灰の国下層西エリア西央の道~下層中央エリア中央通り
下層西エリア西央の道は、西エリアと中央エリアを結ぶ唯一の道であり、道の半ばほどで中央通りという名前に変わる。西街を出てしばらく歩いているが、少しずつ地面に積もっている灰が少なくなっていた。
あれだけ壁に絡みついていた気持ちの悪い植物も、少しずつ減っている。中央に近づくにつれ、照明も明るくなってきていた。
これで、確信が持てた。
中央街には、生者がいる。
手記には西街の生き残りが中央街になだれ込んだと書かれていたから、中央街には生者がいると思ってはいたが、半ば疑念だった。ようやく確信に変わり、気が抜けてクラクラとしそうになるのを堪え、歩き続ける。
リゼも気がついたのか、西街を出たときよりも顔色が良くなっているように見える。
「にしても、無味乾燥だな」
「下層は街や施設以外そうだったよね、中層は地上だから道にも色々なものがあったけど」
「ひとまずの目的は下層で情報収集と、中層に行くことか?」
「だね、住んでたの中層だし記憶に関しても、中層のほうが思い出しやすいと思……うわでっかい穴」
話しながら歩いていると、突然大きな穴が現れた。通れなくなっているというほどではないが、広い道の大部分に穴が開いている。半径何メートルはあるのだろう。
覗いて見てみると、底は見えなかった。下層より下には、魔力の源泉があるが、源泉まで穴が続いているらしい。
落ちれば、死は免れないだろう。
隣でリゼが「うわあ」と、感嘆しているのか引いているのか区別がつかない声をあげながら、穴の底をまじまじと見ていた。僅かに、魔力の源泉が見える。青白く渦巻く光が、闇に浮かび上がっているように見えて、幻想的な光景だった。
「すごいねっ、おじさん」
どうやら感嘆だったらしい。穴を見てから俺を見るその目は、どんな宝石よりも綺麗にキラキラと輝いていた。
「ああ、すごいな」
「魔力の源泉は汚染されてないみたいだね」
「あれが汚染されれば、魔力に頼っているこの国は終わりだな」
「何回終わるんだよって感じだけど……もう終わってほしくないね」
「そうだな」
しばらく二人で見惚れていたが、進まなければと思い直し、少し名残惜しそうにしているリゼの手を引き、穴の向こう側へと歩いた。
手を離すと、また名残惜しそうに「あ」と小さく声を漏らしていた。それを指摘すると、リゼが顔を赤くして歩みが速くなった。その様子を見て、少し安心した。まだそれだけの元気が残っているようだ。
穴を越えて少しすると、道の脇にコンテナが積まれているのが見えた。赤いコンテナが積まれていて、新しそうに見える。埃も灰も付着していない。
「何が入ってるんだろう」
「何か書いてあるな」
コンテナに貼り付けられている紙を見ると、『補給用物資 毎日更新』と書かれていた。思わず、「おお」と声が漏れた。
「渡りに船だ」
「見ておじさん! お水だよ! 糧食もある!」
「ドライフードだ、ありがたいな」
味は新鮮な食材や料理と比べれば随分と劣るが、消費期限が長い。毎日更新と書かれているが、今も機能しているかは不明だ。保存食のほうが安心できる。
調査隊などのための補給用物資だろうが、誰のためのものかなどと議論している場合ではない。非常事態だ、仕方がない。許してくれとは言わないが。
水と糧食は律儀に布製の袋にセットで詰められており、それを二つだけ取り出した。水に口をつけてみたが、変な味も匂いもしない。問題なさそうだ。
リゼが一つ持ちたいというので、少し渋った末に持たせてやると「へへへ」と溶けたような笑みを浮かべて、水にゆっくりと口を付けた。
よほど美味かったのだろう。目が輝いている。笑顔の眩しい奴だ。
それにしても、水の飲み方がうまい。久しぶりに胃に流し込む水に体が驚かないよう、ゆっくりゆっくりと飲んでいる。もちろん配分を気にしてのことでもあるだろうが、彼女にはこうした経験があるのだろうか。
「美味しいよおじさん!」
「配分に気をつけてな」
「もちろん! あとはゆっくり休める場所を探さないとね」
「この様子だと、セーフハウスの一つくらいはありそうだ」
「だね、思ったよりしっかりと調査のための整備はしてるみたいだし」
補給物資を見つけてからしばらく歩いたが、やはりこの道には特に何もない。無味乾燥としており、中央通りという看板が見えた今もそれ以外に何も見当たらない。
