0-2 日記に書けない文字
夜、ミカは机に向かっていた。
いつもと同じように日記帳を開き、ペンを持つ。何も特別なことがあったわけじゃない。ただ、いつもと同じ、はずだった。
ページの左上に、日付を書いた。
「4月17日 火曜日」
そこまでは問題なかった。
だが、書き出しで手が止まる。ミカは文字を書く前に、無意識のうちに口の中で言葉を反芻する癖がある。けれど、今夜はその音が、どこにもなかった。
今日はだれにも――「……」――が言えなかった。
その空白に、本来入るはずの“ある言葉”が、頭の中に浮かんでこない。声に出せないだけじゃない。意味も、文字も、音も、まるで“記憶のシルエット”だけがそこにあるみたいだった。
ミカはゆっくりと深呼吸して、手を動かす。
「今日はだれにも が言えなかった。」
空欄のまま、ペンを止めた。ふと、焦りを感じる。
まるで、誰かに言葉を奪われているみたい。
そう、言葉を“忘れている”のではなく、“奪われている”感じ。
目に見えない手が、彼女の記憶の棚から、ひとつずつラベルを剥がしていくような。
翌朝、再び日記を見返してみても、昨日の空欄はそのままだった。けれど、不思議なことに、その“空白”はまるで意味を持っているように見えた。ミカはそこに何かがあると分かっているのに、それが何かを認識できない。
もどかしさ。むなしさ。恐ろしさ。
ミカはふと、家の本棚から小学1年生のときに使っていた音読帳を引っ張り出してきた。ページをめくると、かつて読んだことのある詩や文章が並んでいる。
でも、いくつかの単語が抜け落ちていた。
「お よう の声で はじまる あさ」
そこには、もはや意味をなさない文だけが残っていた。
ペンでなぞろうとしても、どうしてもその“音”が頭に浮かばない。
ミカはページを閉じて、顔を伏せた。
「ねえ、どうして、誰も騒がないの?」
世界はこんなにおかしいのに。テレビもネットも新聞も、ただ静かに“起きていること”を伝えるだけで、それがどれほど異常なのか誰も言わない。
それは、もしかしたら――
“異常”という言葉さえも、もう使えなくなっているからなのかもしれない。
ミカはまた日記を開き、空白のままの行をじっと見つめた。
やがて、その下に小さな文字で、こう書き添える。
「ここにあった言葉を、わたしはまだ覚えていたい。」
それは誓いだった。
たとえ思い出せなくなっても、消えた言葉たちをただ見送るだけにはしたくなかった。
そう強く思ったとき、ミカの耳に小さな声が聞こえたような気がした。
それは、風の音か、記憶の残響か。
あるいは、消えてしまった言葉が、まだどこかで生きているという、希望のようなものだった。
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