【第一章】言葉のない日常
1-1 残響を聞く耳
「この道、こんなに静かだったっけ?」
ミカは独り言のつもりでつぶやいたが、自分の声がやけに空虚に響いた。
通い慣れた通学路は、まるで音を吸い込む布で包まれたように、どこか異質な沈黙をまとっていた。
道端の掲示板には、新しい“言葉リスト”が貼り出されていた。
『本日以降、以下の語が機能不全化しました。対応策としてジェスチャー表または色符号をご使用ください。』
その下に並ぶのは、見慣れた単語たち。
「嬉しい」「悲しい」「約束」「信じる」──そのすべてが、ただの黒い線に見えた。
ミカは思った。
このままだと、世界は“気持ち”を伝える手段すら失ってしまう。
放課後、ミカは学校の図書館に立ち寄った。けれど書架には、カバーがかけられた本が多く、貸し出し禁止の赤札が目立った。言葉が抜け落ちていく現象に対応できず、記述内容が保証できないという理由で、次々に閉架にされていた。
「このままじゃ、わたしたちの世界は“話せないまま終わってしまう”」
言葉に対するそんな不安が募るなか、ふと、隣町の廃図書館の噂を思い出した。
「まだ“声が残ってる”場所があるらしい」
誰かがそう言っていた。誰だったかは思い出せない。けれど、その言葉だけは妙に耳に残っていた。
週末、ミカは地図にも載っていない旧区の奥に足を踏み入れた。崩れかけたアーケードの先、赤茶けた建物が姿を現す。門には錆びたプレートが残っていた。
〈言語・記録資料館〉
扉は意外にもすんなりと開いた。
中は、湿った紙の匂いと古いインクの香りが満ちていた。
棚には古書、新聞、録音テープ、タイプライター、活版印刷機までが整然と並んでいる。まるで時間が止まったかのようだった。
「お客さん?」
声がした。
振り返ると、薄暗い書架の間から、一人の青年が現れた。
黒いコートに無精ひげ。手には厚手のノートとペン。
「驚かせてごめん。ここはもう閉館扱いなんだけど、僕が勝手に住み着いてる。言葉拾い、ってやつをしてるんだ」
ミカは驚いたが、その声にはどこか安心感があった。聞き取れる“声”が、人の声としてちゃんと届いたのは、何日ぶりだろう。
「あなた、名前は?」
そう問うと、青年は静かに笑った。
「ホウジン。まあ、ただの記録オタクだよ。
……でも君、珍しいね。今どきの子で、“聞こえてる”って顔してる」
「聞こえてる……?」
「そう、残響が。消えかけの言葉が、まだ“この世界にある”って、わかってる目だ」
ミカは思わず身を乗り出した。
「本当に……残ってるんですか? 言葉。完全に消えてないんですか?」
ホウジンは頷いた。そして、棚から古いカセットテープを取り出した。
ラベルには、こう書かれていた。
『ありがとう 1998年録音 女性音声』
再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの音のなかに、かすかに女性の声が浮かび上がる。
「……り……と……う……」
言葉は歪んでいる。それでも、確かにその断片には、**“感謝の響き”**が宿っていた。
ミカは目を見開いた。胸の奥に、あの朝の記憶が甦る。
祖母に伝えられなかったあの言葉が、ここに、まだ息をしていた。
「私は……この言葉を、取り戻したい」
その言葉に、ホウジンは少しだけ目を細めて言った。
「じゃあ、手伝ってよ。記録する手は、いくらあっても足りないんだ。
世界は、まだ忘れてしまったわけじゃない。ただ、“思い出せないだけ”なんだよ」
ミカは小さく、強くうなずいた。
その日、彼女の中で何かが変わった。
受け身だった日々に、はじめて“探す”という意志が宿った。
そして、ホウジンが手渡してくれた黒いノートの1ページ目に、彼女は震える手でこう書いた。
「ありがとう、きっとまだ、ここにある。」
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