第13話 バター&coffee
バター&coffee
バターがない。
バターがどこにもない?。
「そう、トーストパンに塗ったり、お料理に使うバターの事よ。もうここ一カ月以上になるわね。
ご存じでした?」
いつになくお隣の岡さんは語気荒くおっしゃるのでした。
「あれっ、そうなんですか?
だってシティには牛乳工場もあるじゃないですか。確かあそこの工場の中の売店にも並んでました。商店街のと同じやつでしたが・・・」
「そうよね。それが頼りにならないのよ。
なんでもバターのラインの機械が回らなくなって修理中らしいのね。バターって牛乳を根気よく撹拌させて固めるの。だからいくら牛乳が沢山あっても機械が動かないと作れないらしいの」
「バターなんか他にもいろんなメーカーが作ってるのに入って来ないのですか?」
「シティにはなかなか入らないというより、地元の工場があるから、お店はもともとよそに頼まないらしいわ。それもそうなの。わざわざ新鮮なバターがあるから一緒に並べてもあまり売れないでしょうから」
そして
「わたくし、バターが好きですの。新鮮な地元のあちらの牛乳工場のが。
よく考えると何のお料理にもほとんど使っていますわ」
とりあえず家に取って返して、私は四分の一ほど残っていたヤツをまずは進呈した。
あの沈着冷静な文子女史がまるで中学生の少女のようにわがままを口にする姿。いつも自然体であらゆる状況を受け入れ、スマートに流していくというより、自然体で馴染ませていくところが女史たる所以。スローな暮らしを身上とするナショナリストの姿に憧れを感じる私としては、実に意外で珍しい事なのだ。
遅めの朝食を終えパイプタバコで書き物を少し進めた私は、それでもと思って商店街のお店を訪ねてみることにしたのだ。
昼過ぎの商店街は人もまばらで、人影があるのはレストラン代わりのパブくらい。あとは肉屋さんの店頭にコロッケに並ぶ2、3人。いきなり閑散としたシティは映画のセットの様で、当初感じた違和感が蘇る。
きょうは特に撮影がないからエキストラも呼んでません。
なんとなく見てはいけないシティの裏側を覗いてしまった感覚でぼんやりしてしまうのだ。
やはり訪ねた2件のお店にはバターはなかった。
仕方なくぼんやりついで、たまには昼飯は外食と思った私はパブにしばらくぶりに踏み込んでみることにした。ここの恰幅の良いママさんはシティの事はなんでもご存じなのだ。
私はカウンター席に座りながら
「あらっ、しばらくじゃないの。もうシティ暮らしには慣れました?。
きょうはお食事、生ビールかしら?。きょうのランチはロールキャベツよ」
「そうですねぇ、じゃ、中生にランチセットにしてください。
シティの暮らし、のんびりしたところが自分にとても合ってるみたいです」
ここのランチのロールキャベツは味付けがはっきりしていてなかなか旨いのだ。薄めのコンソメスープかトマトスープが一般的だろうが、ビーフシチュウに近い褐色のスープに多少のカレー風味がとても食をそそるのだ。多少ひき肉も焦げ目が付いていて独特の風味が一味なのだ。
パブの料理は近年流行りの塩分控えめなど一切無視で、お腹一杯の満足感を追及しているのだ。ポテトサラダとパンがついて、パンはお替りも自由。
「ところで、聞いてもいいですか?
なんでも最近バターが手に入らないって、お隣の岡先生から聞いて、シティには牛乳工場があるのになんでかなと・・・」
「そうそう、それよ。お店の献立にも困るのよ。
なんか機械のモーターらしいわね、壊れたのよ。もう古い機械だから交換の部品もなくって直してるって、今も村山さんから聞いたところよ」
「村山さんですか?。工場のオーナーさんですか」
「社長さんじゃなくって、元の工場長さんよ。もう、引退して、ほらっ、昼間からお仲間と将棋指してる方よ」
なるほど長めの白髪頭に長年使い込んだと思われる野球帽。キャップの左右から白髪がはみ出していて、メジャーリーグのピッチャーのようだ。そして、そのキャップには乳牛のイラストが薄汚れていてもはっきり見える。
「ねぇ、ムラさん!