灰入を警戒しながら進んでいるが、これまで全く遭遇しなかった。空から降る灰が原因であれば、下層はやはり灰入が少ないのだろう。
下層と同等程度の被害であれば、そこまで荒れてはいないだろうが……中層や上層がどうなっているのか、今から気が遠くなるようだ。
だが、中央道の看板から少し歩いたところに広場があった。水道設備があり、ベンチがいくつか置かれているところを見るに、道の中継地点として利用されていた休憩所だろう。
誰かが焚き火をしたような後がある。比較的新しそうだ。
それに、ここだけ自然がある。これまでは無味乾燥で何も無い床と壁だったが、ここには土があり草があり、木々があった。
見ると、ここから先に伸びている道にも草が生えているのがわかる。下層中央街は人工芝が広がる比較的自然豊かな街だったが、今もそうなのだろうか。
「よし、ここで休んでいこう」
「大丈夫かな?」
「これまでの様子からして大丈夫だろう。遭遇したとしても大群ということはなさそうだ」
「まあそうだね」
「それに俺が見張っている」
ベンチに腰を降ろし、焚き火跡の近くにあったまだ使えそうな枯れ木を拾い上げ、ベンチの前に組む。低木から葉をいくつか取った。
リゼはベンチに腰を下ろし、水をゆっくりと飲んでいる。まだ3分の1も減っていない。こまめに水分を摂りながら、決して摂りすぎることはなく、しっかりと節約している。
やはり、旅慣れているな。
「後は火を起こせれば……」
「待ってて」
リゼが杖を手に持ち、杖の先を組んだ木の枝に向けた。それからむむむと唸った瞬間、杖が赤く光り、木の枝と葉が燃えた。
「魔法か」
「魔技師は魔術師の一種だからね、当然魔法も使えるんだよ」
火の勢い、詠唱時間の短さなどから考えると、これは着火の魔法か。確か近距離に炎を着ける生活魔法の一種で、火種がなければ使えないのだったか。
「大したものだな」
「へへへ、もっと褒めていいよ」
えっへん、と腰に手をやっている。やはり、リゼの笑顔は眩しい。眩しすぎて、素直すぎて、俺には怖いくらいだ。
こんなろくでもない世界では、あまりにも希望に満ちた顔をしていて、今吹いた風が妙に爽やかなものに思えて、心がざわつく。
目の前に広がるのは、無機質な床や壁と豊かな自然の境目だ。
俺は今、彼女とともに豊かな自然の中にいる。
だが、俺は本来あちら側ではなかったか?
そんな漠然とした疑問を打ち消すようにして、ドライフードに手を付けて満面の笑みを浮かべたリゼの顔が、視界の端に映った。
どちらでもいいか。今はただ、俺もこの自然の中で食事を摂ることにしよう。
ドライフードはお世辞にも美味いとは言えないものだったが、久しぶりに食べる固形物というだけで、心が落ち着くようだった。
彼女の笑顔もきっと、そのためなんだろう。俺は今、笑っているだろうか。
パチパチと、焚き火が燃える音が目の前から聞こえてくる。焚き火から発せられた音が壁に天井に反射して、違う方向からも聞こえる。当たり前のことだが、不思議な気分だ。
目が覚めて、ここまで落ち着いたのは初めてだからだろうか。
リゼは、ドライフードを食べた後すぐに眠った。よほど疲れていたのだろう。無理もない。コールドスリープの区画から、ここまで歩き通しだったのだ。
今はもう、深夜だろうな。
下層の天井には星空は無いが、きっと中層の空には星達が浮かんでいることだろう。星の明かりも月明かりもない下層の夜は、巨大な洞窟のように静かで暗い。
広場には魔力灯があるし、目の前には焚き火があるが、それでも薄明かりにしかなっていない。
「ふっ……」
どうやら俺も、地上が恋しいらしい。
ふと気になって見てみると、隣で眠るリゼの顔は、緩みきっていた。口端からはよだれが垂れていて、なぜか微笑んでいる。こんな悪夢のような状況で、良い夢でも見ているのだろうか。
いや、目の前に広がるこの光景自体は悪夢とは言い難いかもしれない。無機質な場所との境目が見えるせいで妙な気分だが、この広場自体は……希望に満ちているのかもしれない。
「ん?」
一体何だ。
立ち上がり、剣に手を当てる。何者かの気配がしたが、灰入だろうか。
カサ、と葉が音を立てた。背の高い木と低木が並ぶ場所に目をやると、人がいた。赤いフード付きのローブを着ている。フードで目元まで覆われているが、女性のようだ。
下はホットパンツで、健康的な太ももが焚き火の光を反射していた。体がおかしくなってはいないし、目には生気がある。灰入ではなさそうだ。
