、直接的な性描写に限りはあるけど、限界までは伝えたいだとか。お酒も結構入っていたからか、それはもう、熱弁してくれた。私はどもりながらも必死に応えて、よろしくお願いしますと何度も言った。
結局ほとんど志田さんや吉谷さんと話すばかりになった食事会も終わり、店から出て、タクシーを待つ。冬の空気が肺に急激に入り込んできて、身体の芯まで急速に冷えていく。頭がすっきりすると同時に、タバコを早く吸いたいな、なんて思いながら、冷え切った空に浮かぶ星空に目をやった。今日の事を、私は一生忘れない。何度もチラチラと眺めたマサさんの輪郭も、夜になってほんのりと浮かび上がってきていた太い毛の髭も、全部忘れない。いい夢だった、なんて思いながら。
これからもライブに行こう。ひっそりと、こっそりと。
これからもファンとして。数多のうちの、一人として。
店の前に目をやると、まだタクシーに乗り込んでいない人たちが、ところどころ団子のようになって話している。向こうは向こうで、別件の仕事の話か、次の仕事の話なんかで盛り上がっているのか、私は輪に入れずあぶれたままだ。
邪魔をしないように少し外れたところで、呼んだタクシーを待つふりをしながらあたりを見渡す。すると、同じように手持無沙汰にしていたマサさんがポケットに手を入れたままゆっくりと近づいてきた。
「お疲れ様です。さっきも言ったんですけど、小説、読みました。俺、官能小説ってあんまり読んだことなかったんですけど、読みやすかったです」
「あ……ありがとうございます」
マサさんの切り出し方に、嫌な予感がした。
普段は、画面の前で一人でずっと原稿を書いているか、慣れ親しんだ漫画の製作チームだとか、大塚さんだとか、限られた生活区域と、限られた人間関係の中で生きていて、こんなに新しく沢山の人と話す日は久々だった。アルバイトをしていた時以来かもしれない。
だからすっかり頭から抜け落ちていた。
マサさんに、バレている可能性を。
マサさんの影が、私の顔に落ちるほど近づいた。
「こんなことをいうのは失礼かなと思ったんですけど」
彼はあたりに聞こえないように私の耳元に顔を寄せると、小さな声で言葉をつなげた。
「似てますよね、彼。俺に」
アルコールでほてっていたはずの顔から、一気に血の気が引いた。
それはそうだ。わからないはずがない。今回映像化する作品に出てくる人の特徴が、あまりに似すぎている。パーマのかかった髪、ゴールドの細いチェーンのネックレス。均整はとれているが、がっしりした身体。上がり眉に、たれ目。もちろん、他にも似たような人は沢山いる。現に、今回起用された役者さんだって、まったく顔も雰囲気も彼とは違うが、字に起こしたときの特徴は一致している。
ただ、彼は私に確信を持って言った。起用の際にファンだと伝わっていたのか、今日の私の視線や動きでわかったのかはわからない。
わからないが、事実として、彼にはすでに気づかれている。
「いえ、あの……」
「違いますか」
うろたえる私に、歌っている時と変わらない、愚直な程にまっすぐな目が私に問いかけた。その目は、彼にどうにかして嘘をついてこの場を濁す勇気さえ削ぎ落した。
彼は聡い。他のバンドとのライブのMCなどで会話をする姿を見て薄々と思っていたが、彼は空気を読むのが上手いのだと思う。周りが求めているものが本能的にわかっていて、それに従うか、それともあえて無視するかさえも瞬時に決められるほどに。いや、それ以上に私の書いたものはあまりにも、わかりやすすぎる。幾重にも、隠し通せない理由が重なって、足が震えて、目の奥がツンと痛んだ。
「ごめんなさい」
掠れた声で、もう遅い謝罪の声を吐き出した。
彼の整えられて、勢い良く上がっているはずの眉毛が、困ったように一瞬下がった。
「あ、いや。そういうのじゃなくて」
彼は続けた。
「バンドマンも自分の周りの事とか、彼女の事とか歌詞にするんで、悪いとか思ってないです。大丈夫」
彼の手が、そっと私の両肩に触れた。彼を見上げると、ピンと私の首の前の皮が張り詰めた感じがした。ステージを下から見るのではわからなかった、20センチ程の身長差のせいだ。
「答え合わせしてみますか」
「答え、合わせ……」
思わぬ言葉にオウム返しをして、何秒か目を閉じるのを忘れた。あわてて何度も瞬きをすると、行き場をなくした視線を右往左往させて、言われた言葉を消化しようと、脳みそが躍起になって回転する。
シたい。彼に抱かれたい。彼とセックスがしたい。喉から手が出るほど、彼との情事を夢見た。取りつかれたように妄想した。一晩だけでいい。たった一度でいい。彼とシたい。今すぐシたい。頭の中が、そればかりでいっぱいになった。
「は……」
承諾をしようと口が勝手に動いた。
だけど、私は手でそれを塞いだ。
彼が不思議そうに眉間に少しだけしわを寄せた。
「……今日は、何も準備をしてないので、また今度でも、いいですか」
鈍った思考で思いついたそばから吐き出した、とぎれとぎれの言葉でそう告げる。
彼は察したように、わかりました、今度連絡くださいと言いながら、スマートフォンを差し出して、メッセージアプリのQRコードを差し出した。
彼もそれなりの年齢のはずだ。別に経験も浅いわけじゃないだろう。月経だとか、本当にボディメンテナンスができていないだとか、女性特有のあれやこれやのできない理由をわざわざ聞いてくるような、無粋な真似はしなかった。
QRコードを読み取り、一つだけスタンプを押して、無事にやり取りができることを確認し、別々のタクシーへと乗り込んだ。
家に帰って、布団にもぐりこんだ。
ぞわぞわと、興奮がつま先からせりあがってくる。
何度も妄想した彼とのセックスが、現実になるかもしれない。そう思っただけで、私の奥はすでに濡れそぼっていた。
目を閉じ、彼の匂いや、体格や声を鮮明に思い出す。
もう何年も男性に抱かれていない身体を慰めるために買った、血管の浮き出たディルドを、ベッド下の箱から取り出そうと、下着を脱いで手を伸ばした。
ふと、目の前の本棚に視線が行った。
他の本と混ぜたくない本を置くために買った、一つの本棚。
朝目が覚めたとき、一番に目に入るその本棚は、私の書いたものだけを入れるための本棚だった。
この本棚がいっぱいになるまで、書ければいいななんて思って買った本棚は、まだ何列も空きがある。
またとないチャンスだ。ずっと想っていた彼に抱いてもらえるなんて。
だけど私は、彼に抱かれた後にも、同じように書けるだろうか。
現実のセックスなんて、散々だったじゃないか。期待して挑んだ初めてのセックスも、上手いと自称していたマッチングアプリの男とのセックスも、すべて肩が冷えてしまうセックスだったじゃないか。
やっと手にした作家という肩書。しがみついて、もがいてあがいて、それでもなんとか得た肩書だ。もうタバコもカートンで買える。アルバイトをしなくても、書いていられる。読みたいと思った本が中古になるのを待たなくても買えて、水曜日じゃなくても映画館に行ける。
それを手放してまで、する程の価値はあるのだろうか。
私はディルドに伸ばした手をひっこめた。
すっかり冷え切ってしまったおしりを温めるように、脱いでいた下着をあげて、ワンピースを脱いで、風呂場へと向かう。
その夜は、いつもよりも厚化粧をしたせいで、ずっと毛穴にファンデーションが残っている気がして、何度も何度も洗顔をした。
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