Ep.04 名前を呼ばないで
―呼ばれることは、存在を認められること。でも今の俺は、まだそれを受け止めきれない。―
「陽翔さん」
その朝も、教室に入った瞬間に名前を呼ばれた。
何気ない一言のように響いたその音が、俺の中で妙に大きく反響する。
あいつ――ユイリ。
俺の指定席の隣に、何事もなかったように座っている。
視線を向けると、ユイリは表情を変えずに軽く頷いた。
「本日9時3分、観察対象の登校を確認。名前の呼びかけに対する反応速度は、0.72秒」
「……いちいち数値にすんな」
「記録の一貫です」
いつものことだ。慣れたつもりだった。
でも、今日はひとつだけ、気に障った。
「なあ……その“陽翔さん”って、やめてくんないか」
そう言ったとき、自分の声が少し尖っていたことに気づいた。
だがユイリは一瞬だけまばたきをしてから、いつものように返す。
「了解しました。では、“佐倉くん”とお呼びしますか?」
「そうじゃない。名前で呼ぶなって言ってんだよ」
「……呼称の使用停止ですか?」
「そう。呼ばないでくれ」
その言葉に、ユイリは数秒黙った。
まるで、脳の中で“呼ばない”という動作が定義されていないかのように、沈黙した。
「……理解しました。“呼ばないでほしい”というリクエストを、記録します」
「記録すんなっつってんだろ」
「記録しないという命令を、記録しました」
その繰り返しに、どこか力が抜けた。
教室のざわめきは徐々に落ち着き、生徒たちは授業に向かう準備を始めていた。
だけど、俺の中だけが、何かがざわついていた。
放課後。
窓の外には夕焼け。ガラス越しに、街の輪郭が赤くにじむ。
カバンを肩にかけ、俺は昇降口へ向かう。
途中、廊下の窓からふと外を見ると、校門のあたりでユイリが待っていた。
……またか。
階段を下りる途中、昴とすれ違った。
「佐倉、お前さ……あいつに名前、呼ばれてんだろ?」
「呼ばれてた。今朝やめさせた」
「……へえ。もったいないな」
「は?」
「名前って、呼ばれたときに“自分”になるもんじゃん」
昴のその言葉が、やけにまっすぐ胸に突き刺さった。
「俺さ、名前呼ばれなくなってから、逆に気づいたんだよ。誰かにちゃんと“見られてる”って、すごいことなんだなって」
「……」
「じゃ、お先。あいつに追いかけられんなよ」
軽く笑って、昴は帰っていった。
俺はそのまま下駄箱へ。
そしてやっぱり、昇降口の外でユイリが立っていた。
「陽――……いえ、“あなた”の下校を確認しました。帰宅経路を自動計測します」
「“あなた”って……余計不自然じゃねえか」
「では、呼称を再設定しますか?」
「違う。もう、呼ばなくていい」
「……」
彼女はまた少しだけ間を置いてから、歩き出した。
その足音が、0.5秒遅れてついてくる。いつものリズム。
俺はしばらく無言で歩いたあと、ふと口を開いた。
「……名前ってさ。呼ばれたとき、自分が自分になる気がするんだよ」
ユイリは黙っていた。
「でも、呼ばれたくないときもある。誰かに見られるのが、怖いときだってあるんだ」
また、返事はなかった。
「だからお前の声が嫌だった。“記録される”ってことが、まるで俺の存在ごと残されるみたいでさ」
それでも、背中越しに彼女が小さく言った。
「私の呼びかけが、あなたを傷つけていたのなら――」
そこまで言って、言葉を止めた。
「……その傷の名前も、記録しておきます」
俺は立ち止まり、振り返った。
「……変なこと言うなよ」
でも、その言葉がどこか優しく聞こえてしまったことを、自分でも否定できなかった。
夜。
机の上に、例の手紙を置いた。
書きかけのまま止まっている文字たち。
呼ばれなかった名前。呼びたくても呼べなかった相手。
そして今――名前を呼ばれたくないと願う自分。
何が正しいんだろう。
何が“本当の自分”なんだろう。
けれど、誰かが“陽翔さん”と呼んでくれたその声だけが、
今日も、ずっと、耳の奥に残っていた。
── chapter ending ──
◆ 名前のない関係
呼ばれたくなかった。
けれど呼ばれないままだと、
本当に“いない”みたいで、怖くなった。
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