0-3 「ありがとう」が消えた日
それは、午後の帰り道だった。
学校からの帰り、ミカはいつものように祖母の家に寄っていった。週に二度、寄り道をして祖母とお茶を飲み、おしゃべりをするのが習慣だった。
けれどこの日は、門の前に立ったときから、空気が違っていた。
玄関は開いていた。中からは、食器が触れ合うかすかな音と、かすれた鼻歌のような旋律が聞こえていた。祖母はいつものようにお茶を淹れてくれていた。でも、その手つきはどこかぎこちなく、湯呑みの揺れが落ち着かない。
「おばあちゃん、今日もありがとう」
そう言おうとしたミカの口が、言葉の途中で止まった。
ありがとう――それは、確かにいつも使ってきた言葉。
でも、音が、形が、意味が、口の中からすり抜けていく。まるで息を吐いた瞬間に霧になって消えるように。
「……?」
声にはなった。でも、何を言ったのか、自分でもわからなかった。
ミカは唇を結び直し、今度こそ言葉にしようとした。
祖母に向かってもう一度口を開く。けれどその瞬間、祖母がミカの顔を見て、はっと目を見開いた。
そして、ゆっくりと、首を横に振った。
「……ミカちゃんも、なのね」
そうつぶやいた祖母の声には、悲しみと覚悟が混じっていた。
「今朝、わたしも……仏壇の前で、あの人に言えなかったの。毎朝ずっと、欠かさず言ってきたのに。言えなかったのよ」
あの人、というのは祖父のことだった。五年前に亡くなってから、祖母は毎朝手を合わせて「ありがとう」と言い続けてきた。雨の日も、寝坊した日も、一度も忘れずに。
「声に出そうとしても、出ないの。ただ……何かを忘れてしまったような、すごく怖い気持ちになるのよ」
ミカは、祖母の手にそっと触れた。細くて、あたたかくて、少し震えていた。
「言葉が、消えてるの」
そう口に出したとき、ミカ自身もその事実をようやく正面から認めたような気がした。
ただ音が出ないのではない。
ただ記憶が曖昧なのではない。
世界から、本当に、言葉が消えている。
しかも、それはただの記号の消失ではなかった。
「ありがとう」が消えるということは、感謝の形がなくなるということだった。
言いたいのに、伝えられない。
伝えられないから、伝えようとすること自体を、やがて誰もやめてしまう。
そうやって、心と心の距離は、少しずつ遠ざかっていく。
祖母は目を伏せ、手のひらをぎゅっと握った。
「このままだと……言いたいことが、全部、消えていく気がするの」
ミカは黙ってうなずいた。そして、自分のリュックからノートを取り出した。昨日、空白のままにした日記のページを開き、ボールペンを握る。
一文字ずつ、ゆっくり書く。
「ありがとう」
音は出ない。でも、書けた。記憶に残るわずかな形を、指先が覚えていた。
ミカはそのノートを祖母に差し出した。
祖母はそれを見て、しばらく動かなかった。やがて、小さくうなずき、微笑んで――その目に、静かに涙をにじませた。
言葉は消えても、伝わることがある。
それを、この日、ミカははっきりと知った。
それでも、彼女の胸には焦りと痛みが残っていた。
もしこのまま、言葉がすべて消えたら。
今、自分が感じているこの想いさえ、消えてしまうのだろうか。
そう思ったとき、彼女の中にひとつの決意が芽生えた。
まだ残っている言葉を、記録しよう。
そして、たとえそれが消えても、別の形で伝える方法を探そう。
言葉が消える前に、私は、まだできることがある。
その夜、ミカは初めて日記の最後に、絵を描いた。
祖母と祖父が並んで立っている、優しい線の絵だった。
吹いている風は、なぜかほんの少しだけ、温かく感じられた。
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