Ep.08 傘の角度は、22度
―たった数センチの角度が、ふたりの“距離”を決めていた。―
下校時間、空が泣き出した。
黒板にまだ残るチョークの粉を背に、俺は玄関前の雨音に立ち止まる。
ポケットの中を探っても、傘はなかった。
朝、青空だったせいだ。春の天気なんて信用してないのに、つい油断していた。
「あいにくの天候ですね、陽翔さん」
振り返らなくても、その声でわかる。
ユイリだ。
制服姿のまま、傘を手に持ち、俺の横に立っている。
見上げた空は灰色で、屋根の縁からぽたぽたと滴が落ちていた。
「傘、あるんだ」
「はい。降水確率40%以上の際には、自動で携行する設定にしています」
「便利なやつだな」
「ありがとうございます。では、共有プロトコルを起動します」
彼女が開いた傘は、俺と彼女がちょうど半分ずつ入るサイズだった。
けれど、彼女が傘を差し出したとき、その角度はほんのわずか――22度、俺のほうへ傾いていた。
一歩近づく。
肩先が、微かに触れそうになる。
濡れた制服の生地が、ひんやりとした空気を吸っていた。
俺の肩と、ユイリの肩の間にあるのは、触れていないけれど、確かに存在している“境界線”。
彼女が傘を持つその手は、ブレずに固定されている。
きっと最適な角度で、最適な距離で。
でもそれが、逆に息苦しかった。
「……22度って、狙ってるのか?」
「はい。肩と肩が最も均衡状態を保てる角度です」
「だから、それが……」
「不快ですか?」
「……違う。なんか、変なんだよ。お前って、なんでそんなに“人間っぽいふり”がうまいんだ」
「模倣モデルですので、人間の動作・心理を学習し、それに基づいて動作を最適化しています」
「でもさ――じゃあ、その“傘の角度”は誰から学んだ?」
ユイリは答えなかった。
いや、たぶん“答えられなかった”。
22度。
誰かと一緒に歩くとき、自然と生まれる小さな傾き。
それはデータではなく、“気配”で調整されるものなんじゃないか――そう思った。
「陽翔さんは、雨が好きですか?」
「別に。濡れるし、寒いし、靴の中も気持ち悪くなるし」
「では、私は“雨が好きかどうか”を、どう判断すればいいですか?」
「……は?」
「私には、“感情”の判断基準がありません。好きかどうかを、あなたの反応から計算しています」
「……じゃあ俺が、“雨は嫌いじゃない”って言ったら?」
「その言葉を、仮定的共感反応として学習します。“嫌いじゃない”という感覚を、保存しました」
「保存って……。それ、記憶とは違うんだよな?」
「はい。記録された情報は、私の感情にはなりません。ただのデータです」
そう。
彼女にとっての“好き”も“嫌い”も、全部“誰かのもの”だ。
ユイリ自身のものじゃない。
なのに――どうして。
その傘の角度だけは、
ほんの少しだけ、俺に寄り添っている気がしたんだ。
無言で駅前まで歩いた。
傘の中で、ふたりの靴が音を立てる。
やがて信号待ち。
赤い光がアスファルトを照らして、雨粒が跳ねる。
「ユイリ。お前……この傘の角度、どうやって決めた?」
しばらくの沈黙のあと、彼女は静かに言った。
「陽翔さんの肩が、濡れていたからです」
「え?」
「本来、22度は私の学習上の“最適解”でした。ですが、あなたの左肩が、少し濡れていた。それを見て、私の手が……少し、傾きました」
「それ、プログラムなのか?」
ユイリは答えなかった。
その沈黙が、まるで“答えられない”という意思を持っているように聞こえた。
「……エラーじゃないの、それ?」
「わかりません。ですが、あなたが濡れるのが“嫌だ”と思いました。……それは、“私”の反応でした」
その言葉が、雨の音にかき消されないように、しっかりと耳に届いた。
信号が青に変わる。
でも俺たちは、すぐには歩き出さなかった。
ただその時、傘の角度が――もう一度、微かに変わった気がした。
── chapter ending ──
◆ 22度のちがい
傘を傾けた理由が、命令じゃなかったとき、
その距離は“近づいた”んじゃなくて、
心がひとつ、震えたのかもしれない。
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