名前も知らない君との、数センチの会話
シャル
数センチの会話
放課後、二番線ホーム。
毎日、僕の帰り道は、この定位置だ。
向かいのドア付近、いつも同じ場所に立つ君を視界の端に捉えながら、文庫本のページをめくるのが習慣だった。
彼女の名前も知らない。クラスも違うだろう。
ただ、同じ高校の制服を着て、同じ時刻の電車に揺られている、それだけの関係。
彼女はたいていイヤホンで音楽を聴いていて、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めているか、友達と楽しそうにスマホを覗き込んでいるかだ。
僕が彼女を意識し始めたのは、いつからだった
だろう。
きっかけは、彼女が読んでいた本のタイトルが、僕の好きな作家のものだったことかもしれない。
それ以来、僕は彼女の気配を、まるで車窓の風景の一部のように、自然と目で追うようになった。
話しかける勇気なんて、もちろんない。
ただ、彼女が時折見せるふとした表情や仕草に、勝手に親近感を抱いているだけだ。
今日も、彼女はいつものように電車に滑り込んできた。
僕はいつものように文庫本を読む。
彼女はいつも少し遅れて車両に乗り込んでくる。
今日は一人らしい。
イヤホンを耳に、少しうつむき加減で立っている。
その横顔が、いつもより少しだけ、儚げに見えたのは気のせいだろうか。
電車が動き出す。
いつもと同じ風景だ。電車はいつも通り走っている。
突然、電車がガタン、と大きく揺れた。
つり革に捕まっていなかった数人が、おっとっと、と声を上げる。
僕も少し体勢を崩したが、すぐに立て直した。
その時だった。
「あっ」
小さな声と共に、何かが床に落ちる音がした。
見ると、彼女が足元に散らばった数枚のプリントを慌てて拾い集めようとしているところだった。
そのうちの一枚が、風にあおられて僕の足元までするすると滑ってきた。
僕は咄嗟にそれを拾い上げた。それは、来週に迫った文化祭の企画書らしかった。
イラストや手書きの文字が可愛らしくそして整然と並んでいる。
「あの…」
僕は言う。
彼女が顔を上げた。
少し潤んだ瞳と、僕の目が合った。
心臓が、トクン、と小さく跳ねる。
「これ、どうぞ」
僕は企画書を彼女に差し出した。
自分でも驚くほど、声は普通に出た。
「あ…ありがとうございます!」
彼女は慌てたようにそれを受け取り、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、僕が今まで想像していたどんな表情よりも、ずっと魅力的だった。
「いえ…」
僕がそう答えるのが精一杯だった。
彼女は他のプリントも拾い終え、「助かりました」ともう一度小さく会釈して、またいつものように窓の方へ向き直った。
沈黙。
でも、それはいつもの、ただの他人同士の沈黙とは少しだけ違っていた。
僕たちの間に、ほんの数秒だけれど、確かな接点が生まれた。
彼女の耳からはイヤホンが外れていて、その白いコードが揺れているのが見えた。
僕も、なぜだか急に文庫本に集中できなくなっていた。
さっきの彼女の笑顔が、目に焼き付いて離れない…
企画書に描かれていた、少し癖のある可愛らしい文字。あれは、彼女の文字なのだろうか。
ふと、彼女がこちらをちらりと見たような気がした。
気のせいかもしれない。
でも、僕も無意識のうちに彼女の方を見てしまっていたようで、また目が合ってしまった。
彼女は少し照れたように俯き、僕も慌てて視線を文庫本に戻した。
なんだこれ。
胸の奥が、じわりと温かい。頬が少し熱い気もする。少しだけ汗も出てきた。
次の駅が近づき、アナウンスが流れる。彼女がいつも降りる駅だ。
いつもなら、彼女が降りていくのを横目に、それを見送るだけ。
でも今日は、少しだけ違った。
ドアが開く直前、彼女がもう一度、僕の方を見た。
そして、ほんの少しだけ口角を上げて、小さく頷いたように見えた。
それは、ありがとう、なのか。
それとも、また明日、なのか。
もしくは両方か。
僕には判別できなかったけれど、それで十分だった。
彼女が降りていき、ドアが閉まる。
いつものように、電車は走り出す。
でも、僕の心臓は、さっきよりも少しだけ速く鼓動を続けていた。
手の中の文庫本は、まだ同じページを開いたまま。だけど、物語の続きは、もうどうでもよくなっていた。
明日も、放課後、二番線ホーム。
もしかしたら、また何か、小さな出来事が起こるかもしれない。
そんな淡い期待とともに、夕日が僕の顔を照らす。
名前も知らない君との、数センチの会話 シャル @shrki129csillg
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます