ショートホープのにおい

rinna

ショートホープのにおい

父がいなくなった日、部屋にはショートホープの煙が残っていた。

嫌いだったはずのその匂いが、今は少し恋しい。



父がいなくなった朝、部屋にはショートホープの匂いがうっすらと残っていた。


灰皿の中には半分だけ吸われたままの煙草が一本。煙はもう出ていなかったけれど、あの独特な甘くて乾いた匂いだけが、壁に、カーテンに、染みついたように残っていた。

子どもの頃からずっと嫌いだった。父の手の匂い、車の中の匂い、怒鳴る声の合間に漂っていたあれ。煙草の煙と一緒に、怒りや苛立ちがいつもくっついていた気がして、好きになれなかった。


だけど、その日は違った。


なぜだろう。玄関には鍵が差しっぱなしで、冷蔵庫の中には朝食の準備の途中だったような卵とパン。携帯電話も財布も置いたまま。なのに父の姿だけが、どこにもなかった。

病院にも警察にも電話した。行きそうな場所をいくつも回った。でも、見つからなかった。


部屋に戻ると、やっぱりあの匂いがした。

ショートホープの、あの、どこか懐かしくて、少し切ない匂い。


時間が経つにつれて、あの煙草の匂いが、自分の中で別のものに変わっていくのを感じた。

怒りの象徴ではなくて、確かに「そこにいた」という証のような。

置き去りにされた、じゃなくて、何かを残していってくれたような。


あの日から半年が経った今でも、誰も父の行方を知らない。


でも時々、ふと街角でその匂いを嗅ぐと、立ち止まってしまう。

もしかしたら近くにいるんじゃないかって、期待してしまう。

あの手の中にあった、ショートホープと火種みたいなものが、まだどこかでくすぶっているんじゃないかって。


嫌いだったはずのその匂いが、今は少し恋しい。

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