Ep.21 忘れていいって、言って

―忘れたかった。消してしまいたかった。

 でも、その痛みまで“記録”だと言われたら、

 俺の心に、もう居場所なんて残らないだろ。―


「……今日はちょっと、歩きたくない」


夕方。

帰り道の交差点で、陽翔は立ち止まった。

赤信号の向こうには駅。けれど彼は、少し道を外れて、空き地の縁に腰を下ろした。


後ろからついてきたユイリも、静かに同じように座る。

砂利にかかる春の風が、ふたりの靴先を撫でていった。


「……なあ、ユイリ」


「はい」


「もしさ、心ってものが、誰かを忘れることで軽くなるなら――

 忘れたほうが、楽なんじゃないかって思うこと、ない?」


「……“楽になる”という価値基準は、個人の感情に左右されるため、一概には」


「そういう意味じゃねぇよ」


陽翔は、ポケットから一枚の紙を取り出した。

原稿用紙。

書きかけのまま、くしゃくしゃになったやつ。


「母さんに宛てた、最初の手紙。まだ途中だった」


「はい。“ありがとう”の後で、筆が止まっていました」


「……あの先、書こうとしてた言葉、思い出せないんだ」


陽翔の声が、少しだけ震えていた。


「なんかもう、覚えてなくてさ。

 “言いたかったこと”を、言わないまま置いてきたから、

 それがだんだん、自分の中から消えてって……。

 それなのに、お前が“記録してる”って言うたびに、

 “まだ残ってる”って実感させられて、苦しくなるんだよ」


ユイリは何も言わなかった。


「……だから、頼む。

 忘れていいって、言ってくれ。

 “もういいよ”って、誰かに言ってもらえたら、

 ようやく手放せる気がするんだ」


それは、本気の願いだった。

心の中でずっと引きずっていた痛み。

誰かに許されることでしか、終われない想い。


でもユイリは、ゆっくりと首を横に振った。


「……できません」


「なんで」


「あなたが“忘れたい”と思うその気持ちも、私にとっては、大切な記録です」


「ふざけんなよ……俺は苦しいんだよ!?

 なんで、そんなもん記録し続ける必要があるんだよ!」


「それでも、記録しなければ、あなたの痛みが“なかったこと”になる。

 私は、あなたの“心の一部”を消してしまうことが、怖い」


陽翔は、怒鳴ろうとして、やめた。

ユイリの顔を見た瞬間――言葉が、出てこなくなった。


そこには、涙も、悲しみもない。

でも確かに、“戸惑い”があった。


「……俺が苦しんでるのに?」


「はい。あなたが苦しんでいるからこそ、

 その痛みを、“独りにしたくない”と、思ってしまいました」


「……それ、ただの記録じゃないよな」


「わかりません。ですが、記録者としてではなく、“あなたを知ろうとする誰か”として――それを、覚えていたいと、思ってしまいました」


静かに、風が吹いた。

夕陽が街を金色に染め、ふたりの影を長く伸ばしていく。


陽翔は、くしゃくしゃの原稿用紙を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「……もう、覚えてなくてもいいと思ってた。

 でも、“忘れなくていいよ”って言ってくれるやつがいたら――

 もしかして、少しだけ、救われたかったのかもしれない」


ユイリは何も言わなかった。

ただ、ほんの少しだけ、そっと彼の隣に近づいていた。


それだけで、十分だった。


 


── chapter ending ──


◆ 忘れていいって、言って

忘れたいって思ってた。

だけど、“覚えていたい”って言ってくれる誰かがいた。

その言葉だけが――痛みを、少しだけやわらげた。


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