灰の国下層騎士団
下層における灰の国騎士団の駐屯所を目指して歩いていると、この街のことがよりわかったような気がしてくる。リゼもしきりにああじゃないか、こうじゃないかと言っているが、俺もアレやこれやと考えてしまうな。
今歩いているのは宿屋から出て北に伸びる道であり、この上にはさらに道がある。上に見える道は、道と言うにはあまりに頼りない。建物と建物を繋ぐ飛梁のようなものの上を、人が平気な顔で歩いているのだ。
しかも、梁には建物から蒸気が噴出してくる。そのタイミングを器用に見極めながら、立ち止まり、また歩き出す。
魔力炉の出来が悪いのか、経年劣化からか、可視化された魔力が漏れ出ている場所もあり、それらもまたやはり器用に避けながら歩いている。
この街は、最早限界だ。
突貫工事で作られたようにしか見えず、街と言うにはあまりにも多くのものが不足している。そんな劣悪な環境でさえ、人は慣れ、平気な顔をして歩き、時には手すりもない飛梁の上で談笑に花を咲かせるのだ。
「昔はこうじゃなかったよね」
「ああ、もっと華やかな街だったし、もっとシンプルな街だった」
「灰が一番届きにくい安全な場所の街がこれだったら、中層はどうなってるんだろう」
「ハンスが言うには中層は華やからしいが、ここを見るとどうも信じられなくなるな」
リンゴが名産というのも、信じがたい。リゼに言われて少し飲んでみたら確かに美味く、信じざるを得なかったが、このような土地でリンゴが育つものなのだろうか。
北に伸びる道から階段を上がり、飛梁の上を歩く。建物の屋根の上に階段が繋がっているのも、そこから伸びる飛梁のような不安定な道も、全てが胸に重くのしかかるようだ。
リゼは、ほんの少しだけ楽しそうに見えるが……。
「なんかアトラクション? あ、アスレチック! アスレチックみたいだね」
「最大限前向きに言えば、そうなるか」
「もうー、前向きに考えなきゃダメだよ? この環境で人が当たり前に生きてるのだって、人の対応力というか環境に馴染む力みたいなのが凄い! って思わないと」
「そんな前向きな考えは、俺には難しいな」
言うと、リゼは梁から一瞬落ちそうになった。手を引いて事なきを得たが、本当に危ない。しかも、目の前には蒸気が噴出している。
浴びないギリギリの距離にいるだけで、熱気で汗が滲み出してくるほどの温度だ。まともに浴びれば、大火傷してしまうだろう。
前向きになど、俺にはどうにも考えられない。こんな劣悪な場所ではなく、より真っ当な環境で生きられるようでなくては、俺は前向きでなどいられない。
「ありがと、おじさん」
「気をつけろよ? 死が気軽に転がってるぞ、この街」
「えへへ、それはまあ、そうかも」
リゼが飛梁の下を覗き見て、一瞬身震いした。
手すりくらい、付けたらどうなんだ。この街は多層構造で、この上にもさらに階段が伸びていて、飛梁が縦横無尽に伸びている。建物の上に建物があり、さらにその上に道があり……後から考えなしにどんどんと付け足したような構造だ。
その証拠に、今歩いている層の建築物は尖塔アーチのようなものや飛梁のようなものが外からでも見える特徴的な様式になっているにも関わらず、見上げてみれば幾何学模様や太い柱が多く見える。
この様式の変化は、長い年月をかけて建て増しされたという証拠だ。
飛梁だけはどの様式の建物にも付いているのが気になるが。
長い年月をかけてこれだけ建て増しするくらいならば、手すりをつける余裕くらいはあっただろうに。
まるで、この国を象徴するような街だな。
俺の中に残るかつてのこの国の記憶から、そう思った。
「最初に見えたよりも、ずっとごちゃごちゃした街だね」
俺があちらこちらを見渡しているのに気づいたのかどうかはわからないが、リゼが見透かしたかのように言った。
