ひらめき

ニカクの漢字

のどかな坂道

 オスの三毛猫のミイは、坂の途中にある古い家の軒先で暮らしていた。ふわふわの毛並みと、左耳の小さな黒い斑点が特徴の猫だ。


 そして、ミイにはひとつだけ、不思議な力があった。


 ——人間のひらめきを盗むことができる。


 とはいえ、悪さをするわけではない。誰かがふと何かを思いついた瞬間、そのひらめきが、まるで風に運ばれるようにミイの中へ流れ込んでくるのだ。


 作曲家が新しいメロディを思いつけば、ミイの頭の中でも美しい旋律が響く。数学者が難問を解けば、その答えがふわりと心に浮かぶ。小説家が物語を紡げば、その情景がまぶたの裏に広がる。


 この力があるから、ミイはこの坂道が好きだった。


 坂の途中にある小さなカフェには、いつも考え事をしている人たちがいる。ノートに何かを書きつける者、スマホを睨みながら悩む者。漂うひらめきの気配を感じるたび、ミイはそっと近づき、それを味わうのだ。


 そんなある日。


 坂道の片隅に、一人の若い男が座り込んでいた。


 スケッチブックを開いてはいるものの、鉛筆はずっと止まったまま。苦しげな顔をしている。


 描けないんだろうな。


 ミイはそっと彼の足元に座り、じっと見上げた。


 「……描けないんだ。」


 男がぼそりと呟く。


 ミイはゆっくりとまぶたを閉じた。


 ——ひらめきを盗むだけでなく、分けてあげることはできるのだろうか?


 そう思いながら、そっと、今まで自分の中に蓄えてきた「ひらめき」の欠片を、男の足元に落としてみた。


 すると——


 男の目がぱっと見開いた。


 スケッチブックに鉛筆を走らせる。線が形を作り、やがて一匹の三毛猫が現れる。


 「……ああ、そうか。この坂道と、猫と、そして……この空気を描けばいいんだ!」


 男の顔に、ぱっと光が差したような笑顔が浮かぶ。



人間って単純だな、けどそこがいいんだろな。



 ミイは満足げに尻尾を揺らし、静かに坂を歩き出す。


 ひらめきを「盗む」ばかりではなく、それを「与える」ことができるのなら——。


 それはきっと、もっと素敵な力なのかもしれない。

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