第3話 動転
月曜日の歌舞伎町は、いつにもまして覇気が無い。
普段はただ目の前のあらゆる娯楽を、ただ享受するギラつきがあるこの街も、月曜日の午前中ともなると、歓楽街の華やかさは身を潜めて、ただの東京都の一部である顔をする。
熱に浮かされて書いたあの小説は、男との出会いや、新たな妄想を書き足して、沢田さんに送り付けた。沢田さんから呼び出されたのは、小説を送って三日後だった。
「いやあ、作風が変わりましたね」
「すみません……」
いつものカフェで、いつも通り二人分のアイスコーヒーが到着した後、沢田さんが探るように言い始めた。
いつもよりも呼び出しの速度が速かったから、好感触なのではないかと期待して来た第一声がそれだったため、私は咄嗟に謝ってしまった。
「いえいえ。面白かったですよ」
「あ、それなら」
「ただ、今のレーベルの色にはあわないと思います」
沢田さんが、空気を切るようにきっぱりと言った。
「でも今までの官能小説と違って、女性の夢というか、女性目線のファンタジーという感じで。出会いのところも含めて、リアリティもありながら、欲望がある。だから、これは出版したら売れると思うんですよ」
彼は一息に言うと、アイスコーヒーを一気に半分ほど飲み干して続けた。
「ですから先生、名前を変えて他のレーベルで出しませんか。うちの会社、いくつか官能小説と言ってもレーベルがあるんです。男性向け、二次元的な意味でのファンタジー色強め、女性向け。いくつかありまして。今まで男性向けで先生は書いておられましたけど、次は女性向けで。結構ほかの先生も、転身される方はおられますし、いかがですか」
売れるものは売れるところで売るんですよ、と付け足した沢田さんは、初めて会った時の自信に満ちた顔をしていた。
「よろしくお願いします」
私はたった一言、安堵の混じった声で、沢田さんの提案を承諾した。
『後藤先生、また重版ですよ』
『それは良かったです』
『売れ行きいいですよ。描写に過度な性器表現が無いのがよかったらしく、普段官能小説を手に取らない層にも広がっているみたいで。SNSでも紹介している動画や投稿が結構あるので、まだまだ売れると思います』
電話越しの大塚さんの声は嬉しそうだ。レーベルが変わって、担当は沢田さんではなくなった。初めての出版から担当してくれていた分、離れるのは少し寂しかったが、レーベルが移ってからもう二年もたつと、そのさみしさは薄れていた。沢田さんに薄い、と言われていた官能小説は、今や過激な性表現が無くていいと賞賛されるものなんだと思うと、改めて言葉の多面さに驚かされる。
新たなレーベルに移ってから、小説として売り出した直後に、スマホ用の縦読み漫画としても売り出すことになり、レーベルの方針から原作者として監修に付いた。基本は脚本家と二人三脚のような形だが、念のため絵や背景などにも一緒に目を通す。縦読み漫画の制作をしている会社では、キャラクター、背景、演出効果などが細分化され、チーム制で制作を行うことで高い更新頻度を保っているようで、とにかく目を通すものが多い。それでも、私のところに届く量は少ないらしいが、自分の新作を執筆する合間を縫うにしては量が多い。
書くためには、得なきゃいけない。ライブに行ったり、映画を見たり、小説を読んだり。それらにも時間を割かなければ、新しいものは書けない。
それでもこのレーベルに移って本を書くようになってからというもの、アルバイトをせずに食っていけるだけのお金は入ってきている。鉄は熱いうちに打たねばならない、と私はあれからもう一冊出版した。二冊目も売れ行きは良いそうで、世間からの落胆はほぼなかった。そこからとんとん拍子に話が進み、今は女性向けの官能小説ながら、続き物の小説を書いている。
性描写は、いまだにライブ終わりに書きなぐっている。一気に行為自体を書き上げて、後日キャラクターや言葉を修正する、といったなんとも非効率な方法ではあるが、今のところマンネリとしては受け取られていない。そもそも、リアリティがありつつも女性の妄想を叶える、といった作風のため、性描写に過度な方向転換をしなくてもいいというところもある。何よりも、彼との妄想は日ごとに膨らみ、キッチンで、旅館で、時にはおもちゃを使ってなど、様々な欲望がとめどなく湧いて出る分、そこに関しては困っていない。
『それで先生、シリーズ作品の方の話なんですが』
華やかな声色で大塚さんが切り出した。
『深夜枠でドラマ化したいのですが、いかがでしょうか』
私はかぶせるように、力強くぜひと声を張った。
