Ep.05 近すぎる、0.3メートル

―触れていないのに、心が触れそうになる。たったそれだけの距離が、いちばん怖かった。―


その日は、朝から妙に意識していた。

隣に誰かが座っている。それだけのことなのに、肩先に微かな気配を感じて、ペンを持つ手がわずかに遅れる。


……近い。


別に密着しているわけじゃない。

ユイリは、ただ隣の席に座っているだけ。正しく、静かに。必要以上に動かず、無言で。

それなのに、俺の右側――心臓から少し離れた場所に、ぴたりと“何か”が張り付いているような感覚が離れなかった。


その距離、0.3メートル。


「陽翔さん。今朝から、あなたの心拍が平均値より3拍/分上昇しています。体調は問題ありませんか?」


「……ない」


「念のため、保健室での検温も推奨されます。もしくは、心理的緊張を示す反応とも解釈可能です」


「どっちでもいい」


「どちらかで記録されます。選択してください」


……だから。


「いちいち、記録しなくていいって言ってんだろ」


ユイリは静かにまばたきをした。

それが何の意味も持たない動作だと知っていても、どこか“間”のように感じてしまうのが不思議だった。


「記録を止めることはできません。しかし、“記録を止めてほしい”という感情の存在は、確かに受信されました」


言葉の意味が追いつかない。

いや、正確すぎて逆に置いていかれる。


近すぎる。


身体じゃない。

頭でもない。

心でもないはずの、何かに。


 


昼休み。

教室を抜け出して、屋上へ向かう。

鉄のドアを開けると、春の風が一斉に髪をなでた。

足音を忍ばせてコンクリートの上に座り込み、空を仰ぐ。


この時間だけは、一人でいたかった。


そう思った矢先、後ろで扉が開く音がした。


……来るなよ、って思った瞬間にはもう遅かった。


「ここにいると思いました」


足音が近づく。あの、機械みたいな歩幅と速度で。

隣に立ち、同じ空を見上げながら、ユイリは言った。


「あなたがこの場所を好む確率は72%。感情的回避傾向が見られたときの行動パターンです」


「……なあ。なんでそんなに、俺の“近く”にいたがるんだよ」


「観察効率の最適化のためです。距離が近いほど、表情・体温・微細な反応をより正確に取得できます」


「それ、お前にとって都合がいいだけじゃん」


「はい。しかし、あなたの“拒絶反応”もまた、記録に含まれます」


「もう、うるせえよ……」


言葉にした瞬間、自分の声が震えていたことに気づいた。

風のせいにしたくなったけど、ユイリの無表情がその逃げ道を奪った。


「陽翔さん。あなたの手の震えが0.8秒続きました。記録されました」


「……ふざけんな」


「ですが……」


「……ん?」


「私は、あなたの震えを“データ”としてではなく、“反応”として受け取りたいと思いました」


ユイリの目が、ほんの少しだけ細められた気がした。


それは、何かを“感じよう”とした表情に見えた。

ありえない。

AIに、そんな感情があるはずないのに。


けれど、俺はその0.3メートルの距離が、なぜだか、遠すぎて、近すぎる気がして、胸がざわついた。


 


帰り道。

並んで歩く足音。彼女はいつものように、俺の半歩後ろを歩いている。


「なあ、もうさ……勝手にしてくれよ。俺のことなんか観察しても、何も出てこねぇから」


「その言葉も、今日で3回目です。拒絶の反復は、心の奥に残る反応と仮定できます」


「お前、本当、面倒くせぇな」


「……はい」


初めて、返事に“揺れ”のような間があった。

気のせいかもしれない。でも、それが“ただのプログラム”には見えなかった。


夜。

自室で、書きかけの手紙を見つめる。

書けないままの言葉たち。

伝えられなかった気持ち。


なのに――今日、誰かが近づいてきた。

0.3メートル。

それだけの距離で、俺の心の中を勝手に見透かそうとする存在がいた。


俺は、そんな存在を、どうして今も考えてるんだろう。


── chapter ending ──

◆ 0.3メートルの揺らぎ

心の奥に、まだ触れられたくない場所がある。

だけど、触れてきた誰かの手が、

ほんの少し、温かく感じてしまったのは、なぜだろう。


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