もう、2週間くらいよねっ?」
「なんだよママ、お尋ねはお客様かい?。
バターの撹拌機だろ、だからもう2週間くらい直してるって。2週間で直る話じゃないらしいのさ、」
「じゃ、いつ直るのさ?。ここのバターも底ついちゃったから自宅の残り持参してるんですけどね」
「はい、はい、鋭意努力というヤツで。まだわからんよ。・・・なによ、ごめんなさいね・・・」
村山さんという元工場長様はわざわざカウンターまで足を運んでくれて
「ごめんなさいね、ご迷惑おかけしてます」
ペコリ、牛のキャップを取りながら私の前に登場してくれた。
「いえいえ、私、まだ入植したばかりの者で、シティがよくわかってなくて、かえって恐縮です」
「いいや、お客様は大事にせんとです。なんしろ神様ですから。ママのお客様となっちゃ私がママに叱られますから。モーターの部品、全部ばらしてコイルのニクロム線まで巻き直してやっとります」
「実はね、バターってのは牛乳から作るんですが、いくら牛乳が沢山でもそのままじゃ固まらないのですね。工場では新鮮な乳を一晩大きいタンクに寝かして、上澄みの一番油分の濃い分離した部分だけを大おたまですくい、撹拌機というマシーンに掛けます。そしてですね、ゆっくり3時間撹拌、滑らかなペースト状になるまでね、まっ、練り上げますんじゃ。
あっしの頃にはこのマシーンが壊れると、若手が手分けしてモーター軸にベルトを何重にも掛け、当たり前の事のように滑車で引いたもんですわ。今も朝から工場に呼ばれて、『ちょっと引き方、ご指導いただけないでしょうか?』ってんで、お手伝いしてきましたんじゃ。
で、明日か明後日にはマニュアル版が少し、お店に並ぶと思います。多少は硬いところがあるかも知れませんが、本当の手作りというヤツですは」
なるほど、流石、元工場長のムラさんこと、村上さんなのだ。このお話を持ち帰れば岡さんにもご納得いただけるだろう。ただ、私にとっては、モーター毎交換とかマシーン毎入れ替えては?。そんな選択肢が一番早い復旧法に思えるのだが、こちらの牛乳工場にはさらさらそんな選択肢はないらしいのだ。それだけではなく、このシティでは何度か体験したことなのだ。
それは岡さんだったろうか、自前のハムのアンテナの篠崎さん、車工場に勤める兄やんからだったろうか。こちらでは基本なんでも壊れた物は直す。
物を大事にする?。皆さん手先が器用?。お金がもったいない?。すべて違うようだ。何か壊れれば自力で直す事しかイメージにないらしいのだ。主義なんて確立したものでなく、自然と持ち物が皆、そう。そんな直す行為が自然と気持ちがいいらしいのだ。流石、その辺りがアナログシティたる所以なのだろう。
パブで腹ごしらえを終え、家のコーヒーが残りわずかなのを思い出した。
また、ちょうど腹こなしにコーヒーをテイクアウトして飲みながら帰ろうと、シティで唯一のコーヒー豆屋さんに立ち寄った。
中瀬コーヒー店は、正確にはお休みだった。
コーヒー屋のオヤジさんは店の脇の空き地に薪ストーブを設えて営業準備に余念がない。
フライパン、中華鍋を脇に置き、用意した薪を次々ストーブに投入しては竹の筒で吹き込んでいる。とても話し掛けられる様子ではなく忙しく立ち働いている。
ここのところ店は不定期にお休みが多く、なんでも焙煎機というマシーンとミルマシーンを修理中とのこと。
先日もテイクアウト用の一杯をと訪ねると、何やら忙しそうに店内にセットしたサイクリング自転車をこいでいるところだった。
「はいっ、はいっ、今ねー、豆を挽いているんで少し後でもいいかね?」
電動のミルマシーンもとうとう動かなくなり、こんなんさ。お兄さん、悪いけどそこの青い缶に豆が入ってるからこの赤いマシーンの頭にもう少し足してくれんかい?。
苦心の末、サイクリング車の後輪から軸を伸ばしミルマシーンのモーター軸にプーリーをかませ間をゴムベルトで渡してあるのだ。