仕事が好調だと、プライベートも活発になったりする。打ち合わせを終えて、私は久しぶりに誘われていた、高校の同級生の奈津子と食事に行くことにした。昔は奈津子も小説が好きで、よく図書館で読んだ本の感想を言い合っては、気になったものを追いかけるように読みあった。貸出票にかかれた名前に、私と奈津子の名前が追いかけっこのデッドヒートのように並んでいることはたびたびあった。大学に行ってからも、二か月に一度ほどは会っていたが、それが二か月、四か月、半年と徐々にあわない期間が長くなっていることもわかっていた。
奈津子は、携帯会社の店舗に就職してからというもの、残業が多くなり本を読まなくなってしまったらしかった。
ライフプランが変わると、会話の内容が変わる。官能作家という仕事を隠している上、奈津子から見たら私はフリーターだ。仕事の責任の話も、上司の愚痴も言い合えない。そもそも、官能小説家に上司はいない。日常のほとんどを、人は仕事をして過ごす。その仕事の話ができないと、一気に会話の難易度はあがる。
奈津子は、去年子供を出産した。同じ職場の社員との間に子供ができて、そのまま結婚をして、今は育児休暇を取っているらしかった。急に子供ができて、お互い単身者用の壁の薄いアパートに住んでいたため、子供の声が気になる可能性があるからと、旦那側の実家でお金を貯める目的もかねて同居をする予定だと出産前に言っていたのを覚えている。そこからしばらくは子供の事が忙しく、あったのはほぼ一年半ぶりだった。子供の夜泣きが激しくて、サブスクリプションの映画さえ集中して見ることができないと、SNSの投稿で言っていた。
「まだ育児休暇中なの?」
「うん。江戸川区は保育園の激戦区だからね。なかなか取れないし」
「そういうもんなんだね。今日は?」
「今日はお義母さんが見てくれてる。たまには出かけていいよって言ってくれてね」
出かけていいよ、という言葉を聞いて、喉の奥から余計な言葉が出てきそうになったのをぐっと抑えて、よかったね、なんて思ってもいない返事を返した。外に出る、それだけでも人の許可がいるだなんてバカみたいだと思ったが、子供がいるという事はそういうことなんだろう。
「最近、子供がママ、どうぞ! っていうようになってね」
奈津子が子供の写真を見せながら、私に言った。前にSNSで見たときは、小さくて、まるで人じゃないみたいな感覚を覚えたのに、今回の写真は、完全に人の身体の大きさと形を持っている。かわいいな、癒されるな、と思いはすれど、どこか自分とは縁がなく、遠い存在だからかわいいと思えるのであって、実際は出産の痛みだとか、夜泣きだとか、そういうもので自分は折れて、かわいいと思えないんじゃないかな、なんてぼんやり思ってしまった。
「大きくなったね」
「でしょ。もう歩き始めてるし、毎日大変でさ。歩くようになると、机の上のものとかも気をつけないといけないからね。当分、焼肉とかはいけないな~」
奈津子は嬉しそうに子供の話をする。子供って、いいものなんだろうなと思えてくる。
この世界には、明確な幸せの指標は無い。だから、出世だとかお金だとか、結婚でみんな幸せの基準値を相互に決めあって、それを基準に自分は幸せか不幸せか決めていると感じる時がある。もっと細分化すると、旦那の給与や仕事やら、自分が積み重ねたキャリアやら、そういうものでも多分、もっと細かく分かれていて、あたりを見渡して、自分が相対的に実際百点満点の何点にあたる幸せを持っているか、と確認している世の中なんじゃないかと思う。学生時代に平均点さえ超えていればよかった人は、大人になってもそうで、とにかく高い点数を取りたがっていた人は、人生でもそうしているように私には見える。
私はその相対評価の世界から、一歩も二歩もはみ出している癖に、その評価以外の評価方法もわからず、自分が幸せかということは、未だつかめない。
「それでさ、由衣はいい人とかいないの?」
「え、ああ、いや、うん。いない」
自分の子供のことを話していた奈津子に、急に私軸の話を振られて、思わずうろたえてしまった。いない、の後に仕事が忙しいからだとか、今は家のことがあるから、と免罪符のために追加できる情報を必死に探すが、出せるものは今、何一つ持ってない。
「学生時代は、それなりに彼氏とか作ってたじゃない」
「まあそうなんだけどね。出会いとかないし」
適当にお茶を濁そうと、さっきパスタと一緒に頼んだカフェオレをすすった。
「うちの主人の同僚でさ、丁度由衣の一個上の人で、フリーの人いるよ。今度うちで食事会でもしようか」
「ああ、うん。タイミングが会えばね」