驚いて彼女の顔を見たら、納得した。リゼも、あちらこちらと首ごと視線を動かしている。だから落ちそうになったのだろうが。
「長い年月をかけて建て増ししていったら、こうなることがあるんだ」
「ああ、だから建物の感じが違うんだね……て、詳しいねおじさん」
「俺は昔建築業をやってたという記憶がある。だからか、妙に気になってな」
「用事が終わったらゆっくり街を歩いてみる?」
「ああ、いいかもな」
建築物を見れば街がわかる。街を見れば人の暮らしがわかる。
俺に建築を教えてくれた誰かの言葉だったか。誰の言葉かは覚えていないが、今強烈に実感している。ここの暮らしは、乱雑で、だが、決して悪くはないらしい。
飛梁から降りて見えた教会と思しき建築物の壁面には、像がいくつも埋められている。教会に入らずとも、家からだろうと祈れるようにという配慮がされているのだろう。
環境は劣悪だが、その中に優しさがあり、楽しさがある暮らしなのではないだろうか。
教会の横をすり抜けて今度は飛梁を下方向に降りるように渡っていくと、開けた場所があった。
ハンスに聞いた通りの枯れた噴水の広場、森を背にした赤い屋根の建物、ここが下層騎士団の駐屯所らしい。騎士団の施設にしては、随分と辺鄙なところにあるものだ。
下層の各方角に伸びる街道から、かなり距離があるではないか。
「すごくのどかなところにあるね」
「ああ、この公園といい森といい……陽の光さえ届けば最高だったろうな」
「まあ魔力灯じゃ少し怖い雰囲気かな? 私は好きだけど」
昼時間の灯りを燈している下層天井の魔力光炉の巨大な魔力灯が、青白い光を森に落としている。覚えている本物の日光よりもずっと青い灯りに照らされた広場と森は、妙に怪しげな雰囲気だ。
それでものどかだと感じてしまうのが、この国の歪んだ多層構造への慣れを否応なく俺に実感させてくる。
ただ、それ以上に懐かしい。
俺は以前、ここか、ここに似たどこかによく通っていたのだと心の奥底が訴えかけているようだ。目眩にも似たクラクラとした心地がして、視界が少しぼやけて見える。
「おじさん? 大丈夫?」
心配しているのか、首をちょこんと傾げながら俺の顔を横から覗き込んでくるリゼを見て、視界が少しだけ明瞭になった。
「大丈夫だ」
「無理しちゃだめだよー? こんな状況だけど」
「おぶってくれるのか?」
わざとらしく冗談を言ってみると、リゼは青白い光を受けてキラキラと輝く白髪を揺らしながら、腹を抱えて笑った。
「あはは、出来たらやってもいいけど」
「まあ、まだそこまで衰えてはいないが」
「あー、ふふっ、おじさんも冗談言うようになって何よりだよ」
ひとしきり笑って落ち着いたのか、目の涙を拭いながらリゼが前をしっかりと向いた。
「行く?」
「ああ、行こう」
ふう、と息を吐いてから扉に手をかける。
重いな、この扉は。
触っていると、わかる。傷をごまかすかのように、塗料を厚く塗り足したような痕跡がある。厚みが位置によって違っているせいで、左手で触れている部分と右手で触れている部分とで感触が違っている。
冷ややかな扉、だが確かに人の営みと戦いの痕を感じる扉が、俺の力に押し負けてゆっくりと開いていく。
開ききった扉の先は、広間だった。
広間の中央には螺旋階段があり、吹き抜けになっているためここからでも上階の様子が見える。上階にいた騎士が、少し顔色を変えて階下に降りてきた。
一階には左右に扉があり、階段の奥に団旗と思しき長旒旗が2つ掲げられている。片方は赤、もう片方は青と色違いになっていた。
「御仁、下層騎士団に何用だ」
二階から降りてきた騎士が、腰の剣の柄頭に手をかけながら歯切れよく言った。
「先日、西果てのコールドスリープ区画から目覚めた者だが、一部記憶が欠落している。詳しい情勢と中層への昇降機の運行を頼みたい」