オーナーは自転車の変速機を微妙に動かしながらひたすらペダルを一定にこいでいる。
「おおっ、こりゃすごい装置やってますね」
「ごめんなさいよ。これ、一定のスピードで回してやんないと粉にむらが出るんで、1日分の豆挽き終わるまで止めない方がいいもんだから」
「悪いね、もう1缶の豆入れてくんないかい?。こいつ、機嫌のいいタイミングで挽き出したら一気にいかないといかんのよ」
「よし、よし、こりゃ、うまいわ。
しばらく手動のミルで挽いてみたが腕が続かなくってね」
そして、きょうはいよいよ薪ストーブに中華鍋をセットして、大量の褐色になったコーヒー豆を大きな木のしゃもじで煎っているのだ。
強烈なコーヒーの焦げる臭いがする。
「電動ミルに続いて、焙煎機も調子悪くなって、予約の豆のお客さんの焙煎しなくちゃならなくってね。きょうは一気に焙煎さね」
「なにしろ豆の焦げ具合の微妙な色の違いだけで、実際飲んだ時の味って大きく変わっちまう。この色だけの加減が難しいんだ。実際、自分でやってみると如何にマシーン任せだったかだ、反省しながら試行錯誤さ」
「お兄さん、そこに並んでるカップ、どれでもいいよ。よかったら飲んでみてよ」
脇のテーブルに10杯近く白いカップを並べて、手動ミルで挽いてはペーパーフィルターで飲み比べながら味に対しての焦げ色を覚えているところだという。
「そこの左側の方のカップ、今煎れたばかりだからどうぞ。味の補償は出来んがね」
「ご馳走様です。さっそく、煎り立ての挽き立てですね」
いただく一杯とはかなり苦みが強く、ただその分香りがかなり強い。
「豆の銘柄の違いと煎り方の深い浅いでコーヒーはかなり違う印象の飲み物になるね。なかなか奥が深いのさ。今さらながら勉強中さね」
「兄さん、それがフレンチという濃いめの深入りの味。右側の方のカップは浅めの煎り加減。どうかね?、ブラジルっていう一番基本のお豆さんじゃが」
ひょんなことから私は貴重な試飲(テイストと言うらしい)を楽しませてもらったのだ。
「なるほど、コーヒーの味とは焙煎加減でだいぶ違ってくるものなんですね」
こんな焙煎などという過程は知らなかった。
もちろん、豆屋さんでコーヒーを購入する時はいつもその香りやらミルで粉にしてもらった物を注文するまでは目にしているが、その前に焙煎という行為がある事。
もともとのコーヒー豆とは入荷した時は生豆という乳白色の物体で、それを今目にしている様に火で煎ることで、はじめて茶色く香り高さを放つようになる。改めてオーナーの壊れた焙煎機のお陰でマシーンの中で行われている作業内容が目にできたのだ。
「泣かせるcoffee」中瀬コーヒー店
宅の近所に豆屋さんがある。
戸建ての庭を店舗にしたような小振りなお店。細々マスター独りで営むバラックに近い小さなコーヒー店。
もともとサラリーマンの日々、判で押したような毎日が嫌になって始めたマスター。確か定休は火曜、水曜。営業時間も決まっているようだが、たまに通過するお店はほぼ電気が消えていて、豆の仕入れ、行事への参加、閉じられたカーテンからこぼれる灯りは豆の焙煎中らしい。マスターが夜まで焙煎しているのは大口の予約が入った証拠。だから私は決して踏み込みません。
私が立ち寄るのは圧倒的に夜。
コーヒー豆は常に10種類以上、焙煎具合もフレンチ、イタリアン、シティ、フルシティ。エチオピア(ゲイシャ ジャスミン)、コロンビア、メキシコ、タンザニア、パプアニューギニア、ホンジュラス、マンデリン、ブラジル・・・
しばらくぶりに立ち寄ると、マスターはなんでも、シティの図書館でコーヒー講座を開校するらしい。
図書館という場所柄、コーヒーにまつわる小説、図書も紹介予定だと言うのだ。
「何かコーヒーが登場する書き物でごぞんじないですか?」