やんわりと断っていることがわかるように言った。出会って、付き合ったとして、官能小説を書いている事がバレる。そうすれば奈津子にもバレる。官能小説作家を恥ずかしい仕事だなんて思っていないが、世間に受け入れられない仕事である可能性は高いとわかっている。アダルトというものを、まるで悪のように感じる人間は居る。自分もセックスしてるくせに。セックスしたから生まれてきたくせに。
それでも、完全に出会いを否定しきれない反応ができなかったのは、私が焦っているからだった。結婚には寿命がある。命の流れよりもずっとずっと短い寿命が。卵子の数は有限だ。出生の時にある程度の数が決まった状態で生まれて来て、その卵子は毎月の月経で吐き出されてからだから消えていく。年齢と共に質も低下していく。劣化に関しては男の精子もそうなのだが、男には閉経はない。何歳になっても子供を作る事だけはできる。だが女は子を産める時期が決まっている。だから子供が欲しいとしたら、ある程度早く結婚して腹を括らないといけない。子供の送り迎えや、学校という生活時間にあわせて前倒して準備してやらないといけないと考えると、体力だっている。百歳まで生きる事を前提とされている世の中だというのに、たかだが三分の一にも満たない年齢の時点で、既に生活を共にする相手を決めて子を生んで、人生をある程度決定しないといけない。焦る、焦る、焦る。早く決めないと。私は世間の評価軸から外れることを望んで外れたのに、子供が欲しい。正直、自分から外れておいたくせに、世間様の決めた幸福のものさしで測れる幸福がほしい。結婚もせず、彼氏もいないというだけで、人生の赤点を取り続けている気分にずっとさせられる。
だからといって、じゃあ今誰か良い人がいたとして。たまたまセックスしていたら子供ができたとして。
私はどうする?そんなの、決まっている。
私は、おろすのだ。せっかく出来た命を、待ち望んだ命をなかったものにする気がする。子供はほしい。だけど親になれる自信はない。収入だってただのフリーターだ。相手の収入がよほどよくないと無理だ。こんな激動の時代で、少子高齢化で、子供は生まれたときから、容姿、学力、ありとあらゆる大人からの、まわりからの評価の戦いの中に入れられる世の中なのだ。その戦いに勝つためにはお金も時間も、親の教養だっている。生まれればなんとかなるという人はいるが、なんとかするのは子供の方だ。教養もたいしてない、お金も、今を食う分はあるかもしれないが、子供の教育にかかるお金は青天井だ。それを出し続けられる仕事にはついていない。ましてや、子供に仕事を聞かれて、奈津子にだって言えないのに、子供になんて言えるわけがない。学力だって適当な大学に行った人間だ、自信がない。何もかも未熟なまま、人生で親を恨まない子を生めると思えない。
見すぎたSNSで凝り固まった思想に、首をしめられている。全部、全部、現代のインターネット議論で正とされる考えの書き写しのはずなのに、まるで自分の考えたことみたいに魂の輪郭を変えてしみついてしまっている。
「由衣、大丈夫?」
「あ、ごめん」
一気に思考の中にもぐりこんでしまって、青い顔をして黙りこくっていたようだった。
「なんだか表情も疲れてるし、今日は帰ろうか」
「うん、ごめんね」
奈津子との一年半ぶりの食事は、出会って、パスタを頼んで、食べ終わって解散となった。たった、1時間だった。
帰り道、私は電車に乗って帰宅する最中で、たまたままだ開いていた画廊によった。もう締めるギリギリなのだろう。画廊の主が気だるげな様子で奥に座っている。なんだか、ちょっと高い買い物でもしてやりたい気分だった。
中に入ってみると、思っていたよりも好みに合うタッチの絵が多かった。美しい形の肉体をした男性が踊る様子の絵、あどけない少女の瞳に、薄暗い空が描かれている絵。人物画ばかりで、どれもこれも、売却済みのシールが貼ってあった。ふらりと入ったにしては、気に入ったので、画集でも買って帰ろうかと思ったが、奥にA4サイズのキャンバスの絵が一つ、まだ売れていないことに気が付いた。
モノクロで描かれたその絵画は、高飛車に見える表情をした女で、両の手を祈るように重ねている。白と黒なのに、唇は真っ赤に塗られていて、着ているドレスさえ真っ赤に見える。宗教画のような構図だからか、神秘性を感じた。
絵はしゃべらない。わかっているが、私は、その絵を見て彼女が何か話しかけてくれている気がした。でも、同時に今は聞こえていない感覚があった。
私はその絵を買った。手が出ない程の金額ではないが、絵を飾る習慣なんてもちあわせていなかったから、高い買い物になった。だけど、きっとここで買わなかったら私は一生後悔する。そう思った。
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