「誰だ?」
「警戒しなくていい、わたしは敵じゃないから」
「リゼ以外の生者と再会するのは目覚めて以来初なんでな、警戒もする。アーティカルか?」
「そ、最終型のアーティカル。生まれた人間の赤ん坊の体の一部を機械に変えて生まれた人間よ」
彼女は薄っすらと笑みを浮かべて、焚き火の前に座った。
「わたしはメイジー・ブランシェット。まあ旅人だとでも思っといてくれればいいわ」
「メイジー……」
どこかで聞いたことがある気がするが、思い出せそうにない。俺が眠りにつく前の知人なのだろうか。
「考えてることは当たりよ」
メイジーの声は低かったが、どこか愉快そうだった。
これで確定した。俺がいた時代にも、アーティカルはあった。それも恐らく、最終型というのも存在したのだろう。ただ俺が忘れているだけで。
「すまんな、部分的に記憶を失っている」
「知ってる。目覚めさせたのわたしだし」
「なに? そうなのか」
問うと、メイジーはフードを脱いで静かに頷いた。焚き火の前で手を擦りながら、ふふふと笑っている。笑顔が怖いが、どこか安心したように口端を緩ませているのは、少しだけ愛らしいと言えるのかもしれない。
「それで、お前はなぜ俺達を目覚めさせたんだ? その口ぶりじゃ本来目覚めるはずじゃなかったようだが」
「まあ、コールドスリープは灰と黒紋の恐怖から世界が開放されたときに目覚めさせようって、はじめたものだしね」
「どうもそうらしいが、なら尚更なぜだ?」
「そうも言ってられなくなったのよ。荒れたカプセルを見たでしょう? あれは灰入にヤラれたの。最終型アーティカルも、一部例外以外は黒紋から逃れられなくなっちゃったのよ」
メイジーの言葉を、脳内で何度も反芻する。
確か、劇場で呼んだ手記にも似たようなことが書かれていたな。不死者じゃないから、最終型アーティカルだろうと灰入になるのだと。
だが、全員目が覚めたとも書かれていたように思うが……調査隊も全員が全員、真実を知るわけではないのだろう。目の前の少女が嘘を付くとは、なぜか思えない。
しかし、わかったことはある。
「つまりお前は不死者か」
「ま、そういうことね」
腰に手を当てて、目を閉じて口端を緩ませるメイジーは、どこか誇っているように思えた。
想像するに、不死者というのは限られた一部のみがなるものなのだろう。
そして、また恐らくだが、俺がいた時代にも不死者がいたということかもしれない。彼女の口ぶりは、当然でしょと言わんばかりだ。記憶喪失者に対する態度としては、少し違和感がある。
もっとも、メイジーが他者への配慮を欠く性格だという可能性もあるが、なぜだかその可能性は自分の心の奥底が否定しているような奇妙な感覚がある。
「不死ならこの時代に生まれた人間ではないという可能性もあるか」
「当たりよ。だけど一つ大事なことが抜けてるわ。貴方もそうなのよ」
「それは……」
「もちろん後半部分の方じゃないわ、あなたがこの時代の人間じゃないのなんてわかりきっているもの」
「不死者なのか」
「そう、そして、リゼもそうよ」
ふう、とため息を吐いている自分がいた。ショックだったわけではない。むしろ、この世界を探索するならば、灰に侵されない状況は好都合だと言える。
だが、なぜか心がずしっと重くなるようだ。
メイジーは、先程までと違い、柔和な笑みを浮かべて、こちらを見ている。
「ま、なんにしても、今は旅を楽しめばいいわ」
メイジーが立ち上がり、尻を叩いて土を落としている。
「よく言う」
「ただ一つ、このまんまじゃこの灰の国はまた滅ぶ。それだけ言いに来たのよ」
「まあ、下層がこの様子ではな」
「それじゃあ、言うことも言ったし、私は行くわ。また会いましょう」
手を振り立ち去るメイジーの背中を、俺はただじっと見つめていた。何か声をかけようかと思ったが、かける言葉は見つからなかった。
手記を不自然にあちこちに配置しているのは、まず間違いなくあいつだろう。俺達を目覚めさせ、あいつは何かをさせたがっている。
だが、そんなことは別に関係がない。今の俺には記憶がないし、ひとまずはリゼを元いた中層に送り届けることが重要だ。
その後は……。
「どうするんだろうな、俺達は」
どこからか吹いてきた人工風が、ため息を吐く俺の頬を叩いた。
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