マスターはさっそく図書館から借りて来た5、6冊をカウンターに並べて、試験勉強よろしく、読みふけっているところだった。
私は古い記憶から「コーヒー党奇談」阿刀田高 著 を紹介してみた。
物語りはアムステルダムに出張で偶然立ち寄ったサラリーマンが散歩がてら出掛けた夜霧の路地裏。偶然一軒見つけたコーヒー店。客もなく薄暗い店で、マジシャンのような奇怪な容貌のマスターがスコッチと生クリームを浮かべたグラスのアイリッシュコーヒーを飲ませてくれたのだ。
夜霧の中を小一時間歩いて来た体に暖かく、スコッチウィスキーの香りと生クリームの柔らかさ。
マスターは日本からの出張のビジネスマンと知っていきなり
「東京の美味しいコーヒーの名を付けた街で10年後に逢いましょう」
「ジャパニーズナンバーワンコーヒー、フルーマウンテン トウキョウ」
なんでも10年後のきょう、東京の青山で旨いコーヒーをご馳走したいからまた逢おうと誘われたのだ。
「そんなお話しなんですが、まあ、ブルーマウンテンと青山を引っかけたようなですね。そんなお話しなんですが、何度か読んでみて、都度、なぜか無性にコーヒーが飲みたくなるのが流石プロの作家さん。そんなお話しなんです・・・」
やがて、年の背、さっそく訪ねてみたのだ。コーヒー豆の安売りをすると聞いたのを思い出したからだ。
大体、私の一番旨い飲み方とは、偶然立ち寄り、偶然カーテンが開いていて、少量買い求めて早速飲む一杯。
私はそんな偶然に出会えないかと2日続けてお店に寄ってみた。
珍しく昼下がり訪ねたお店は、外に置かれた椅子にお客さんがひとり。30代だろうか、まだ若いお兄さん。ただただ文庫本を読みながら待っていた。その脇で私も15分程、偶然は起きそうもないと踏んで諦める。
2日目は今度はご近所の奥さん。
「困ったわね。あなたも予約された方?」
「いいえ、私は暮れに安売りするかも?と聞いて、実は昨日も・・・」
「あら、昨日も?、閉まっていたでしょう?」・・・
「まあ、私なんか、ここはなかなか飲めないコーヒーのお店かな?。それも一味ですかね?」
そう言わせたのもここのコーヒー。
たかがコーヒー。されどコーヒー。
たまに、一杯のコーヒーに元気をもらって出勤する朝がある。
たまに、飛んでもなく以前の記憶がよみがえる時がある。
たまに、数日分の疲れがリセットする瞬間がある。
たまに、「オレはコーヒーが好きなんだな・・・」改めて口が自然とそう反復する時もある。
だから、私にとっては中瀬コーヒー「泣かせる味のcoffee」なのだ。
ここ、シティとは、いろいろ知らない事や知識やら、いや、まったく未知の発見に恵まれている。
正確には元の生活や職場で使われ始めたパソコンやらスマートフォン等、新たなデジタル機器とはほとんどがブラックボックス化されてしまっている事。それに対して昔ながらのアナログ的なマシーンとは、内部のイメージや理屈さえ理解できれば、大体のトラブルは解決するものらしい。
どの方々も、物が壊れて参った様子は見せるが、いつの間にか笑顔になって修理したり手作業に移行したり、新たなゲームを楽しみ始めるような暢気さを披露してくれる。そんな人種が多いのだ。
「まあ、不便なら引っ越すね」
いつかお聞きしたセリフを思い出す。
なるほど、アナログ。それはシティ暮らしのメンバー誰もが持つ人間性の中に潜在する趣向らしい。
それが私には不思議で貴重な勉強であり、経験なのだ。
そこまで考えていく内にひとつ、解決した疑問がある。なぜ私はストレスを溜め込み、このシティへ迷い込んだのか?。
そこまで来て、今さらながら自身の元々の非デジタル性という趣向に気が付いたりしているのだ。
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