最終話「ポジティブ猫と殺し屋」
夜のとばりが降りた街は、深い静寂に包まれていた。窓の外では、遠くのネオンサインが、滲むように闇を照らしている。いつものように窓辺に立ち、紫煙をくゆらせながらビールを一口。しかし、今夜は、そのいつもの行為が虚しく胸に響いた。胸の奥底で、得体の知れない重苦しさが横たわっている。
足元では、マル猫がいつものポーズで腹を見せている。無防備な腹を見せて、甘えるように鳴く。その仕草に、つい口元が緩むが、すぐに心の締め付けられる感覚が戻ってきた。
(……終わらせなきゃならねぇ)
俺を突き動かしてきたのは、ただ一つ、復讐だった。俺の女を奪い、あの夜の血の匂いと悲鳴を脳裏に焼き付けた奴ら。奴らをこの手で始末する――それだけが、俺の生きてきた意味だった。
しかし、マル猫が俺の日常に踏み込んでから、何かが確実に変わり始めていた。無邪気にこちらを見上げる瞳、毎朝響くカリカリと餌を食べる音、風呂場で水浸しになりながら喉を鳴らす愛らしい姿――これら「くだらない」と切り捨ててきたはずの日常の光景が、凍り付いていた俺の心に、小さな、だが確かな温もりを灯し始めたのだ。
(……こんな俺でも、生きていいって、思っちまうんだよな)
それでも、復讐はもう目の前だ。情報は揃い、奴らのボス、最後の標的の潜む場所も判明した。今夜、すべてにケリをつける。
「おい、マル猫。今日は絶対ついてくんな。分かったな」
俺は猫に背を向け、銃をコートの内側に滑り込ませる。背中の虎の刺青が、いつもより重く、熱を帯びているように感じた。
マル猫は、じっと俺を見上げて「にゃーん」と短く鳴いた。普段なら「構って!」とばかりにすり寄ってくるくせに、今日のそいつは妙に静かだ。
(……お前、何か感じ取ってんのか?)
ーーー
夜の港は、荒々しい風が唸り、波がコンクリートの壁を容赦なく叩きつけていた。倉庫街の片隅に、俺は一人立っている。全身が張り詰め、鼓動が耳の奥で爆音のように響き渡る。
背中の虎が、今にも咆哮しそうだ。
(終わらせる……ここで、全てを)
暗闇を切り裂くヘッドライトの光。数台の黒塗りの車が滑るように現れ、黒スーツの男たちが無言で降りてくる。その真ん中に、"奴"はいた。組織のボス。全ての元凶。あの夜、俺の女を嘲笑いながら撃ち殺した、悪魔のような男。
俺の指が、ゆっくりと引き金にかかった――その刹那。
倉庫の上から、突然の銃撃が降り注いだ。
乾いた破裂音が、夜の空気を裂くように響く。
「ちっ、待ち伏せか!」
火花が散り、鋼鉄の柱が悲鳴を上げる中、俺は身を投げ出して即座に反撃した。
乾いた銃声が夜気にこだました。
血しぶきが夜の闇に鮮やかな赤を咲かせる。しかし、数で劣勢だ。不意に、腹に熱い痛みが走る。銃弾が俺の肉を抉った。
「ぐっ……!」
倒れかけた膝を、意地で踏みとどまる。視界が血の色に染まる中、"奴"は――俺を見て薄く笑っていた。
「はっ……お前みたいな奴は、そこで死ぬのが似合ってるぜ」
「そうかよ……なぁ、俺がこのまま死ぬかと思ったか?近づいてきやがって……甘いな」
血まみれの手で、俺は再び銃を構える。そして、引き金を引いた。
――銃声が、港のすべての音を飲み込むように響き渡る。
"奴"は、ゆっくりと、音もなく崩れ落ちていく。
パトカーのサイレンが
「俺も……逃げねぇとな……」
俺は膝をつき、遠くの空が僅かに白み始めるのを、ただ茫然と眺めていた。
(まぁいいか死んでも……やることは終わった――)
その瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは――
マル猫の、間の抜けた顔だった。
(……なんで、こんな時にあいつの顔が浮かぶんだ)
俺は冷たいコンクリートに体を預ける。
(悪いな……お前に、もう飯をやれそうにねぇよ……
ったく……目的を果たしたってのに……だから猫は嫌いだ)
気付けば、俺は静かに笑っていた。
そして、意識は深い闇へと沈んでいった。
ーーー
朝。いつもなら、カリカリと餌を食べる音で目が覚めるのに、今日はひどく静かだ。お気に入りのシャツの上で、ぼくは目を覚ます。
(おやじ……まだ帰ってきてない?)
