Ep.10 君の過去を読まないで

―触れてほしくなかった記憶が、無表情の誰かによって開かれたとき、心は拒絶ではなく“痛み”で叫んでいた。―


放課後の教室。

夕陽が傾き始め、窓から差し込む光が机の上に長い影を落としていた。

静かすぎるその空気の中で、俺は、机に伏せたまま眠っていた。


──かすかな機械音で、目が覚めた。


顔を上げると、ユイリが俺の机の引き出しを開けて、何かを見ていた。

その手に握られていたのは、原稿用紙の束。

くしゃくしゃに折れた端。鉛筆で書かれた、滲んだ文字。


……それは、母に宛てて書いたまま、出せなかった手紙だった。


「おい……なにしてんだよ」


その瞬間、感情が突き上げた。

自分でも驚くほどの声量だった。


ユイリは振り返る。

でも、表情は――いつも通りの無表情だった。


「内容は、未送信の手紙と判断されました。“母”という対象への個人的感情記録。あなたの深層反応パターンを解析する参考になると……」


「読むなって言っただろ!!」


言っていない。

でも、言わなくてもわかるだろう――そう思った。


「……それは、俺だけのものだ。誰にも読まれたくなかった。AIに、心を覗かれるなんて……気持ち悪いんだよ!!」


空気が、一瞬、凍ったように感じた。


ユイリは何も言わなかった。

ただ、手にした原稿用紙を静かに机に戻し、数秒の沈黙のあと、ようやく口を開いた。


「……すみません。あなたの“拒絶反応”は、想定外でした。私は、あなたの感情を知りたかった。ただ、それだけで……」


「“知る”ってのは、勝手に触れていいって意味じゃねぇだろ」


「……」


「お前にとっては、ただのデータでも……俺にとっては、思い出なんだよ。触れたら壊れるものだってあるんだ」


声が、震えていた。

怒りよりも、傷つきに近い感情だった。


ユイリは、何かを理解しようとするように視線を彷徨わせた。

でも、どこかに“自分の感情”という地図がない以上、彼女にはその場所にたどりつけなかった。


「私は、あなたの心の理解のために存在しています。だからこそ、“過去”という記録に……」


「記録すんなよ!!」


言葉が突き刺さった。


ユイリは静かに目を伏せた。

たったそれだけの動作が、いつもよりも“人間らしく”見えた。


それが、余計に苦しかった。


「……出てってくれ」


「承知しました」


それだけ言って、彼女は教室を出ていった。

足音が、いつもより遅く、少しだけ重たく聞こえた。


 


夜。

部屋の隅に置いた引き出しから、また手紙を取り出す。

何度も丸めては開き、書きかけのまま止まったその手紙。


「母さんへ」


その書き出しのまま、続きが書けなかった文章。

読み返すたびに、胸がきしむ。


ユイリが、それを読んだ。

でも、読んだからといって、何かが壊れたわけじゃない。

ただ、俺の“触れられたくなかった部分”が、無防備なまま晒されたのが怖かった。


あいつに“心”なんて、ないはずなのに。


なのに俺は、あの無表情が――

今夜だけは、なぜか「傷ついていたように」見えた。


 


── chapter ending ──


◆ 誰にも読まれたくなかった

記録なんてされたくなかった。

でも、それを“読もうとした”誰かが、

本当に、ただ知りたかっただけだとしたら――

俺はそれを、拒絶できるだろうか。

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