第一話 彼女が彼氏を殺した理由
私が彼氏を殺した理由には、並々ならぬ激情も愛憎劇もなかった。ただただ、彼から逃れるには殺すしかない、と思っただけのことだった。
彼は極めて正当で、純粋で、紳士的で、そして退屈な男だったのだ。彼はデートの時は段差があれば手を差し伸べてくれ、私の誕生日プレゼントにも尽くせる限りの手を尽くした。その時一番私の欲しいものを取り寄せてくれ、まず私のことを愛してくれていたことだけは間違いがない。彼は優しさだけ、柔らかくて温かい愛情だけを求めるのなら、私にとって世の中の女子にとって、これ以上のない人物であった。
ただしかし、私にとって彼氏は、「これ以上のない人物」であった。
彼はただ、私のことを愛しているだけだったのだ。
それだけで、私の心という湖面に彼は何の波紋も投げ入れなかった。極めて無害で極めて穏当で、極めて…………。
無関係だった。
恋人関係にあるのだから、と世間の目を気にして私も多少配慮して振る舞ったが、彼は私の関心を惹くことに毎度毎度悉く失敗していた。また彼は、自分自身が敗残していることにこそ気付いていても、私が失望しているとは思っていないようだった。ただ静かに、ただ安らぎを保って、私が彼に接していると勘違いを引き起こしていたのだ。
だから、殺した。
私達に未来は無かった。だがしかし私にとって彼は、退屈だったが愛しい人で、彼にこそ私の退屈を埋めて欲しい、と思う程には恋していた。
空っぽのグラスのようなひび割れた私の中に、胸を打つような暖かい好奇を注ぎ込むのは彼が好い。この退屈を解かして、心ごと鷲掴みにするのは彼が良い。そう私は、確かに望んでいたはずなのだ。
けれども彼は、私を裏切った。私を満たさなかった。永遠に退屈でいた。つまらなかった。だから私は、これ以上私というグラスの中に温く濁った水だけを注ぎ続ける彼に見切りを付けて、彼の首を裂いて、漏れ出た熱い血で己を満たすことに決めたのだ。
殺人の動機は、これで充分であろう。
さて、こうして私は人一人の命を奪った訳だが、この重たい死体は仮にも愛しい彼であった訳なのだから、道に転がしておいて無防備な姿を通行人に晒させることには僅かな憐憫や独占欲の欠片が働き、私を不快にさせる。このまま転がしておく訳にも、側を離れる訳にもいかない。ならばこの死体を通行人の目に触れさせない為にはどうすれば良い?私はしばし考えて、妙案を思いついた。
警察に通報するのだ。死体があると言えば彼らは彼の全てをすっかり処理してしまう為の道具を持ち出して、私が命ずることなくとも律儀に死体を回収してくれる。悲しいことだが手慣れているだろうから、私がやるよりずっと効率が良い。
私は私が捕まらないことに、それほど関心が無かった。また、犯人が見つからず彼を殺したのが他の誰かと誤解されても嫌だと思って、私はこのまま逮捕されようと思った。
そう思ったが、自分で一、一、と電話番号を入力するのも格好が悪い、と何だか躊躇われて、私は誰かに通報の代行を頼むことにしようと思い至った。だがしかし私には、仲の良い友達に殺人を犯した者と軽蔑されることも、理由を問い詰められることも、嘘だと笑われること耐え難い拷問であると思われた。話に余計な尾鰭を付けるようなお喋りは論外で、私と彼氏双方仲の良い人間に連絡するのも気が引ける。そう思うと代行を頼める相手は数少なく、私は「この人には送れない」と思った相手を順次メッセージアプリの連絡先から消していった。友人も、家族も、愛人も、誰も彼も。
そうして最後に私との遊園地でのツーショットをアイコンにした彼氏のアカウントと並び立って残ったのが、彼だった。
「西条原 七瀬」、と馬鹿正直に本名で登録されたアカウントのアイコンは、初期状態の人型のシルエットのままぼんやりと画面に表示されている。正直なところ名前は覚えていなかったどころか殆ど知らないようなものだったから、今だけはその馬鹿正直さに感謝した。
私が西条原七瀬の連絡先を得たのは、まだ彼氏と付き合う前の、中学二年生の春だった。勘違いでなく私と彼はクラスも何もかも違ったが、よく目が合った。友達と居ない時、一度廊下で人を待ってぼんやりと景色を眺めていると不意に焦点が合って、その際にはばちり、と彼と目が合っている。
それで姿を覚えて、ふと景色の中に彼の姿を見出して退屈凌ぎに眺めていれば、彼が視線に気づいて振り返る。名前もクラスも知らないが、互いに顔だけは知っている。そんな奇妙な存在だった。そんなことを繰り返している内に陽気な人気者のクラスメイトに目を付けられ、「応援してるから」とウィンク混じりに渡されたのがこの連絡先。メールは二ターンも続かなかった。全く以ってお節介極まりないと思ったが、今この瞬間だけはこの連絡先が、バンジージャンプの命綱のように思われた。
彼の性格は……澄ました顔立ちからして冷たげで、断ち切る時は断ち切るような、そんなタイプ。はっきりものを言って、正論ばかり押し付けるから友達が少ない。そんなタイプだと私は思っていて、きっと頭のおかしい目の合うだけの女から懇願する連絡が来れば、日頃の好で通報くらいはしてくれるのではないか。私は彼に期待を持って、連絡をした。「少しグロい」と忠告を付けて死体の写真を送付し、このようにメッセージを送った。
『人を殺してしまったの。通報するのが怖いから、警察に連絡をしてほしい。場所は商店街前の大通り──』
Mate 碇/刻壁クロウ @asobu-rulu
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