残響のない声たちへ
Algo Lighter アルゴライター
【プロローグ】最初の沈黙
0-1 言葉が消える朝
朝、目が覚めたとき、ミカはいつものように窓を開けた。冷たい春風がカーテンを揺らし、少し眠そうな光が部屋に差し込んできた。
「……」
口を開いて、いつものひとことを言おうとしたが、音が出なかった。いや、正確には、音は出た。喉も舌も、動いていたはずだった。けれど、その言葉が、なぜか“思い出せなかった”。
「……あれ?」
口の中にあったはずの言葉が、舌の上から滑り落ちて消えてしまったみたいだった。
いつもなら、お母さんに階下から「おはよう」と声をかける。猫のムギにだって、同じようにあいさつする。なのに今日は、それができない。思考の中に言葉の“音”がない。声に出す以前に、その意味が空白になっていた。
ミカは首をひねったまま階段を降りた。
「……ん?」
リビングでは母がテレビを見ていた。だが、ニュースキャスターの口元は何かを動かしているのに、字幕だけが表示されていた。
『昨日、複数の学校で朝のあいさつに関する混乱がありました――』
あいさつ?
その言葉も、なんだか頭の中で霞がかかっているように感じる。
「お母さん」
呼びかけると、母が振り返る。微笑んで、ミカに手を振った。でも――何も言わなかった。
「ねえ、どうしたの? 声……出せないの?」
ミカがそう言うと、母は一瞬きょとんとした顔をしてから、控えめに笑って、口を閉じたまま食卓に戻った。
違う。これは、声が出ないんじゃない。
言葉が、ないんだ。
そう気づいたのは、学校についてからだった。
通学路で、誰一人として声を発していなかった。校門の前では先生が手振りで生徒を誘導していたし、ホームルームでは黒板に「今日から、朝の決まりごとが変更されます」という文字が書かれていた。
“朝の決まりごと”って、なんだろう。
“朝のあいさつ”は、どこに行った?
ミカは手帳を取り出し、ページの片隅に書こうとした。
「今日は、だれにも “〇〇” が言えなかった」
――〇〇。
その場所に書くはずの言葉が、浮かばなかった。
目を閉じる。昨日までの朝を思い出そうとする。でも、昨日の自分が口にした“それ”が、音にも意味にもなって思い出せない。
それは、まるで言葉という概念そのものが、この世界から削除されたような感覚だった。
周囲の友達も、いつもより表情が硬かった。おしゃべりだった子も、にぎやかな男子も、なぜか静かだった。
誰かが言った。「変だね」と。
けれど、「変だ」という言葉も、きっと明日にはもう使えなくなる。
ミカは、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。何かとても、大事なものが失われ始めている。その不安が、彼女の体を静かに包み込んでいった。
その日の午後。校内掲示板に、ひとつの紙が貼られた。
《重要:以下の言葉の使用が困難になった場合は、筆談または代替手段を用いてください》
そして、その下に一語だけ――
『おはよう』と書かれていた。
それを見た瞬間、ミカははじめて知った。
世界は、音もなく壊れはじめているのだと。
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