本編用原稿
僕は、まもなく三十五歳になる。
だが、実際の僕は、外資系銀行の中枢に籍を置いていた。父の莫大な遺産と自らの才覚を武器に、虎ノ門の高層マンションで、失われた時間の回廊を埋めるように、優雅な独身生活を謳歌していた。
女というものは、たとえ偽りであっても甘い言葉を囁けば、すぐになびくものだとうそぶいていた。
金も女も時間さえも、すべてが僕の掌の中にあると思っていた。いつしか気づかぬうちに、禁断の扉を開けていたのかもしれない。
大学時代、たった一度だけ本気で人を愛したことがある。彼女は白血病に倒れ、僕の腕の中で息を引き取った。その瞬間からだ。誰かを深く愛することに、心が怯えるようになったのは――。
心の奥にそっと開いた禁断の扉の前で、僕は立ち尽くしていた。進むことも、戻ることもできず、『かりそめ』の人生を繰り返すしかなかった。
金は黙っていても入ってくる。一夜限りの女たちと交わし合う偽りの恋。幾度となく心を売っても、魂は無傷だと自分に言い聞かせていた。悔いなど、ひとかけらもなかった。
「天は二物を与えず?」
――違う。僕は、余りある祝福を与えられていた。金、顔、地位、そして、鏡に映る自己愛までも。それらはあまりに眩しく、誰にも僕の「影」は見えなかった。
だからこそ、僕は笑っていられた。虚空を裂くように。『空虚な怪物』としての、僕なりの矜持だった。
あの夜も、六本木のクラブは宵闇に照らされ、ナンパした女たちへの虚栄とシャンパンの泡が混ざり合う舞台となっていた。
儚い出会いを讃えるように、ドンペリのボトルが次々と空き、コルクの栓はまるで夢の終わりを告げるかのように宙を舞った。
「早く戻ってきてね」
甘くなまめかしい声を背に、化粧室へ向かった。そのとき、不意に鏡の中の自分が、まるで他人のように見えた。
……なんだ、これ。
目の下には滲む影。抜けかけた髪。灰色にくすんだ肌。指先で頬に触れると、冷たく、ざらりとした感触が返ってきた。
翌朝、死神に背中を押されるような不安に駆られて、病院に向かった。
「内臓全体に、急速な老化の兆候が見られます。このままでは……」
医師の言葉は遠く、現実の輪郭がぼやけていった。
気がつけば、鬼灯が揺れる裏通りを彷徨っていた。そこで、ひときわ古びた薬局の灯が目に入った。
看板には滲むような文字が刻まれていた。
――回春堂。
扉を開けた瞬間、薬草の匂いが鼻を刺し、空気の質が変わった。そこはまるで、時の流れから切り離された異界だった。
「……来ましたね」
低く湿った声。現れた老婆は、黒いガウンに身を包み、枯れ枝のような手に杖を握っていた。瞳の奥は深い森のように澄み、背後には瓶、古書、干からびた鬼灯が無造作に積まれていた。
「あなたの中に棲むもの……それは『悔い』です。医者には治せませんよ」
老婆は、小さな瓶を差し出した。青白く光る液体が揺れている。
「一日だけ、この『真回春丸』で若返ります。お試しなので、代金はいただきません」
その夜、帰宅して急いで薬を飲んだ。煙草に火を点けた瞬間、肌に潤いが戻り、髪が艶めき、頬に生気が宿った。
「……これは、本物だ」
虚空の影のように忍び寄っていた老いが、たしかに払われた感覚があった。
しかし、翌朝。若さは跡形もなく消えていた。回春堂も、街から影ひとつ残さず消えてしまった。まるで最初から存在しなかったかのように。
数日後、ふと立ち寄った蚤の市で、黒い布の奥にあの老婆がいた。
「お待ちしておりましたよ」
今度は、少し大きな、赤く濁った瓶を差し出された。
「これが鬼灯を煎じた本来の真回春丸。一年間、毎日欠かさず服用すれば、真の若返りが得られます。ただし――」
「代償は?」
老婆は、まるで愉しむように微笑んだ。
「若さとは、『今』に縛られること。永遠とは、時の流れを拒絶すること。……代償は、あなたが刻んだ時間です」
「時間とは?」
「あなたが生きてきたという痕跡。そのすべてが、少しずつ剥がれ落ちるのです」
僕は迷わなかった。札束を差し出し、薬を受け取った。ひと月、何も変わらなかった。三ヶ月で目元が明るくなり、半年で肌が蘇った。十ヶ月後には、二十代にしか見えない若さを取り戻していた。
そして誕生日の夜、奇妙な夢を見た。
闇のトンネルの先に、黄金の扉が輝いていた。開けると、絢爛たる楽園。美女たちが微笑みながら僕を迎える。
だが、背後から冷気を感じる風が吹いた。闇の底から無数の手が伸び、僕を引き戻そうとする。
「まやかしの愛で、私たちを裏切ったわね」
それは、かつて僕が弄んできた女たちの声だった。涙と怒りと哀しみが入り混じった瞳で、彼女たちは僕を責めた。
「すべて、あなたのせい……」
彼女たちの手が、僕を闇の世界へと引きずり込んでいく。底なしの奈落。無限の暗黒。
目を覚ました。午前0時。
若さは、そこにあった。だが、僕の記録は――すべて、失われた時間の回廊に落ちていた。履歴書、SNS、過去の写真、友人の記憶。僕の存在を証明するものは、何ひとつ残っていなかった。
「回春の叫び……まさか、僕のことだったのか」
鏡を覗き込んだ。けれど、そこには誰も映っていなかった。僕という存在は、虚空に溶ける影のように、跡形もなく消えていた。
真回春丸――それは、若返りの媚薬などではなかった。魂をまるごと時間の流れから引き離し、やがて、生まれる前、いや、『始まりすら存在しない無』へと還す薬だったのだ。
夜明け前、空気が止まったような静寂の中で、蚤の市の隅に立つ老婆が、小さな揺りかごを覗き込んでいた。そこには、産声ひとつあげぬ赤子が、静かに眠っていた。
「ふふ……またひとり、時間の輪から零れ落ちましたね」
老婆は、さらに続ける。
「魂にだけは、罪を背負わせたまま、終わりなき時間軸を生死の環の中で巡らせてあげたのですから、感謝のひとつもあって然るべきでしょう」
彼女は言い終わると、優しく微笑んだ。その背後、一枚の銀札が、古びた書物の山に埋もれるように、ひっそりと輝いていた。
《時還師ラミア/転生者の管理記録第4949号》
「今度は、どんな人生を選びますか、氷室蒼涼さん」
それは、ラミアの声のようでもあり、誰か別の者のささやきのようでもあった。
(朗読用台本へ続く)
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