猫センサーが、ピピッと危険を告げるように鳴っている。なんだか、嫌な予感。昨夜のおやじの顔は、いつもより硬く、遠い目をしていた。
(おやじ、どこに行ったんだ? ぼく、探しに行く!)
野良だった頃の勘を頼りに、台所の小窓からスルッと外へ。鼻を鳴らして匂いを追う。おやじのタバコの匂い、コートの革の匂い、そして――ほんの少しだけ、血の匂い。
(おやじ!? やばい、急ぐぞ!)
港の倉庫街。夜の冷たい空気が、まだ地面に貼り付いている。
ぼくは、コンテナの間を駆け抜け、おやじの匂いを追った。
だけど――
(……いない)
おやじの匂いは、そこで突然途切れていた。
地面には、乾きかけた赤黒い血のシミが、ぽつぽつと残っているだけだ。
「……おやじ?」
ぼくの声は、小さく、夜の静寂に吸い込まれていく。
風がひゅうっと吹き抜け、倉庫の壁が軋む音が響いた。
(おやじ……ここにいたんだ。でも、もう……いない)
おやじの姿は、どこにもない。
ただ、血の匂いだけが、ぼくの鼻腔を強く刺激する。
その場で、ぼくはへたり込んだ。
小さな身体が、がたがたと震えていた。しっぽも、耳も、ぴたりと動きを止める。
(おやじ……もう、帰ってこないの?)
「にゃーん……」
小さく鳴いてみても、誰も返事をしてくれない。
ひとりぼっちの夜。
ぼくは、そのまま、しばらくの間、動けなかった。
ーーー
ぼくは、秘密基地で丸くなってた。カリカリの皿は、空のまま。おやじのシャツの匂いだけが、ぼくを落ち着かせてくれる。
(おやじ……どこ行ったんだよ……)
あの夜から、おやじは帰ってこない。
ご飯のことなんて、どうでもいいや。
お腹よりも、胸のあたりが、ずっともやもやしてる。
おやじがいない家が、こんなに静かだなんて、思わなかった。
(アニキ……おやじ、大丈夫だよね……?)
背中の虎のことを思い出す。アニキなら、きっとおやじを守ってくれるよね? ぼく、信じてるから。
雨がぽつぽつ、窓にあたってる。
ぼくは、秘密基地の隅で丸くなって、目を閉じる。夢の中で、アニキが吠えてる。おやじの背中が、でっかく見える。
(さびしいよ……おやじ、はやく帰ってきてよ……ぼく、待ってるから)
ーーー
――そして、ある朝。
カチャッ。
玄関の鍵が、静かに開く音がした。
……その音に、ぼくの耳がピクッと反応する。
(え……今の音……?)
鼻が、くんくんと鳴る。
聞き覚えのある、あの匂い。煙草と革、そして――傷の匂い。
ぼくは、転がるように廊下を駆けた。
そして――
「……よぉ」
そこに、おやじは立っていた。
服の下は包帯だらけ。少し痩せた顔。だけど、ちゃんと、あの頃のように笑っている。
(おやじ……!)
もう、声にはならなかった。
ぼくは全身で転がり、頭を擦り付け、足元に必死にすがりついた。
「にゃーっ! にゃーーーっ!!」
涙……ってやつかな。
わかんないけど、おやじの匂いを感じたら、ぼくの目は熱くなっていた。
「ふっ……そんな大声で鳴くなよ」
おやじがしゃがみ込み、そっとぼくの頭を撫でる。
その手はまだ震えていたけれど、すごく、すごく、温かかった。
「……まだここにいたのか。逞しいやつだ。お前の飯、遅れちまって悪かったな」
涙の代わりに、鼻をすんすんと鳴らして、ぼくは全力でゴロンと転がった!
(おやじ! おやじ! ほんとに帰ってきたんだ!)
――その夜。
おやじはソファに腰を下ろし、ゆっくりとビールを一口飲んだ。
「今回は……いつもの闇医者に、感謝するか」
そう呟きながらも、タバコには火をつけず、指先でゆっくりとそれを回していた。
「……おい、ここでずっと暮らせ。お前は、俺が飼ってやるよ」
おやじの声は、まだ少し掠れていたけれど、驚くほど穏やかだった。
「風呂入って、飯食って、寝て……お前がいれば……それで十分だな」
ぼくは、お腹を見せて無邪気に転がる。
(暮らせ? 今さら何言ってるの?……ほんと素直じゃないなぁ……ぼくのこと、大好きなくせに)
おやじが、静かに笑った。
その表情は、かつて見たことがない顔だった。
怖い顔でも、悲しい顔でもなく――温かい、家族の顔。
――まったく、おやじは本当に不器用で、正直じゃない。
でも……ぼくは、そんなおやじが大好きだ。
〜おしまい〜
ポジティブ猫と殺し屋 I∀ @I_A
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます