5 波乱の新婚生活

 派手なことは好きじゃないという君の希望で、ごく限られた親戚と友人だけを招き、軽井沢の教会で結婚式をあげた。集合写真を撮る時、君は僕の腕につかまって立つとカメラマンに叫んだ。

「早く撮って下さい!杖なしの写真がほしいので!」


 バランスを崩しかけた君を僕が慌てて抱え、ウェディングドレス姿で転ぶのはかろうじて避けられた。取り囲む人たちの笑顔と澄んだ青空。それは僕と君が一番和んでいられた時間だったのかもしれない。




 所帯を持つなら新居が要る。君は意外なことを言い出した。

「空に近いところがいいな」


 ターミナル駅から急行で三駅、各駅停車に乗り換えて着く駅から徒歩八分。高台に一棟だけそびえ建つ、モノトーンの高層マンション。その正面に立って見上げた時、僕は正直気後れしていた。


「高過ぎるんじゃないの?」


「27階だもの当然でしょ」

「違うよ、家賃。いいけど贅沢過ぎじゃ…」

「大丈夫、私もお勤めは続けるし。それに」

 君の表情に、違うものが浮かんだ。

「今までとは違う景色を見て暮らしたいのよ」

 こうして僕らは、俗に言う新婚生活を「天空の城」で始めることになった。




 高層マンションに引越して一ヶ月程たった、夏の走りの頃だった。低気圧に刺激された不安定な空気が局地的な豪雨を降らせた。君のことが気がかりで、僕は残業もそこそこに切り上げ帰路に着いた。


 最寄り駅まで電車はどうにか動いていたが、駅を出るとかなりの雨が降っていた。傘がさせない君は雨が降るとレインコートで家まで歩いていた。これだけ強く降ればずぶ濡れになっているはずだ。


 携帯に電話しても留守番になってずっとつながらない。不安が増す中、やっとたどり着いたマンションは停電していた。


 管理人が入り口に立っていた。オートロックは使えないし、エレベーターも止まっているので歩いてあがってほしいと言われた。君のことをたずねたが、見かけていないと言われ、仕方なく非常階段で27階の部屋を目指した。


 君のことだからエレベーターが動いていなかったら、階段での登頂に挑戦しかねない。もしかしたら途中で倒れている君を見つけるのではないかという心配を抱えつつ階段を登った。


 10階を越えたあたりから、僕の膝はガクガクしだした。19階で息があがり、踊り場で立ち止まって休む。27階にたどり着いたとき、僕はふらふらで幾筋もの汗が背中を流れていくのがわかった。




 玄関のドアを開けると、暗い室内に時折稲妻の瞬きが光っていた。


「優理?」

 居間に入るとベランダの大きなサッシの前に黒い人影が見えた。突然の閃光が炸裂した後、間髪を入れずにすぐ近くで雷鳴が轟き、松葉杖をついて立つ君のシルエットが僕の網膜に焼き付けられた。


 近づいて見ると君は濡れた服を脱いで下着姿だった。バスタオルをかぶってはいるが、普段パジャマのボタンさえ上まですべて留めないと気が済まないことを思うと、それは君にしては考えられないほど無防備な姿だった。濡れた髪が額を覆っている。




「どうした?大丈夫?」


「ここでね、ずっと雷を見てたの。とってもきれいだった」

 うつろな様子で君はつぶやくように言った。

「空が近いのね、ここは。まるで積乱雲の中にいるみたい。一人でここにいると空に溶けちゃった気がした。でも…」

 少しの沈黙がひどく長く感じられた。

「もしもここで何かがあったら…大きな地震とか、テロの飛行機が落ちてくるとか。そしたら私なんにもできない。ゆうちゃん一人で逃げてね」

「そんなこと言うなよ。抱えてでも一緒にいるから。ここが嫌なら、引越したっていいんだし」

「ううん、違うの。ここには住みたい。でも私、誰も守ってあげられない」




 あの時、僕には君がひどく不安定な気持ちを抱えていること以外、何を考え思っているのか、皆目わからなかった。なすすべもなく、バスタオルごと君を抱きしめた。


 時折、目を射るような雷光が瞬き、バリバリという地響きが足元を揺るがすあの部屋で、僕らは永遠と思えるほど長く抱き合っていた。




 朝が来たら、君はいつもの君に戻っていた。少なくとも僕にはそう思えた。そしてしばらくして、僕は再びあの部屋で僕の知らない君と出会うことになった。




 残暑の続くむし暑い日だった。仕事から戻ると、廊下の電気が消えていた。玄関ホールからまっすぐ行った先に居間とダイニングがあり、右にはトイレと風呂に続く廊下がある。暗がりを覗いた僕は、思わず声をあげ

そうになった。廊下の奥でトイレのドアにもたれかかるようにして君が座り込んでいたからだ。




「具合でも悪いの?」


 駆け寄って肩を抱いた。焦点の定まらぬ瞳が泳いでいる。かろうじて君の唇が動いた。

「間に合わなかった、トイレ。しばらくこんなことなかったのに」

 君がいるところに向けて、フローリングの廊下に小さな水溜りが点々と続いていた。僕は君の脇の下に手を入れると力づくで君を立たせた。

「とにかくシャワーを浴びて着替えよう。抱えようか?」

 君は小さく首を横に振ると、両手を伸ばして僕の方へ差し出した。その手に拾い上げた松葉杖を渡して、僕は君を抱きしめた。

「ありがとう」

「あんまり気にしないで。生きてるんだもの、誰にでもあるよ」

「スカート、汚しちゃった、気に入ってたのに。なんだか自分で自分が情けない」


 そう言うと、大粒のしずくが君の頬をつたって流れ落ちた。初めて見る君の泣き顔に心を揺さぶられて、僕はもう一度強く君を抱きしめた。

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