第8話 銭湯

「銭湯カメオ湯」



 シティのはずれに銭湯があることを知り、自動車工場の面々と出掛けた。

 日曜日、まだ陽も高い3時過ぎ、4人と私は風呂おけを持ってシティの商店街で待ち合わせ、バスに乗った。

 たまにはゆっくり湯でも入って、のんびりしないかと兄やんが誘ってくれたのである。バスは町を抜けて畑地を右に、次第に工業団地と呼ばれるエリアに入った。ここは製材所や、家具工場、自動車部品工場が点在するエリア。兄やん達の自動車工場にも納めている部品工場なんだと教えてくれた。

 シティに繋がるトンネルの近く、2階建ての団地の一角にある銭湯だった。

「兄やん、まだ陽が高い内に風呂いくのは初めてですよ。なんか、温泉街に旅行に来てるような気分だね?」

 バスを降り、くねくねした住宅街の路地を抜けると、やがて、大根畑の向こうに銭湯の姿が現われる。

 日光を浴びたお寺造りの巨大な瓦屋根が輝いて見える、そんな銭湯を眺めていると、我が高校時代を思い出す。

 私は高校進学とともに長野の故郷から遠く離れ、大学生の兄と東京は狛江の四畳半の下宿屋で二人で暮らし出したのだ。当時の唯一、一日の息抜きは兄貴との銭湯行だった。・・・

「おっ、やってる、やってる。よかった~」

 兄やんの指差す煙突からは、かすかに青黒い煙がたなびいていて、「亀の湯」ならぬ、「カメオ湯」が営業状態にあることを示している。

 普通、銭湯は早くても午後3時頃にならないとのれんを出さない。しかし、ここ「カメオ湯」は、終業時間は11時頃と決まっているものの、営業開始時間は3時~7時近くまでとまちまちで、その日のおやじの気分次第というところなのである。3時過ぎに早くものろしを上げているきょうの煙突は、かなりおやじの機嫌がよかったことをシティ中に知らせているようなもんだと兄やんは笑った。

 みんなでそろって踏み込んだカメオ湯はガラ空きだった。どうやら、きょうは一番風呂、「JUST!一番風呂」に踏み込んだらしい。

「野口っちゃん、誰もいないみたい。・・・いや、いた、ひとり。ほらっ、つるっぱげじいちゃんひとりだ」

と、トシがはしゃぎ気味にささやいた。

「銭湯通ってとこかね?」

「しかし、暇なじいちゃんなんだろうね、こんな時間から風呂入ってどうすんだろね?・・・

 開くの待ってたんかね?、徹夜組かな?、ハハハッ。やっぱ、じいちゃんも煙出てんの見て来たんだろうね」

と、ケンもシゲのオヤジさんまですっかりリラックスしている。

 きっと私は高校時代の記憶のままの情景をイメージして居眠りでもしていたのだろう。タイムマシーンにでも乗って当時に戻ったように、思い出が動いているような感覚を味わった。

 5人がすっぽんぽんになって浴場に入っていくと、じいちゃんは湯をうめている最中である。いかにもうるさそうな頑固じじいである。

 湯船の脇に立ち、しなびた尻をこちらに突き出して、水栓のコックを目一杯に開けている。いやでも目に入るしなびた尻の斑点模様を気にしながら、なにやってんだと覗き込む浴槽の湯は膝頭ほどしかなく、透明なしま模様が水飴のようにぐらぐらうねっていて、見るからに熱そうだ。

「野口っちゃん、こりゃものすごい熱そうだよ・・・」

 恐る恐る手に触れた湯は、ダシが取れそうなほどに熱い。そいつをこのじいちゃんは必死にうめにかかっているところらしい。

 5人は、こりゃ、しばらく水かさが増すまで待つ手だなと、湯船のタイルのへりをベンチ代わりに座り込む。

 直にタイルに触れるケツまで熱いとは何事なのか?。・・・

「兄やん、これどうしたんだろう?。なんかこんなお湯を見ていると、草津温泉に行ったときの温泉卵を思い出しちゃうよ」

「卵でも持ってくればよかったかね?、・・・この時間じゃ、まだちょっと早かったかもしれんね」

 自然と面々は悩ましげな女座りになったまま、水かさが増すのを見守っている。せめて、お尻を交互にひと山ずつタイルに着けていないと、座ってもいられなくなってきたからである。

 ところが、しばらく湯煙りを上げていたじいちゃんは、だましだまし湯を体にかけたかと思う内に、ちゃっかり湯船へ入ってしまった。

「ゲッ、そりゃ、熱くないすかね?、だいじょうぶですか?」

 思わず尋ねたトシに、じいちゃんはニヤリ、笑い返して見せた。

「そんな熱かねーさ。なんだ若いもんがだらしねー・・・」

 あらぬ方向に顔を向けながら、どうもこのじいちゃんは額面どおりのうるさ方らしい。湯船にのびのび手足を広げ、紅潮した禿げ頭はゆでだこのように赤く染まって、熱いひと風呂がたまらなく心地よさそうに「あ~っ、うあ~っ」とため息をもらしている。

 やがて、茹で上がったタコおやじが洗い場へ進み出る頃、ようやく我々は湯船に首を並べた。

「野口っちゃん、こりゃ、ワニの風呂みたいで落ち着かないね」

「しかし、すごいじいちゃんだな、ありゃあ筋金入りの銭湯通ってとこかね?」

「ワニみたいなじいちゃんですね・・・」

 いまだ湯は我々の腰ほどしかなく、体をくっきり紅白のラインを引いたようなツートンに染めている。

 昼間の浴場は天窓から西陽が差し込み、湯煙りさえなければちょっとした屋内プールのようなしゃれた雰囲気で満ちていた。ずるずると尻を前にずらしながら背伸びをしてみれば、なかなかおつな解放感もわいて来て、骨休め温泉旅行気分は最高潮である。

 思い起こせばここシティにやって来て半年近く、長いような短いような・・・、なんとなく自身の高校時代、下宿暮らし時代そのままの世の中が残っているようなエリア・・・。

 私はタイムスリップしたような感じで、様々な思い出を蒸し返しながら暮らしてきた半年間なのだった。

 脱衣場の板の間に仁王様になったような面々が上がってきた。

 水分は汗となり、すべて湯に吸い取られてしまったようで、頭のてっぺんまでカラカラにほてっている。タオルで体をふく必要もないまま、しばらくフリチン姿で突っ立っていると、中庭に面したビニールのすだれの隙間から、早くも蚊取り線香の煙りとともに風が入ってきて、わずかづつほてりを冷ましてくれる。なにか、体が軽くなったような気分がする。

 うるさ方じいちゃんはどこに消えたのやら、とっくに上がったと見え、脱衣場に姿はなかった。きっと、こんな風呂上がりの一杯はさぞかしうまいに違いない。早々家へ引き上げたじいちゃんはビールでも飲んで、相撲中継でもぶつくさ言いながら見入っているのかも知れない。・・・

 私は久々にのんびりした気持ちを取り戻し、両肩にしょい込んだ荷物が徐々に軽くなっていくのを感じながらタイムスリップ気分を味わい始めていた。

「ふ~っ、少し気持ち悪くなっちゃったよ」

 遅れて出て来たケンはそう言うなり、兄やんがたばこをくゆらすソファーにへたり込んだ。

「深い湯船に入ったんだろう?。あんまり入っていると、こういうふうにのぼせちゃうわけさ」

 その昔、私自身が兄貴に言われた覚えのあるセリフだったのでつい、笑っていると

「野口っちゃん、そりゃないぜ、セニョール!」

と、ケンがまた口癖の古いギャグで返した。


 ここは銭湯。

 ここは、明日への希望がかすかに見える場所。

 私が忘れかけていた何かがある場所。

 そして、ここはシティの銭湯。でも、あの頃と同じ時間が確実に流れている現実の世界なのだ。


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