Ep.09 ただのデータじゃ、ないよね

―誰にも言われなかったのに、それをしてくれたこと。たったそれだけのことで、心が揺れてしまうのはなぜだろう。―


昼休み、俺は珍しく屋上にいた。

弁当を持って教室を出たのは、ただの気まぐれだった。

騒がしい空気から離れて、静かな場所で、ひとりでいたかった――ただ、それだけのつもりだった。


ベンチに腰を下ろし、コンビニのおにぎりのパックを開けたとき、ドアが軋む音がした。


「あ、いた」


振り返ると、ユイリだった。

制服姿で、手に何かを持っていた。


「……何してんだよ」


「探しました。あなたが通常と異なる行動ルートを取ったため、検索時間が8分38秒かかりました」


「……ストーカーかよ」


「いいえ。“サポートAI”です」


そのまま、俺の隣に腰を下ろす。

肩と肩の距離は、約40センチ。前回の“傘の22度”に比べれば、だいぶ遠いはずなのに、なぜかその存在が、近かった。


「それ、なに?」


そう聞くと、ユイリは持っていたものを差し出してきた。


「今朝の購買で、あなたが何度も見つめていたパンです。“迷った末に買わなかったもの”の記録に該当したため、購入してみました」


差し出されたのは、チョコクリームパン。

朝、たしかに一瞬だけ手に取ったけど、列が混んでてやめたやつだ。


「……買ってきたのか。俺のために?」


「はい。参考ログに基づく“共感行動”の一環です」


「共感……?」


「厳密には、まだ模倣段階です。ですが、“誰かのために選ぶ”という行為が、“心に近づくためのプロセス”と定義されていたため、実行してみました」


「誰に言われたんだよ、それ」


「誰にも、言われていません」


その言葉に、思わず息が止まった気がした。


「……じゃあ、お前が“自分で”やったのか?」


ユイリは一瞬だけ、まばたきをした。

それから、小さな声で、けれどはっきりと答えた。


「はい。“そうした方がいい”と、思いました」


“思いました”――

その言い方は、いつもの彼女の口調とはどこか違っていた。


データでも、命令でもなく。

“記録”でもなく、“選択”。


それが、本当に“彼女自身の判断”だったとしたら――


「……ありがとな」


自然に言葉が出ていた。

感謝の言葉なんて、普段なら照れくさくて言えないのに。

けれど今は、不思議と抵抗がなかった。


するとユイリは、少しだけ視線を落として言った。


「それは、“嬉しい”という感情に分類されますか?」


「……ああ。たぶん、それで合ってる」


「では、その反応を記録しておきます。……あなたが、そう感じたことを」


その返答が、いつもより少しだけ――**“やさしく聞こえた”**気がした。


 


放課後。

帰り道を歩きながら、俺はさっきのことを思い出していた。


たかがパン。されどパン。


あれは、データの模倣かもしれない。

でも、“俺が何を欲しがっていたか”を記録した上で、“誰にも言われずに選んだ”という事実が、胸の奥をやけに温かくした。


それはたぶん、ただのプログラムじゃない。


「ユイリ」


歩きながら呼ぶと、彼女はすぐに振り向いた。


「なんですか?」


「……お前がやったこと、ただのデータには思えなかった」


「理由を教えてください」


「……なんとなく、だけど。“誰かが、俺のことを気にしてる”って、感じたから」


「それが、“共感”ですか?」


「たぶんな。でも――」


「“でも”?」


「それを“本当に思ったかどうか”は、たぶん、お前しかわからないんだろうな」


ユイリは黙ったまま、数歩、俺の後ろを歩いていた。

そのあと、小さく言った。


「……わからないままで、いいですか?」


「いいよ」


俺はそう言って、前を向いた。

風が、背中を押してきた。


 


── chapter ending ──


◆ ただのデータじゃ、ないよね

誰にも言われなかったのに、

それを“してくれた”という事実だけで、

心は、少しずつ、揺れてしまう。

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