姿勢を正し、あくまでも害意はないということを示しつつ、堂々と答えた。
すると騎士の男は、空いていた左手で無精ひげを撫で、俺とリゼを交互に見た。
「なるほど……貴君らがそうであったか」
「まるで知っているかのような言い草だな」
「いや、貴君らとは初対面だが、目覚める者があると上から伝え聞いておるのだ」
「なるほどな、そういうことだったか」
騎士はようやく柄頭から手を離し、一礼した。両手をぴたと体側につけ、まっすぐ浅く礼をする。これが灰の国の騎士の挨拶なのだろう。俺の知る騎士団の挨拶と、全く同じものだった。
俺の体は意志とは関係なく、自然と同じ挨拶を返していた。
上から伝え聞いているというのが引っかかるが、話が早いのは助かる。どうせ、メイジーが何か関係しているのだろう。
手助けをしてくれとでも言われているのかもしれないが、それでは良くない。施しとは、余力のある人間に無償で与えられるべきものではなく、余力のない人間にこそ無償で与えられるものなのだと、顔も思い出せない誰かの言葉が頭をよぎった。
「ただ、世界の情勢を知るには廃棄された西果てのラボを調べるといいと言われてな」
「あそこか……灰入が徘徊している。大変危険な場所だ」
騎士が嘆息している。この様子からして、騎士団も調査をしたいが危険なため調査が進んでいないと見える。
「マスターキーを拾ってな、剣の心得はある。一度行ってみるのも悪くはないと思うのだが」
「なるほど、交換条件として説明と昇降機の運行を求めると、貴君はそう申しているのだな」
「ああ、不服だろうか」
「なにを不服に思うものか。上からは貴君らの中層行きを手助けするよう言われている。それを働きで返してくれるというのだ。断る理由など我らには、無粋な遠慮以外にあろうはずがない」
騎士が、ふっと笑った。その後、柔和な笑みを浮かべ、肩を落とした。肩の力が抜けたのだろう。
彼は騎士団として依頼するからには、調査にも報酬と援助をすると約束してくれた。報酬は、中層への昇降機の認証キーと現在のこの国の情報。援助の内容は主に食糧と飲料面だ。
本来ならば騎士も何人か付けるところらしいが、現在下層騎士団は魔術教会のある黒い森付近で発生した大規模な灰人化事件への対処で忙しいため、人手を回せないらしかった。
「援助物資は早朝、西門に置いておく」
「ああ、ありがとう」
「それから、恐らくは貴君の知り合いが手を貸すため待っているであろう」
「知り合い……なるほどな」
メイジーだろうな。目が覚めてから知り合った人間と言えば、隣で口をつぐんでいるリゼと、昨日食事処で会ったハンスと、メイジーくらいのものだ。
「では、健闘を祈る」
「ああ、吉報を待っていてくれ」
言いながら軽く会釈をして騎士団員駐屯所を出ると、リゼが「ぷはぁ~」と息を吐き出した。
「なんだか息が詰まったよ~」
「ずっと黙っていたな」
「私が口を挟む話じゃないもん。緊張もしてたし」
「まあ出立は明日だ。今日はゆっくり街を見て回るとしよう」
「賛成! 今日はもう緊張したくない」
両手を上げて言い放つリゼの手が、突風に揺れた。誰かが空調設定を間違えたらしく、天井から怒号が聞こえる。
それを聞いてか、リゼがまた笑った。
こんな世界だからこそ、前向きに、か……。
彼女はその言葉を自分自身で、体現してみせている。俺も、リゼのように思えるときが来るのだろうか。
だが、ああ、心地がいい。彼女の笑顔は、笑い声は、自分にとってこれ以上ないほどの心地よさだ。
こんな世界においても、失われることはない安らぎというものなのだろう。
なぜだか、俺はそんなふうに思った。
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