6 小さないさかい

 日曜の朝、僕はうだうだと二度寝を繰り返し、いつまでもベッドから出られなかった。明け方に見た夢が、本当に怖くて不愉快なものだったからだ。風にカーテンがそよぐ音に促され、ようやく寝室を出ると君の姿が見当たらなかった。



 ベランダのサッシの横に揃えて脱がれた靴のように松葉杖が並べて立てかけられていた。僕は恐る恐るレースのカーテンをめくってベランダへと足を踏み入れた。


 黒いエプロンをした君が手すりに手を置き、キャスター付きのスツールに座って外を見ていた。台所仕事のために二人で苦労して探したものだ。僕はゆっくりと君に近づき、遠慮がちに話しかけた。


「何をしてるの?」


「ああ、おはよう。空がきれいだったんで、外を見てた。不思議ね、高いっていうだけでこんなに景色が違って見えるなんて。空が飛べたら、こんな風に街が見えるのかしら」

「どうやってここまで来たの?松葉杖は部屋の方に置いてあったけど」

「うん、椅子をベランダに出して、杖を置いて腰掛けて。思いっきり壁を押したら、ここまでこれたよ」




 勢い余って手すりを越えて落ちてゆく君が思い浮かんで、思わず鳥肌が立った。それはまさに、明け方に見た怖い夢そのものだった。


 君を取り戻したいというあせりから、僕は要らぬ言葉を口にした。

「優理、子どもを作らないか?」

「無理。今の私じゃ赤ちゃんを守ってあげられない」

 二人の間には重い空気がよどんでいた。




 それから数日、普段と同じに時間が過ぎていった。その日、あのやりとりがなければ、君は一本早い電車に乗り、何も変わらない毎日が続いていたのかもしれない。


 テレビでは、朝の情報番組がお決まりのコンテンツを流していた。「我が家のペット」、子犬を引き取った老夫婦が目を細める姿が映っていた。


「かわいいね。動物でも子どもは」

 僕の言葉に君は反発をあらわにした。

「この子はいい人にもらわれて幸せかもしれないけど、彼の兄弟はどうなったの?あてもなく子犬が産まれるのは飼い主の怠慢だわ」


 普段君が言うことに真っ向から反論することはなかった。繊細なガラス細工のような君を傷つけてしまったら、粉々に壊れてしまうように思えたからだ。

 あの朝に限って、僕は君のいらだちを受け止める余裕を持つことができなかった。

「生き物だから、子どももできるよ。あの夫婦もきっと癒されてると思うし」

「じゃ、自分が病気になっても犬にかまっていられる?世話ができなくなったら、それこそ無責任よ」


 本心から言っていないことはすぐにわかった。君は表情を変えずに席を立ち、僕はいつもと同じように松葉杖をわたして手伝った。


「気にさわったら、ごめん」

「いいの、今日は早番だから先に出る」

「わかった。気を付けて行って。鍵は閉めとくから」

「ゆうちゃん」

「何?」

「ホントはやっぱり子どもがほしいんじゃないの?」

 一瞬答えに詰まった。

「僕は優理がいてくれたらそれでいい。いや、いてくれないと困るんだ」

 君は無言のまま部屋を出て行き、それがあの朝、僕らが交わした最後の会話となった。

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